あの日に置いてきた音色
ぐぐっと伸びをしながら、久しぶりに高校最後のコンクールを思い返す。あの演奏で、行けるわけないじゃないか、全国大会なんか。ダメ金ですらお情けだ。
私は、高校卒業後は単身ドイツ・ミュンヘンに音楽留学していた。そのままミュンヘンでオーケストラ団員の職につき、本拠地であるミュンヘンやドイツだけでなく、時にはヨーロッパじゅうを演奏してまわる充実した日々を送っている。
リハーサルの前は、いつもお気に入りのカフェのテラス席で楽譜の最終確認をすることにしていた。
集中しなきゃいけないはずなのに珍しく感傷に浸ってしまったのは、確認中の楽譜がとても思い出深い曲だったから。
リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」。
来週の公演での演奏を控える曲で、吹奏楽向けに編曲されたバージョンは高校最後のコンクールの自由曲でもあった、忌まわしき懐かしい曲である。丁寧に製本された楽譜の表紙をそっと撫でた。
中間部にドン・ファンを誘惑する美しい女性をイメージした、長く美しいオーボエのソロがあるこの曲を、私は未だに納得のいく演奏ができないでいる。まるで、心に魚の小骨がずっと引っかかっているかのような感覚だ。
あの頃よりも、ずっと今の方が技術はついたはずなのに。この曲のソロだけは、今よりも高校生の頃の方が上手かったと断言できる。
理由は分かっていた。御幸くんのことが好きだったから。
全国大会で金賞を取ったら、御幸くんに告白しよう。ソロを吹く間、彼と見つめあいながら漠然とそう決めた日のことを思い出した。かっこよくて、音楽にひたむきで、理想のためなら周りに嫌われる物言いも厭わない彼に振り向いて欲しくて、必死で練習した。
伝記上のプレイボーイなんかどうでもよくて、御幸くんを誘惑してやろうと思って演奏していた。演奏がうまくいけば全国大会にも行けて、なんかよくわかんないけど御幸くんにも好かれていて、うまくいって付き合える。大団円、みんなハッピー。その程度に考えていた。
だから、「甘かった」と思うのだ。
例え私1人が上手くてもコンクールは上位に行けないし、私が上手に演奏することと御幸くんが好きになってくれることはイコールでは繋がらないはず。
そして、私たちの夢は残酷にも、あっさりと破れた。
正直、今思い返しても私のソロは過去最高の出来栄えだったと思う。当然だ。御幸くんが好き、という気持ちを全て乗せていたんだから。決して軽くはなかった気持ちを余すことなく乗せた演奏は、なかなかの熱量だったと思う。
問題は、他の部分だった。演奏の粗はそこここに山積していた。
周りが下手だったわけではないのだ。我らが青道高校吹奏楽部は都内でも屈指の強豪校だし、かつてないほどのベストメンバーと称されてた。全国大会に今年も行くのは当たり前だと、学内の誰もが思っていた。でもきっとそれは、人によってはプレッシャーにもなっていたのだろう。
舞台袖で顔を青くしていた美智香は、緊張すると音がうわずる癖があった。あの日も可哀想なくらい顔を真っ青にしていた彼女の背中を叩いて緊張を和らげていたらどうなっていただろう?
学年が一つ下で、あれが初めてのコンクールの舞台だと言っていた山下は、緊張するとテンポが崩れるやすいことを私は知っていた。控室にいる頃から一緒に深呼吸をして、呼吸を整えさせてやればどうだった?
私が「しなかった」ことを悔いている間にも、本番に潜む魔物によって音楽は少しずつ崩されていく。必死で御幸くんが立て直そうと指揮棒を振るが、崩壊は止められない。
審査員が苦笑いを零すのを見て、気が付いてしまった。あぁ、この演奏では全国大会には届かない。そう気が付いた瞬間、御幸くんへの恋心をなかったことにしてしまった。芯を失った私の音色は音楽の崩壊に飲み込まれ、そして…
お情けのダメ金。落胆しきる仲間たちを尻目に、あんな演奏で全国大会へ行けないのは当たり前ではないかと喉元まで出かかって、何度も飲み込んだ。気持ちをうまく溶け合わせることができなくて、悲しみのテンションの違いを埋まらず、引退後部活の仲間たちとはなんとなく心の距離ができてしまった。
元々、個人的に出ていたコンクールでは好成績をおさめていたこともあり、卒業後は海外へ留学にいくつもりだったことを言い訳にして、碌に御幸くんを含めた部活仲間たちと話さないまま卒業。そのままドイツに来て、成人式や長期休暇も勉強が忙しいことを理由に帰省せず、顔を合わせることなく今に至る、というわけである。
問題は、ただ一つ。もう10年経つというのに、あの日のことを未だに消化できていない私は、この「ドン・ファン」のソロをあのコンクールの日のように演奏することができないでいることだ。
あれから10年、恋をしたり彼氏ができたりしたことがなかったとは言わないけれど、あの最高の演奏をした時のようなモチベーションは、今の私にはない。だから、納得のいく演奏にならない。
これでなプロ失格だ、とため息をついたところで、リハーサルの開始時刻が間近に迫っていることに気がつく。慌ててコーヒーを飲み干して、伝票と楽器を手に席を立った。