02
就職してから7年。最初は失敗ばかりだったけれど、7年も続ければある程度はこなせるようになるものだ。
初めての取引先との商談だったが、なかなかうまく行ったように思う。左手に持ったスマホで、次の訪問先の場所と経路を調べた。移動を始めなければならない時間まで、少し余裕がある。画面をオフにしてカバンの中にしまう時、指輪がキラリと小さく輝いた。
左手の薬指の指輪は、外さないことにした。彼をこの世に繋ぎ止めている、最後の品のような気がしていた。
陣平ちゃんをも喪った後、彼らの同期であった3人とは疎遠になっていた。親しい人を短い期間で2人も喪った私を、彼らはとても心配してくれた。いつでも頼っていいと差し伸べてくれた手を、その絆を手放したのは私の方からだ。優しくされては耐えられないと思った。
代わりに、仕事に打ち込んだ。身を削るように仕事に邁進している間は、2人の死を忘れることができた。そうして思い出は箱にしまって奥に追いやって、心に麻酔をかけることで私は日常生活へと戻って行ったのだった。唯一、研ちゃんがくれた指輪だけが私にとって彼のいた証だつた。
調べたところ、2時間ほど空き時間があることが分かった。会社に戻るのも効率が悪いし、どこかで時間を潰そうと通りを見回したところで、ぐぅとお腹が鳴る時計は2時をまわりつつあるところで、たしかに昼食を食べ損ねていた。昼食をとりながら書類作成でもしよう。
見渡す限り、ファミレス、居酒屋、中華屋、寿司屋、喫茶店、ケーキ屋とこの通りには食べ物屋がいくつか点在していた。1番無難なのは喫茶店だろうか。ポアロと名作られた店のドアを開ける。小気味良いドアベルの音が、私の来店を歓迎した。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ。」
店員の女性が、声をかけてくる。PCをつかいたかったので、どこか電源をお借りできる席はありませんか、と尋ねると、快く案内をしてくれた。メニューにはサンドイッチやナポリタンなど、いかにも喫茶店らしいメニューが並んでいる。お腹が空いたからちょっとガッツリ食べたい気分。ハッシュドビーフとサラダのセットを注文したら、すぐにPCを開いた。ブルーライトカットのメガネをかけてから、何件かメールを返して、見積書や資料を作って。どの作業も、もう慣れたものだ。
店内は、有線放送の音楽とお客さんたちの会話でうるさくない程度に賑わい、とても心地よい。これは良い喫茶店を見つけたと、ハッシュドビーフに舌鼓を打つ。米花町はこれからちょこちょこ仕事で寄るだろうし、この店のことは覚えておこう。
先程の店員に、お客の女子大生たちが話しかけていた。
「梓さ〜ん、今日安室さんは〜?」
「安室さん?さっき事務所を覗いたらもういたから、あと数分で出てくると思うけど…」
「やった!」
はしゃぐ女の子の声は、案外耳障りがよくて調子よく仕事を進めることができた。
「おはようございます〜。」
「あっ、安室さーん!注文お願いしま〜す❤︎」
件の女子大生だけでなく、店のあちこちから女の子が安室さんを呼ぶ声が聞こえた。はい、順番に伺いますと困ったように笑う声に、少し聞き覚えがあるような気がして顔を上げる。ちょうど1組目の注文を取り終わって別のテーブルへ向かうその人と、ばっちり目があった。
サラサラの金髪に地黒の肌、晴れた空のようなブルーの瞳に垂れた目尻。こんな特徴的な容姿の人間、世界にそうたくさんいるわけがない。
「ふる、」
「はいお客様!フルーツポンチをご注文ですね!少々お待ちください。」
一見にこやかな微笑みだが、私にはその先を口に出すなと圧をかけているように感じた。そういえば、公安に配属されたって研ちゃんに聞いた気がする。潜入捜査が多くて自由に連絡が取れないし、名前を変えて活動していることが多いとも。なるほど、安室がその偽名なのかな。心の中で納得して、他人のフリをすることに決めた。お願いします、と言うと意思が伝わったのか、そのまま他のお客さんの注文取りに戻って行った。
「えー、ポアロってフルーツポンチあるんですか?食べたーい!」
「この店の裏メニューだけどね。」
「えぇ?うちの店裏メニューなんてありましたっけ?」
「この間オーナーと掛け合って、こっそり試してみることにしたんですよ…。すみません、梓さんにお伝えするのすっかり忘れてました。」
さて、注文したランチセットで結構お腹いっぱいなんだけど、フルーツポンチなんて今から食べ切れるだろうか。