どうしても感情は平行線

「私の杖!」

ブリジットが耳にした音が幻聴でなかったということに気づいたのは、一人の少女がこちらに向かって走ってきてからである。
軽やかな歩調で近づいてくる少女に、カルロスはひらりと手を振ってあいさつをした。

「おはようございます」

ここで付け加えておくと、先ほどの授業は午後に行われたものである。罰則の掃除もそれなりに手間暇をかけているため、昼といえる時間もとうに過ぎ、もはや夕方を超えて夜になりそうな時間帯だと予測できる。
カルロスの言動がちぐはぐなものであることは周知の事実であるので特に突っ込むこともしなかったが、少年のことをブリジットは何とも言えない表情で見つめていた。

息を切らし、白雪のような肌をリンゴ色に染めた少女は、ブリジットが持っていた杖に手を伸ばした。しかしそれは杖をつかむ前にびしりと固まり、すぐに引っ込められる。

「えーと、見つけてくれてありがとう。それ、私の杖だと思うんだけど、よかったら返してもらえない?」

ためらいがちの申し出に、カルロスは特に考えることもなく「いいですよ」と返した。元々は少女の持ち物だったらしいから、返さないという選択肢は頭の中から除外されている。
ブリジットの手によって返された杖に少女はほっと息をつき、しかし黒く染まった先端を見るや否や、あっという間に目に涙を浮かべてしまった。

「杖が…」
「あー、すいません。ちょっと薬がついちゃって」

今にも決壊しそうな涙の膜をもろともせず、申し訳ないという誠意が見せられないような謝罪をして、少年は前にいた少女にぺしりと叩かれた。
その様子に耐え切れなくなったのか、とうとうそのブルージルコンの瞳から大粒の涙をこぼした。

「カルロスくん」

咎めるような視線と言葉をもらい、カルロスは少し居心地の悪さを感じながら返事をした。カルロスは彼女たちの気持ちが全くと言っていいほどわからなかったが、咎められたということはまあ、悪いことをしたのだろう、程度には考えていた。

とはいっても少年は困った。
今回煎じた薬は特に害を及ぼすものではなく、杖に対する影響も全くと言っていいほどないと知っていたからである。机や床についた薬の残骸だって、本当は放っておいても明日には元通りになるのだ。

あまり他人に関心をよせないカルロスとしては、白銀の髪を持つ目の前の少女が泣こうが怒ろうが、大した問題ではない。疎まれて遠巻きにされるのはすでに慣れっこだからだ。

ただ、最近行動を共にするようになった少女に嫌われるのはいささか忍びなく思っている。
彼女は何を思ってか自分と友人という関係を結んでくれていて、それを裏切るのは不義理だろうという考えがあった。
この薬を放置して帰らなかったのも、彼女が掃除を手伝うと控えめながらに進言したからというだけである。時間が有限などとはまったく思わないので暇つぶしがてらの了承だった。

カルロスはよくわからないままに泣いている少女に手を伸ばし、軽く背中をたたいてやる。

「大丈夫です、混乱薬とはまた違った効能なので、杖も混乱してませんよ」

少女は泣きやまなかった。

「混乱しないだけじゃダメなんですか」

それが当然とは考えていない口ぶりに、様子を窺っていたブリジットの目に呆れの色が広がっていく。
思ったことをすぐに口にする癖も、自分の常識が当然だと疑わない態度も、彼が人を遠ざける要因だろうことは容易に察せられた。大体、杖が混乱するだなんて話は聞いたこともない。

しょうがないですね、そんなことをぼやきながらカルロスが懐から何かを取り出す。細い棒状のものを見て、ブリジットはぎょっと目を見開いた。

「清めよ」

呪文が唱えられ、棒が正確に杖に向けられると同時、先端を染めた黒が一瞬で白い木肌に戻る。机や床も同じように棒が振られ、黒が消えていった。
ブリジットにとって、カルロスがその呪文を覚えているのは大した問題ではない。いくら記憶力がなくとも、研究に必要なものは覚えていると聞いたばかりである。問題は、手に持っている棒状のもの…考えが正しければ、誰かの杖だが。

「カルロスくん、あの…それ、」
「僕の杖ですよ。先生に叱られたときにちょっとちょろまかしてみました」
「そうじゃなくて」

見間違いであってほしいと思いつつ絞り出された声。カルロスの持つ杖は自分や泣いていた少女よりもはるかに短く、いささか不格好な形をしている。
折れたの?
ブリジットは自分の声が震えていることを自覚した。少年はいちもにもなく肯定した。

「転んだら踏んでしまって。使えるので気にしなくてもいいでしょう」

むしろ使いやすくなったんですよと言い切られて、ブリジットは今度こそ言葉を失った。折れた杖を買い換えることさえしないほどぶっ飛んでいるとは。困窮しているのならまだ納得できるが、彼の言葉からして金銭が関係しているわけではなさそうだった。
すっかり汚れも落ちた杖から意識を逸らした少女も、折れた杖を堂々と使ったカルロスを信じられないといった表情で見つめている。杖を盗んだも同然の発言も拍車をかけているだろう。

杖が折れたから使いやすくなったなんてことはまずない。前例はあるにはあるが、大抵であれば魔力の逆流が起きたりしてまともに魔法が使えなくなるのだ。
使う人間が使う人間なら、持ち主を選んだ杖もまた変だったりするのかもしれない。
絶句する二人の様子を知らぬ存ぜぬと流した本人は、しかし部屋の外から聞こえてくる足音には気づいたようで、素早く折れた杖を隠して普段と同じ笑みを貼り付ける。持っていたモップは水の入ったバケツに突っ込んだ。

数秒の間が空いて勢いよく開かれたドアに、二人の少女が顔を向けると、そこには普段よりも眉間のしわを増やした魔法薬学教授がいた。