十三号の説明が始まると、施設のあちこちへ散っていた一年A組の視線も少しずつ中央へ戻っていった。水難や火災、土砂崩れなど、ここにはさまざまな災害を想定した区画が揃っているらしい。救助訓練そのものの説明に入る前に、十三号は個性について、人を助けられる力は同時に人を傷つける力にもなるのだと話した。
凛は手袋をはめた自分の手へ目を落とした。《圧縮》で人を吹き飛ばせることは知っているし、出力を上げれば怪我をさせることも分かる。反対に、救助のために使うとなると、今まで考えたことのない使い方の方が多そうだった。瓦礫を押す、落ちてくるものを止める、足場を作る。何をやるのか少し楽しみになって顔を上げたところで、中央広場の奥に黒いものが滲んだ。
最初に気づいた誰かの声で、近くにいた生徒たちもそちらを向く。黒い靄は床から湧き上がるように広がり、その中から人影が一つ、また一つと現れた。訓練が始まったにしては説明が何もない。凛も眉を寄せて見ていると、それまで生徒の前にいた相澤が十三号より先に前へ出た。
低い声で動くなと告げ、相澤がゴーグルを下ろす。本物のヴィランだと告げられた瞬間、それまでざわついていた周囲の空気が一気に変わった。
凛も中央の集団を見たまま息を詰めた。離れているうちはただの人影だったものが、敵だと分かった途端に妙に近く感じる。訓練の相手ではない。向こうは本当に、自分たちを傷つけるつもりでここへ来ている。
心臓が速く鳴り始めた。怖い、と思ったのと、十三号の指示に従って出口側へ動いたのはほとんど同時だった。手袋の中に汗が滲むのを感じながら周囲について下がっていると、出口の前へ黒い靄が広がり、人の形を作る。爆発音が響き、前へ飛び出した爆豪と切島の姿が一瞬だけ見えたあと、靄が床を這うように一気に広がった。
「押切君、下がれ!」
飯田の声が聞こえた直後、足元の感覚が消えた。身体が沈み、上下の分からない黒い空間に飲み込まれる。凛は咄嗟に足元へ空気を固めようとしたものの、どちらが下なのか判断するより先に視界が開けた。地面と建物が一気に迫り、同時に熱気が顔へぶつかってくる。
落下の勢いを殺すために足元へ圧縮した空気を置き、そこを蹴るようにして身体の向きを変えた。完全には止まりきれず、着地してから数歩たたらを踏んだが、どうにか転ばずに済む。顔を上げると、目の前の建物から炎が上がり、煙と焦げた臭いが街路の間へ溜まっていた。中央から眺めていたときには一つの区画にしか見えなかった火災区域が、今は建物の向こうまで続いている。
「押切!」
声の方を見ると、少し離れたところで尾白が立ち上がっていた。知っている顔を見つけただけで一瞬肩の力が抜けたが、二人が近づくより先に建物の陰から数人の男が出てくる。中央にいた集団と同じだと分かる距離まで近づくと、顔もはっきり見え、声も聞こえた。
一人がこちらを見つけて走り出す。凛の足は半歩止まったが、そのまま立っている方が無理だった。相手が腕を振り上げる前に地面を蹴り、《圧縮》で一気に横へ抜ける。続いてきたもう一人とまとめて遠ざけようと、今度は二人の正面にある空気を広い範囲で集め、押し固めるように圧縮した。押し固めた空気を相手側へ押し出すように解放すると、二人の身体が面で押されるようにまとめて後ろへ下がる。
けれど、動いたのは敵だけではなかった。前へ押し出された空気が道路脇の炎まで大きく煽り、火の粉が建物の壁際へ散っていく。凛は続けようとしていた《圧縮》を止めた。
「押切、火!」
「見た!」
二人まとめて押し返すこと自体は難しくない。広い範囲の空気を圧縮し、それを面で相手へ押しつける使い方なら、狙う範囲も大きいぶん外しにくい。ただ、火災現場では周囲の空気まで一緒に動き、今のように炎まで煽ってしまう。敵だけを狙えるくらい狭く圧を絞れればいいのだろうが、止まっているものを狙うだけでもずれることがあるのに、動いている人間だけへ正確に当てられる自信はなかった。
自分一人なら試したかもしれない。けれど、すぐ近くには尾白がいる。外したときに火や尾白まで巻き込む使い方を、ここで試す気にはなれなかった。
考えている間にも、一度押し返した男が距離を詰めてくる。凛は無理に圧を絞ろうとするのをやめ、伸びてきた腕を避けて横へ跳んだ。相手が振り向く前に蹴りを入れたものの、体勢が悪く、少しよろめかせただけで終わる。すぐに追われて距離を取り直す横で、尾白の方にも別の男が踏み込んでいた。
尾白は伸びてきた腕の外へ半歩ずれ、そのまま尾で相手の足を払った。重心が崩れたところへ短く蹴りを入れ、相手が倒れるより先に次の一人へ身体を向ける。凛が視界の端でそこまで捉えたところへ、右から別の男が近づいた。
「右!」
尾白の声とほとんど同時に身体を横へ逃がし、さっきまでいた場所を男の腕が通り過ぎる。凛は着地した勢いのまま距離を詰め、今度は正面から蹴りを入れた。倒しきれなくても離せればいい。相手が後ろへ下がった隙に尾白の近くまで戻り、二人で背中を合わせるほどではない距離を保ちながら、互いに反対側を見る。
「多くない?」
「俺に言われても!」
「だよね!」
返事が来たことで、張りつめていた呼吸がほんの少しだけ戻った。心臓はまだ速いし、相手が近づけば身体の奥が縮む。それでも、次の一人が来れば足は動いた。広く吹き飛ばす代わりに距離を取り、近づかれたところだけ、今まで使ってきた動きで捌いていく。
凛が道路の奥へ位置をずらすと、尾白もそれに合わせて動いた。囲まれないよう少しずつ場所を変えながら、近づいた相手をそれぞれ捌いていく。尾白は一人を避けた先でもう次の相手へ向けて身体を整えていた。凛は自分の方へ来た男を足元の圧でかわし、横から蹴りを入れたが、踏み込みが浅く、すぐ距離を詰め直される。
もう一度伸びてきた腕を避けて横へ跳んだ直後、追ってきた男の攻撃が背後の支柱を叩いた。乾いた亀裂音が響き、火に晒されていた外壁の一部が大きく傾く。
「離れて!」
二人が反対方向へ飛ぶのと、崩れた資材が道路へ落ちてくるのはほとんど同時だった。炎が一気に高くなり、熱気と煙で向こう側が見えなくなる。
「押切!」
「いる! 尾白は?」
「大丈夫!」
声が返ってきたことだけ確認し、凛は燃えている資材へ手を上げかけた。さっき炎を煽ったばかりだし、その向こうには尾白がいる。すぐに手を下ろすと、今度は背後から複数の足音が近づいてきた。
「押切、そっちから回れるか!」
炎越しに飛んできた尾白の声を聞きながら周囲を見回すと、建物の脇に細い道が伸びていた。
「たぶん! そっちも動いて!」
「分かった!」
返事を聞き、凛は迫ってくる足音の方を一度確認してから脇道へ入った。尾白と合流できる場所を探すつもりで建物の間を進んだが、道は思っていたより深く続き、最初の角を曲がった先でもさらに二方向へ分かれている。後ろから聞こえる声が近づいてきたため立ち止まる余裕はなく、凛はそのまま奥へ続く方を選んで走った。