息を吹き返す

リハーサル会場に着くと、いつもとは違うピリッとした雰囲気が漂っていた。今日って何かあったっけ?
慌てて駆け回るマネージャーのフランツに、挨拶がてら様子を聞こうと声をかける。

「ハイ、フランツ。何かあったの?」
「あぁ、おはよう名前。大変なんだよ、来週の公演の指揮者だったカレンベルクが体調を崩してキャンセルになっちゃって…」
「え、そうなの?大問題じゃない。代わりの指揮者どうするの?」
「弟子の一人を紹介してくれて、なんとか今日のリハから来てくれることになったんだ。まだ若いけど、コンクールの優勝歴もあるし実力は文句なしだって。まさか知り合いだったりしないかな?日本人で…」

フランツが続けようとしたところで、扉が開いた。黒髪の見慣れない男性が、総譜と指揮棒を片手に入ってくる。
途端に団員たちは自分たちの席に座り、いつでも練習を始められる体勢になった。事務員のフランツは、ウィンクをして退室していく。

「初めまして、代理指揮者のカズヤ・ミユキといいます。来週の演奏会まであまり時間がないので、集中してやっていきましょう。」

ではオーボエ、チューニングを。

そう言ってから、ようやく彼と目があった。
懐かしい、少し癖のある髪の毛に黒縁メガネ。きりりと涼やかな目元や顔立ちは、少し大人びただろうか。
ぽかんと口を開けた間抜け面の私に、彼は再度声をかける。それは間違いなく、記憶と同じ御幸くんの声だった。

*****

「み、御幸くん、なんでうちのオケ振ってるの…!」

リハーサルが終わると、張り詰めていた場が和らぐ。団員が帰り支度を整えて、三々五々解散していく中、御幸くんに声をかけに行った。
御幸くんは指揮者の中ではまだまだ若手なのに、臆することなく指摘や演奏上の要望を伝えていた。 思えば彼は昔から音楽に対しては真摯で、先輩や先生だろうが納得できない指示には納得できるまで徹底的に対抗していたっけ。根本のところは変わらないんだなぁと嬉しい気持ちになった。
とはいえ、突然の旧友の登場に、驚きはおさまらない。ただの旧友じゃなくて、好きだった人、だし。

「おー。だって俺、今ベルリン留学中だし。結構指揮者コンクールで成績残してんだけど、知らない?」

ニヤッと笑う表情も、高校生の頃から変わらない。
実のところ、御幸くんが日本で音楽大学の指揮科に進学したことも、いくつかの国際コンクールで賞を取ったことも知っていた。音楽雑誌の、「大指揮者になりそうな若手指揮者5選」なんて特集の一角に彼の名前が載っていたことも。
昔から、指揮者の才能はあったのだ。私たち演奏者が、当時その才能を花開かせてあげられなかっただけで。

なんだか懐かしいなぁ、と御幸くんを見上げると、眼鏡の奥の、意志の強そうな視線とかちあう。基本的な顔立ちは高校生の頃からそんなに変わらないけど、貫禄がついただろうか。日本の音大では指揮科は一学年につき2-3人と聞くし、コンクールも複数出ているから、その中で揉まれたのだろうか。
或いは、今日来る予定だった、御幸くんの師匠にあたる指揮者は有名な人だから、たくさん指導を受けたのかも。
どの曲も、急遽代役を任されたにしてはよく勉強してあった。素直に偉いなぁ、かっこいいなぁと感心する。なかったことにして、日本に置いてきたはずの10年前の気持ちが息を吹き返すのを感じた。まさか、こんなことになるなんて。
しばらく見つめあっていると、ふと目が逸らされた。

「どっか飲みに行こうぜ。こっちの方でビールが美味い店、教えてよ。」

高校生の頃にはなかった提案に、お互い少しずつ大人になったのだと感じた。そう、私たちは大人になったのだ。甘酸っぱい恋をしている高校生ではない。今更恋心を思い出しても、いいことなんてきっとない。

イチ同僚として。よい演奏のために。仲良くなることは、メリットしかない。社会人になると、新しくお友達が増えるなんてことは少ないのだ。しかも日本人で、職業音楽家で、同じドイツにいるなんて。
まずはお酒の力を借りて、旧交を温めようではないか。

どこのビールが好き?なんてあの頃はし得なかった会話に花を咲かせながら、ミュンヘンの街並みへ繰り出した。


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