「……主よ…私を御許へ…。」
今日も今日とてジュリアは小さく掠れた声で呟く。神への祈りと呼ぶには不純だが、神への懇願にしては随分と空虚だ。息をするように死を乞うジュリアは人形のようで、こちらまで不穏な気持ちになってくる。
「これはね、ダリスが余り布を裂いて編んだ髪紐なんですよ。少し歪で糸くずも飛び出ていますが、柔らかな色合いが可愛らしいでしょう?」
「……私に、」
「あなたの散らかった髪を結うために、ダリスが一生懸命編んだのです。」
「……救いを。」
「……。」
私も、そう気は長くない。こんなことを言っては医者見習い失格なのだが、そろそろ彼女と向き合うことに疲れてきた。彼女は正に生きる屍だ。ただ死にたいだけの女かと思いきや、本当に中身が死んでいるのだと思う。
「あなたの望みを叶えることはね、きっと誰でもできるんですよ。」
「……。」
「ただ、誰もそうしないのは……無抵抗の弱者を殺すことへの抵抗だけではなく、…あなたを望む人間がいるからなのです。」
「……主よ、」
「残念ながら、主はあなたのように哀れで愚かな脆弱者を望みはしません。けれど、そんなあなたを、愛している者はいるのです。」
「……。」
「自分が望まない相手に手を伸ばされると、振り切ってしまいたくもなるでしょう。…わかりますよ、私も振り切って逃げてきた人間ですから。」
「……。」
「けれど今…いえ、ずっと、あなたに手を伸ばし続けてきた者にとっては、あなたが唯一なのです。あなたしかいないのです。」
「……。」
「それが重荷だというのなら、せめて共に眠る慈悲を与えてあげてはどうですか?」
「……慈悲、を。」
「あなたが死に逃げて、子供が一人きりになってしまったら、共にいたいと望み後を追うかもしれません。」
「……。」
「だから、どうしても生きていたくないというなら、ひとつくらい成し遂げてください。あなたの最後のお役目です。」
きっと、言ってはならないことなのに、言葉は恙無く紡がれる。けれどこれは本心で、かつての私が心から願ったことだった。
「母親として、
こんなことを告げてなお、彼女は眉ひとつ動かさない。松明の灯りに揺れた瞳は乾いたまま、瞬きすらしなかった。
「……あなたがダリスの手を取るのなら、私が救って差し上げます。」
「……。」
「だから、明日は必ず、ダリスの手を握り返してください。ダリスはいつもあなたの手を握って温めているでしょう?その手を握り返すだけですよ。」
「……。」
「そしたら、あなたもダリスもまとめて救いますから。だから、」
どうか、少しでいい。心を動かしてほしい。死にたいと強く願う心でいい。生きる屍ではないジュリアの、その心を垣間見ることが出来たら、きっとこの陰鬱な時間にも意味を見い出せるだろう。
ジュリアが眠るのを見届けて天幕を出ると、傍にアルファルドの姿があった。驚いたものの心配そうにこちらを見ていたので、すぐに笑みをつくって一礼する。
「アルファルドさん、こんばんは。」
「……ええ、こんばんは。夜遅くまでお疲れ様です。」
「…ありがとうございます。アルファルドさんは、ここで何を…?」
「あなたが毎晩ジュリアの看病をしていると聞いたので、様子を伺いに来たのですが…、」
言いながら困ったような顔をした彼に、まさかと思いつつ「聞こえてましたか?」と問えば、少し逡巡した後そっと頷かれた。
ダリスと共に死になさいと言ったのも、聞かれていたのだろう。それは気まずいような気もするが、けれどあまり後ろめたくはなかった。
「……ジュリアを救う、というのは…やはり、死なせてやるということですか?」
「…彼女に関しては、そうする可能性もあります。」
「それは…、」
