指定された待機場所へ入ると、耳郎はすぐに壁際まで歩いていった。訓練棟の外から見えていた窓の数を思い出すように一度天井を見上げ、それから耳たぶのジャックを指先で持ち上げる。凛も隣へ寄り、壁に貼られた簡単な見取り図を覗き込んだ。建物は数階建てで、廊下の両側に同じような部屋が並んでいる。目標物がどこに置かれているかは分からない。
「アタシ、壁伝いなら中の音ある程度拾えると思う。最初は場所探した方がよくない?」
「じゃあ耳郎が探して、私が前?」
「たぶんそれが一番早い。押切、速いし」
「了解。見つけたら行く」
「一人で行きすぎないでよ」
「分かってるって」
返事をしながら、凛は手袋を引き上げた。さっきまではコスチュームを着ているだけで新鮮だったが、これから実際に人を相手に動くと思うと、同じ格好でも少し感覚が違う。緊張というより、早く始まらないかなという気持ちの方が強かった。
開始を知らせるオールマイトの声がスピーカーから響き、二人はほぼ同時に入口を抜けた。
建物の中は外から見るより狭かった。廊下にはいくつも角があり、扉の開いた部屋と閉じた部屋が交互に並んでいる。耳郎が壁へジャックを差し込み、数秒じっとしたあと、奥を指した。
「上。二人ともいる。たぶん三階か四階」
「早」
「音あるからね。片方、結構動いてる」
「瀬呂じゃない?」
「かも。もう一人はあんまり動いてない」
それなら目標の近くに八百万が残り、瀬呂が途中で止めに来る可能性が高い。そう考えながら、凛は正面の突き当たりを見た。見取り図どおりなら、目の前の壁の向こうは階段へ回り込む廊下だ。普通に進めば一度角を曲がることになるが、ここを抜ければそのまま近道できる。
「これ、こっち抜いた方が早くない?」
「え?」
耳郎が聞き返すより先に、凛は壁の前へ出た。空気を一気に集め、壁面へ押しつける。昨日の五十メートル走ほどではない。人へ向けるわけでもないし、このくらいなら問題ない。できそうだと思った途端、自然と口元が緩んだ。
「いけるいける」
「ちょ、押切――」
耳郎が止めるより先に圧を解放すると、鈍い破裂音が廊下へ響いた。壁の中央が大きくへこみ、そのまま向こう側へ崩れ落ちる。開いた穴の向こうに別の廊下が見えたが、同時に細かな破片と白い粉がこちらへ吹き返してきた。
凛は腕で顔を庇い、横では耳郎が咳き込みながら一歩下がった。粉が落ち着くのを待って穴の向こうを覗くと、本当に見取り図どおりの廊下が続いている。凛は思わずまた笑った。
「……いけた!」
「いけてないから! アタシまで巻き込むな!」
「ごめん、思ったより飛んだ」
「思ったよりで済ますな!」
耳郎が肩についた粉を払い落とす横で、凛も髪を軽く叩いた。
「でも近道にはなったよ」
「そこだけな!」
怒られながら穴を抜ける。床には壁の破片が散っていて、凛は大きいものを跨ぎながら、次からは耳郎の位置を見て出力を決めようと頭の隅へ置いた。
二階へ上がる手前で、耳郎が急に足を止めた。ジャックを壁へ当てながら片手を上げたので、凛もその場で止まる。
「来る。上から」
「瀬呂?」
「たぶん。階段のすぐ向こう」
耳郎が言い終わるのとほぼ同時に、階段の上から白いテープが伸びてきた。凛は横へ身体を倒して避け、壁へ手をついて姿勢を戻す。続けて飛んできたもう一本は足元を狙っていた。
「うわ、早っ」
「言ってる場合?」
階段を一気に駆け上がると、踊り場の向こうで瀬呂が次のテープを構えていた。凛は床へ圧をぶつけて前へ出る。直線なら瀬呂より先に届く。そう思ったところで、視界の端に別のテープが走った。
壁から壁へ斜めに一本、その奥にももう一本。さっき撃たれたものとは別に、廊下の途中へあらかじめ張られている。
