引くなよジョーカー

旧友がへらりと笑っているのを目撃した。

「嘘だろ」

思わずつぶやいてしまったのは仕方ない。慌てて口を抑えて周囲を確認したが、誰も不審に思う人はいないようだった。ほっと息をついて目的地に向けて歩を進める。
日本と中国の仲が悪くなる中、上海で日本の友人に出会うなんてそうそうあることでもない。さらに言えば連絡を取らなくなって随分な期間が経っている、まさに奇跡的な確率だといってもいい。

声を掛けるべきかと脳内の自分が囁いたが、それだけはダメだと自分を戒めた。相手は記憶力がいいやつだったけれど、二十年は下らないほどに疎遠だった人間を覚えているとは思えない。
そもそも友人といっても相手にとっては数いる人間のうちのひとりだ、大して濃い印象なんか残ってないだろう。むしろ忘れていてくれ。

はあ、誰も拾わないようなため息をついて夜道をふらふらと出歩けば、そこらにいた物乞いが胡乱げな目を向けてくる。酒に酔っ払ってる体で歩いているのだからそれでいいのだ。

「そぉーれ、よいよい」

特に意味を含むわけでもない言葉をつぶやいて、あっちへふらふら、こっちへふらふら。
近場にいた物乞いは嫌そうな顔をしているが、知ってるぞ。今俺のポケットから貨幣を盗んだろ。
物乞いにとっては貨幣より即物的なもの―たとえば食料とか―のほうがよほど価値があるだろうに、盗ったやつは不憫だな。盗られた俺も不幸の一言に尽きるが。

一円を笑うものはどうとか聞いたことがあるような気もするけど、いちいちそんなことを言って絡んでちゃあ仕事はやっていけない。ちらりと物乞いに目をやれば、そこには軽く頷く人間がいた。あ、物乞いじゃなかったんだ、こいつ。
それからもふらふらとあてもなく彷徨って、それからようやく目的地にたどり着いた。

「もしもし、いらっしゃいますか」

ノックを二回、一声かけてもう三回。しばらくして開いたドアの向こうには散々見慣れた顔があった。どこか不機嫌そうな表情をしている。
繰り返して覚えた作法で部屋に入れてもらえば、相手は部屋の一等奥へと向かう。こちらに座席を指定させないのはいつものことだ。
カフェーに寄る、しかも辺鄙で合言葉が必要な場所を好む客なんてそういない。いても仕事が不定期で、混んだり空いたりする時間はまちまちなのだ。

酔っ払いのフリをさっさとやめて席に座る。不機嫌な顔をしていた相手は向かいに腰を下ろし、「で」と短く問いかけてきた。

「憲兵隊だってよ」
「他は」
「アンタが使ってた賭博場が潰れた」
「んなこたぁ知ってる」
「はいはい。またイイとこ教えてやるよ」

一見さんお断りだがね。
相手の機嫌が悪いのは賭博場が潰れたからだということは自明の理だ。まったく、これだから欲望に任せて動くやつは。俺も人のことは言えないけど。
違法賭博でもやって捕まってくれないかなーと思って場所を教えたのに、目の前の男はどうやら相当に悪運が強いらしい。

名前を変えてもう何年か経つが、男とは随分と長い付き合いになるだろう。割と古参な客だけあって仕事が断りにくく、相手もそれを利用して格安でこっちを雇おうとするから、こっちの商売は上がったりだ。
体裁上「捕まってくれ」なんて言葉を言えるはずもない。言ったらこっちが訴えられる。しかも安っぽい席で話しているとはいえ、一応どっかの重鎮の位置に腰を据えているらしいし。

欲にまみれた人間ってのは本当に嫌なもんだねえ、内心で思っていることをおくびにも出さずへらっと笑ってやった。相手がどう思ってるのかは知らない。
次の賭博場を教えてやると、男は情報に釣り合わないほどに少ない金貨を机に置いて笑みを浮かべた。薄汚い笑顔なんざ腹の足しにもならないのでやめてほしい。むしろ害悪にしかならない。

「そういやよ、前の抗日テロ、なんか怪しい人物が街をうろついてたって噂だぜ」
「怪しい?」
「雰囲気は普通なんだが、どうも足取りがタダもんじゃあねえ。憲兵が二匹イっちまった事件あったろ、あれにも関与してんじゃねえかってよ」
「へえ…」

賭博場と絡んでの事件だったことなので一応記憶しているが、まさかそれに関わる人間がいるとは。日本の憲兵の汚点を自ら晴らすようなものだったらしいけれど、関わった"怪しい人間"とは日本人かね。
まあ、どっちにしても、出来うる限り関わらないのが一番だ。

「お前も日本人だろ。心当たりとかないのか?」

酒を煽り、いささか機嫌良くなった男の問いかけに眉を顰める。心当たりねえ。

「あるほうがおかしいな」
「違いない」

日本人全員が知り合いなわけでもなし、心当たりがあったら気持ち悪いにもほどがある。俺は俺を憲兵に引き渡すぞ。
それにしても、自分は飲むくせに俺には酒を一杯も出してくれないあたり、こいつのケチくささが目に付くってもんだ。ただでさえ支払いが少ない状況でやってるってのに。

絶対俺のことを下に見てるな、そんなことを考えながら店員を呼ぶため背後を振り返る。

「おや?」
「…え」

体が固まった。バッチリ目が合っている。
脳内で警鐘が鳴り響く。眠たげな半眼は昔と違うのに、そいつだとわかるのだ。なぜなら先ほど大通りで見たから。こいつが笑う姿を、何かを調べるようにカメラを回していた様子を!

まずい、非常にまずい。カフェーの客は足運びが不定期だからと油断していたのが一番悪かったかもしれない。こいつも利用している場所だったなんて。
一瞬驚く素振りを見せたそいつはすぐに表情を直し、通りで見た朗らかな笑顔を浮かべた。

「お久しぶりですねぇ、そちらの方は?」
「名前、知り合いか?」

冷や汗が背中を伝う。名前が違うことがバレんだろ、なに軽率に口にしてんだよ。もう二度と仕事引き受けないからな。
血の気が引いているこちらのことなど露知らず、返答をしない俺の代わりに「塩塚朔と言います。彼とは古い友人でして」なんて勝手に関係を捏造している男。

ここで幸いだったのは、名前が違っていることはまだ言及されないらしいことだけだ。
顔を覚えていただけで名前を忘れていたか、そっくりさんがたまたま俺と同じ名前だったか。どっちも可能性としては低いが賭けるしかない。

がた、がた、使い古された机が揺れている。向かいに腰掛けていた男が不満の声を上げたことで、揺れが俺の体の震えからくるものだと自覚した。震えを止めたいなら気安く話しかけてきた男を今すぐ追い返せ。
ええい、向かいの男は捨てろ。とにかく逃げなくては。
広げてすらいなかった荷物をつかもうと足元をまさぐるが手応えがない。まさかとにこやかに笑う男を見ると、そいつの手元に、俺の荷物が。

「久しぶりに会ったんです。家でゆっくり話しましょうよ、ね?」

名前さん。
今の名前を呼ばれて弾かれるように顔に視線を上げると、そこには変わらず愛想を振りまく好青年の顔があった。けど俺にはわかる、その目に込められた感情と、男が伝えたい言葉を。

「(あっ俺終わった)」


引くなよジョーカー
(向こうが俺に気づかないはずがなかった)