26回目の鉄紺

「佐久間さん、お暇でしたら一緒にご飯行きませんか!」
「遠慮しておく」

通算25回目の負けである。

軽やかに去っていく背中を見送り、後ろを振り返る。すぐそこの階段を降りてきたらしい、神永が肩を震わせるほど笑っていた。最悪な事象に最悪な奴が出てきて、これまでになく最低な気分を味わっている。
貴様にとっては隠しきれないほど笑える出来事でよかったな。足を蹴ってやれば、男は簡単に床へ倒れ込んだ。

こけてもなお笑い続けているそいつを冷めた目で見てやる。人のことは言えないが、こいつ、スパイとしてやっていけるんだろうか。
他人の不幸は蜜の味。そんな言葉を口にしても違和感がない人間が腐るほどいる場所だ、今更「笑うな」とは言わない。言うだけの僅かなカロリーでさえもったいない。

「貴様、これで何回目だ?」

神永を捨てて寝所に帰ろうかと考えていたところで、同じく階段を下ってきたと見られる波多野が呆れ混じりに聞いてきた。最初も言ったように25回目だ。

「く、ふふ、ふ、にじゅ、ごほっ」
「…」
「…正直、神永ほどじゃないが、ドン引きしてる」

神永は笑っているだけだろう。
ドン引きか笑いかはさておき、波多野の言い分はもっともなことだ。自分たちは何にも囚われず、進んで誰かを手にかけることなく、そして自死を選ばない思考を持たねばならない。僕の行動は、佐久間さんに囚われていることを明確にしている。

というより、その思考がなかったとしてもドン引き案件である。僕もほかの人間がやっていたら距離をとる。関わりたくない。
考えたら、こうして話しかけてくれるだけ波多野は優しい人間なのかもしれない。それが波多野という人間のカバーなのかはさておくことになるが。

波多野とのやり取りでまた笑いがこみ上げてきたのか、一向に収まらない笑いに苦しめられている神永を踏みつけた。五分以上笑い続けると死ぬというのが本当なら多分神永は死ぬだろう。
僕を侮蔑の目で見ていた波多野も口出しはしなかった。

「僕だって、まさかここまで入れ込むなんて思わなかったさ。感情っていうのは想像以上にままならない」
「それを御するのが、俺たちにとっての当たり前だ」
「理解している」
「いいや、貴様はなんにもわかっちゃいない。感情をむき出しにしているのがいい証拠だ」

わかっている。誰かに囚われてはいけない。囚われることは自分の弱点を作ることと同義だということくらい。感情のセーブもできないスパイはただのお荷物になる。
この感情は自分にとっての弱点だ。不要で、無意味で、今すぐ淘汰されなければいけないものだ。

だが、それでも、だ。
この建物の中には僕たちと結城中佐と、当人である佐久間さんがいるだけ。油断をしているわけではない。しかし、こんな弱点をおいそれと口にするほど浅慮な人間はここにいないのだから。
少しの間くらい、背筋がまっすぐ伸びた男に憧れていたっていいじゃないか。

「どうせ佐久間さんは戦場行きだ。じきに記憶も風化する」
「本当に?」
「万が一風化しなかったとして、この僕がヘマをするとでも?」

床で笑い転げていた神永が腹を押さえている。笑いは収まったのか定かではないものの、とりあえず生きていることは確実だった。ちっ、と、内心汚く舌を打った。
任務には支障をきたさない。それは本当にスパイ活動においても当然かつ最低限の行為で、しかし実践するのは難しい。己の感情を知り、相手の感情を読み取り、自らの望むネットワークを作り上げて操ることが僕たちの仕事だ。

あの人に憧れこそすれ、これまで培ってきたものを崩すほど溺れちゃいない。落ちぶれてもいないのだから、他ができることを僕ができないはずがない。
にたりと笑って波多野に挑発的な視線をやれば、波多野はその眠そうなタレ目を瞬かせたあとに口を開く。

「貴様はそう言う奴だったな」

そうだ。微々たる差であっても、僕は機関生の中で一等優秀な人間だという自負を持っている。主観でなく客観視してもそれは変わらない。それは僕の中では事実なのだから。

「二人ともさぁ、話終わった?俺、そろそろ冷たい床とハグはやめたいなあ」
「女に渡す熱を床にも分け与えてやればいいじゃないか」
「いくら俺でも、床は専門外なんだけど」
「フェミニストの名が泣くぞ。今夜はここで一晩過ごしてみればいい、床の気持ちも理解できる」
「もー充分理解できたよ」

ナマエは俺に冷たいんだから、と、人の言葉を無視して起き上がる神永を睨みつける。最初に煽ってきたのはそっちだろう、言いがかりをつけてもらっては困る。

それにしても、佐久間さんが戦場に行くまでにちゃんと食事に誘える日が来るんだろうか。戦場から帰ってこられる確率は限りなく低いし、せめてちょっとした思い出がほしい。
さすがにゴードン邸でのハラキリショーを最後の思い出にされるのは遠慮願いたいところなのだ。

先程から小言ばかりを口にする神永の言葉をほぼ全て聞き流し、次に佐久間さんを誘う計画を立てる。次は予定の空いている日を聞けばいいのかもしれない。
果たして佐久間さんは予定が空いている日はあるんだろうか。意外に忙しなく動いているから、駄目であれば潔く諦めるしかない。福本の飯も美味いから、無理矢理にでも時間を合わせれば食堂でも許容範囲に入る。

よし、決まった。次こそ成功させてみせ、

「ナマエ、」
「ぶぇっ!?」

いきなりかけられた声に変な言葉が出てしまった。なんたる不覚、仮にもスパイが、後ろから迫る気配に気づかないなんて。
慌ててそちらに体を向けると、なんとそこにいたのは佐久間さんだった。さっき結城中佐のところに向かったのに、いつの間に戻ってきたんだ。

佐久間さんを目で捉えてから固まった体。視線を向けられた当の本人は、僕の様子を不思議に思ったのか、眉をひそめて首をひねっていた。何があったか聞いてくれるなと念を送りたい。しまった、既に送っていた。

「…明後日の夜、用事はあるか?」
「へ、え、な、ないですけど」
「そうか」

不思議に思いながらも問い詰めてこなかった佐久間さんに感謝した。ありがとう佐久間神。神様なんて信じていないが、佐久間さんはまさに女神のように思えた。男だけど。
詰まりづまりの返答でもよかったのか、佐久間さんは一つ頷いて言葉を続けた。

「では、その日の晩は俺にくれ」


一緒に戦地で散ろうか血迷った思考が頭を飛び回る僕の後ろで、やりとりを見ていた神永がまた爆笑をしたのは想像に固くないだろう。
真っ赤になった僕の顔を見た波多野がまた呆れたように「本当に大丈夫か?」と、不安そうな声をあげるのもまた、予想ができる展開だった。


26回目の鉄紺
(佐久間さんを見た最後の日)