「ええ。とても身勝手な判断だとわかっています。ただ、そうですね……少しでもいいから、主以外の存在に目をとめ、それに何かを願ってほしいのです。」
姿さえ知らない天上の女神ではなく、側にいる人間を見つけてほしい。不純な祈りや空虚な懇願ではなく、心からの望みを口にしてほしい。
「そうさせるためには、餌をチラつかせる必要もあるでしょう。危険な賭けでもありますが、何を変わらないよりは良い気がして…、」
「…なるほど。」
「……アルファルドさん、そのことで、相談があるのですが……。」
「ダリス、今日はジュリアさんを少し連れ出しますからね。」
「…え?」
ポカンとしたダリスの脇を通って、バルタザールがジュリアを抱えに行く。ひょいっと横抱きにされた彼女は、変わらず人形のように力無い。
「つ、連れ出すってどこに?」
「ついてくればわかりますよ。ダリス、はぐれちゃいけないので、ジュリアさんの手を握っていてくださいね。」
ダリスが慌ててぶら下がったジュリアの手を握る。長い前髪でジュリアの目元はわからないが、これからすることで何も変わらなければ、もう本当にお手上げだ。
「……。」
無言で歩くバルタザールの顔は硬く、ダリスは時折そんな彼や私を不安そうに見比べる。
そして私が松明を手に取り、居住区から外れた暗い道へ進み始めると、ダリスはもう私やバルタザールを見なくなった。しかしジュリアの手を掴んでいない方の手は、胸元で指先が白くなるほど握り込まれていた。
「……ダリス。」
「…っ、なに?」
震えを押さえつけているような、嗄れた子供の声。それが哀れに思えて、胸元で握りこまれている小さな手を取って繋いだ。ダリスの拳ごと包むように掴めば、やはりその手は出会った時同様に冷えていた。
「今、一番ジュリアさんにしてほしいことは何ですか?」
「……え?」
「もしもジュリアさんが自分の願いを何でも叶えてくれると言ったら、一番最初にどんなことをお願いします?」
「……。」
顔は見なかったが、ダリスが困惑しているのはわかった。そんなことが叶うのだろうか、望んでもいいのだろうか。そういう雰囲気のことばかりを口にしている。
「考えてみるだけでいい。失望するのが嫌でも、やっぱり明確な目標というのは立てた方がいいと思うのです」
「…目標…?」
「そう。ダリスはこれまでも…これからも、きっとジュリアさんを支えていくんでしょう?」
「……。」
ただジュリアが母親だから寄り添っていたというわけじゃなく、母親を愛し彼女の愛を望んでいたからこそ、これまで側にいれたのだと思う。
名前を呼んで、抱き締めてほしい。もう大丈夫だと頭を撫で、ずっとこの手を離さないでいてほしい。穏やかで幸福に満ちた時間を過ごし、そしていつか居なくなる時は、ゆっくりと眠るように。
そんなことを、ダリスは願っていないのだろうか。
「…て…しい…。」
「え?」
「……わらって、ほしい…。」
「……。」
名前を呼んで…とか、そんなのは私の願いだと気付いた。ダリスは抱き締められたこともなければ、名前を呼ばれたこともないのかもしれない。けれど何よりもまず、その笑顔を望むのだとダリスは言う。なんて、胸を締め付けるようなことを言うのだろう。
「……では、ダリスが笑っていなければね。」
「ぼくが?」
「ジュリアさんはこんなだから笑い方も忘れてしまったかもしれません。だから、ダリスが教えてあげるんです。」
「…ぼく…できるかな。」
「きっとね。」
ジュリアがダリスの笑顔を見つけた時は、彼女が心を取り戻した時だ。同時に絶望も取り戻してしまえば、ダリスを忌避するかもしれない不安もあるが…。そんなことは、そうなってから考えたらいい。
するりとダリスの拳をとかせて、その掌を握る。冷えているのにしっとり汗ばんでいるのは、どちらの手だっただろう。