「うわ、何これ!」
「そっから先、簡単には通さねえぞ」
瀬呂が笑いながらさらに後ろへ下がる。テープは胸の高さだけではなく、膝より下や頭上にも何本か渡され、その先では壁際に見覚えのない細い支柱まで立っていた。瀬呂のテープはそこにも巻かれている。
「ヤオモモか」
「たぶんね」
追いついた耳郎が答える。八百万が先に支点になるものを作り、瀬呂がそこへテープを張ったらしい。廊下自体は通れるのに、まっすぐ走れる隙間がほとんどない。
「まとめて飛ばす?」
「さっきみたいなのはやめて」
「分かってるって」
凛は手を上げ、手前の一本へ狙いをつけた。あれだけ細いなら大きな圧はいらない。壁に貼りついた根元だけ飛ばせばいい。
空気を小さく集める。さっき壁を抜いた時よりずっと狭い範囲に押し込め、右側の接着部分へ向けた。弾けた空気が壁を叩いたが、狙った場所より少し左へずれ、テープ自体が大きく揺れただけで根元は残った。
「あれ?」
「外れてる」
「見れば分かる」
もう一度、今度は少し右へ寄せる。圧が当たった瞬間、テープの根元ではなく、その横に立っていた支柱が傾いた。巻きついていたテープが一緒に引かれ、別の一本まで位置を変える。
「押切、待って!」
耳郎の声に凛が手を止めると、さっきまで頭上にあったテープが斜めに下がり、耳郎の肩の高さまで来ていた。
「……ごめん」
「これ、雑に触る方が面倒になるやつじゃん」
「広くやった方が早いんだけどな」
「だからアタシがいるって」
耳郎はそう言いながら壁へジャックを差した。数秒後、廊下の奥を指す。
「瀬呂、向こう。今離れてる。右側の下、一本だけ隙間ある」
「行ける?」
「押切なら。アタシは後から行く」
凛は腰を落とした。テープの間に身体一つ分より少し狭い空間がある。全速力は無理だが、身体を低くすれば通れる。
床へ圧を置き、小さく蹴る。身体が前へ滑るように出て、一本目を肩でかわし、二本目の下へ潜る。三本目が近づいたところで壁を蹴って角度を変え、そのまま最後の一本を抜けた。
「行けた!」
振り返ると、耳郎もさっき見つけた隙間を使いながらこちらへ来ていた。自分一人なら正面から無理に抜こうとしていたかもしれない。凛が口を開きかけたところで、耳郎の表情が変わる。
「押切、後ろ!」
振り向いた時には瀬呂のテープが横から飛んできていた。咄嗟に腕を引いたが、一本が手首へ巻きつく。そのまま強く引かれ、身体が横へ持っていかれた。
床を踏み直して耐え、巻きついた部分の近くへ圧を当てる。テープだけを外したい。だが焦って狙った圧は手首より少し先へ抜け、壁を大きく叩いた。
「また外れた!」
「うるさい!」
瀬呂の笑い声へ返しながら、凛は今度は腕ごと強く引いた。引かれるなら、その勢いを使えばいい。途中で足元へ小さく圧を置き、一気に距離を詰める。瀬呂が目を見開いたところで身体を捻って足を振り上げる。その間に耳郎は壁際へ寄り、ジャックを差し込んでいた。
瀬呂は咄嗟にテープを離して後ろへ跳んだ。蹴りは空を切ったが、手首は自由になる。
「危なっ」
「そっちが先に巻いたんでしょ」
耳郎がジャックを抜き、そのまま凛の横を駆け抜けた。
「押切、こっち! ヤオモモ動いた!」
瀬呂を追うより先へ進んだ方がいい。凛はすぐに耳郎を追った。
三階へ上がると、廊下の様子はさらに変わっていた。目標のあるらしい部屋へ続く一角だけ、簡単な板や棒で通路が狭められ、その間に瀬呂のテープが何重にも渡されている。見ただけならさっきと同じだが、今度は避けて通れる幅がほとんどない。その奥には八百万が立ち、手に細長い棒を持って凛たちとの間に距離を取っていた。
「ここまで来ましたのね」
耳郎がすぐ壁へジャックを入れた。
「目標、この奥。すぐそこ」
「すぐそこなのに行けないの腹立つな」
「あとそんなに時間ないよ」
壁のスピーカーから残り時間が告げられ、凛は正面を見た。まとめて吹き飛ばせば、たぶん通れる。さっきの壁と同じ出力なら、この程度の板もテープも一緒に崩せるはずだ。
ただ、それをやれば隣にいる耳郎まで確実に巻き込む。八百万へ破片が飛ぶ可能性もある。
「……右端、一本だけ外せたら通れそう」
「どれ?」
「あの支柱に巻いてるやつ。上から二本目」
耳郎が指す。凛は目を細めた。そこだけ外せば、人一人分くらいの隙間ができる。
空気を集める。大きくする必要はない。支柱の付け根より少し上、テープが巻きついている一点だけを狙う。
放った圧は支柱をかすめたが、外れない。
「もう一回」
今度は少し下へずらして圧を当てる。一本のテープが切れたものの、狙っていたものではなかった。張力を失った別のテープが垂れ、逆に隙間を塞いでしまう。
「くっそ」
「押切、瀬呂も戻ってくる!」
耳郎が壁からジャックを抜く。背後の階段から足音が近づいていた。凛はもう一度正面を見る。残り時間は少ない。細かく狙い直している余裕はない。
「耳郎、私先行く。空いたら来て」
「そこ通れんの?」
「たぶん」
「たぶんで行くなって!」
止められる前に床を蹴った。完全な直線ではない。身体を捻りながら一番広い隙間へ入り、肩を一本かわす。腰の横を別のテープがかすめ、足元へ圧を置いて角度を変えたところで、右足首に強い抵抗がかかった。
いつの間にか低い位置へ張られていた一本に引っかかり、勢いのまま身体が前へ傾く。手をつく前に圧を床へ入れて姿勢を戻そうとしたが、今度は出力が強すぎた。身体が斜め上へ跳ね、そのまま肩が板へぶつかる。
「押切!」
痛みより先に、時間終了を告げる音が建物中へ響いた。
凛は板へ肩を預けたまま動きを止めた。すぐ近くまで来ていたはずの目標物には、結局触れられていない。数秒遅れて瀬呂が階段側から姿を見せ、八百万も手にしていた棒を下ろした。
「ヴィランチームの勝利!」
オールマイトの声がスピーカーから響く。
「あー……負けた」
凛がその場へ座り込むと、耳郎がテープを避けながら近づいてきた。
「最後無茶しすぎ」
「あとちょっとだったんだもん」
「その『あとちょっと』で転んでんじゃん」
「転んではない。ぶつかっただけ」
「同じようなもんでしょ」
耳郎に言われ、凛は肩を回した。痛みは大したことない。八百万と瀬呂もこちらへ来て、崩れかけた防衛用の板やテープを見ている。
「最初の壁を抜かれた時はどうなるかと思いましたわ」
「俺も。あれそのまま来られたら普通に無理だった」
「耳郎に怒られたから禁止になった〜」
「当たり前でしょ」
耳郎が即座に返すと瀬呂が笑い、凛も肩をもう一度回してから演習場へ戻る方へ歩き出した。
戻る途中、凛はさっきの廊下を思い返していた。広く圧を出せば、壁でも板でも壊せる。けれど室内では耳郎が近くにいるし、相手へ破片を飛ばすわけにもいかない。小さくしようとすると、途端に思った場所へ当たらなくなった。
手袋をした指を開いたり閉じたりしながら、隣を歩く耳郎へ顔を向ける。
「私、室内弱いかもしれない」
「いきなり結論出すね」
「だって広く使えないと全然だめだったわ」
「二人で負けたんだから、押切だけの話じゃないでしょ」
「それもそうか」
凛はあっさり頷いた。それでも、廊下に張られたテープの根元へ何度も圧を外した感覚だけは、妙に手に残っている。
二人で演習場へ戻ると、次の訓練に向けて動くクラスメイトたちの声が聞こえてきた。