"覚悟"



「…おい。」

カサカサと、草を踏む音がして目を開ける。目の前の広大な空は、いつの間にか朱色混じりに色づいていた。雲に藍色が滲み紫紺の影を作っている。あまりにも美しく移ろう色合いをぼんやり眺めてしまう。

「リルメ。」
「…ユーリス?」
「……お前、まさか、寝てたわけじゃないよな?」
「…さあ。先程までの記憶はないので、わかりかねます。」
「それを寝てたって言うんじゃねえのか。」
「いたっ!」

ピンッと指で額を弾かれると、はっきり目が覚めた。夕焼けに照らされるといっそう美しい女王が、顔を顰めてこちらの顔を覗き込んでいる。

「…どうしてここに?」
「……バルタザールがお前をここに放置してきたっつってたんだが、」

窺うような、ともすれば心配でもしていそうな声音に首を傾げつつ、ここに連れてきてくれたバルタザールのことを思い出す。

「…少し疲れていた私をひとりにしてくれたのでしょう。意外と気遣いのできる男ですね、彼は。」
「帰り道を覚えてるとはとても思えないお前を置いて行く男が?」

柔らかい声音から一転、棘のある声で返されて「…は!ほんとだ。」と素のままの声が出た。

「俺たち以外誰も来ねえとはいえ、こんなとこで無防備に寝こけてんじゃねえ。」
「す、すみません…仰る通りで……ん?ここはユーリスとバルタザール以外誰も来ないのですか?」
「ハピは時々来てる。コンスタンツェも知ってはいるが来やしねえよ。」
「?もったいないですね。こんなに気持ちいい場所なのに。」
「あー…あいつは、それどころじゃねえのさ。」

首を傾げた私には答えず、ユーリスは振り返って「帰るぞ。」と告げた。
アビスが帰る場所になったことも、ユーリスがそう言って手を差し伸べてくれたことも、なんだか不思議で苦しくて、そして少しだけ胸がじんわりとした。


ユーリスの手を借りて地下通路に降りれば、硬い床の踏み心地と暗い視界に目眩がした。それが治まるまで手を貸してくれていたユーリスに礼を言えば、無言でぽんっと頭に手が乗せられる。途端に視界がシャキンとして警戒しまうのだから、やはりユーリスは油断ならない相手だ。

別に特別仲が悪いとは思わないし、毎日挨拶だってするのだが、どうにもユーリスとは距離を取りたくなってしまう。会話が少ないのになぜかよく目が合うと観察されているように感じるし、向き合えばその冷ややかな美貌に妙な不安を覚えるからだと思う。つまりそう、嫌いなわけではないのだが、やっぱりなんだか苦手なのだ。

「なあ、リルメ。」

低く艶のある声が地下に響いて、ぎくりと肩が強ばる。なんでもないような声音を意識して「なんでしょう。」と問い返すと、ユーリスは少し躊躇うように間を置いて答えた。

「……ジュリアはどうなった?」

ジュリアの元に通い始めて五日。そもそもユーリスとはあまり会話を持たなかったので、彼との間でそれが話題になることもなかった。
けれどそれは、きっとユーリスが意図的に避けていたからなのだと、今になって気付いた。なにしろユーリスが私に頼んだことなのだ、機会があればダリスの母親を見てやってくれないか、と。ウテナもユーリスがダリス達を気にかけているのだと話していたのだから…、

「……。」

そして不意に思い至ったのは、ユーリスはジュリアの容態を元々知っていたのだろうということだった。気鬱で死にたがっていて、医者にはどうにもならなさそうな状態である、と。私になんとかできるはずもないと想定だってしていたはずで、それは妙にモヤッっとすることでもあった。……いや、なんだか腹立たしい気もしてきた。

「…とくに、変わりはありませんよ。」

お力になれず、すみません。そう言うべきだったのかもしれないが、腹を立てながら言うものでもないだろうと口を噤む。ユーリスは「そうか。」と返したきり黙り込んで、居住区につくまでは互いに無言。
先程まで僅かにじんわりしていたはずの胸は、すっと冷え込んだように落ち着いて重くなった。


····················



居住区に戻ると、人の気配に少しばかりホッとした。振り返ると今しがたリルメと歩いて戻ってきたばかりの暗い地下通路がある。
「帰り道を案内してくれてありがとうございました。」
平坦な声と貼り付けたような微笑みで頭を下げたリルメは、少しばかりサイズの合っていない制服の裾を翻してとっとと居住区の奥へ消えた。松明を壁に戻しながら、彼女の陰鬱な気配を思い出して溜め息を吐く。いつも気怠げな顔をしている門番が心配そうにこちらとリルメの背中を見比べていたが、気にするなと手を振っておいた。

(リルメ、ね…。)

アビスに逃げてきた人間の詮索などするものではない。自身を含めここの人間ならば隠し事はあって当然だし、後暗い事情も、人には言えない過去もあるだろう。


初めて彼女を見たのは士官学校の学生だった時だ。大聖堂で修道士達による賛歌が響く中にリルメがいたのだ。
清廉な修道服に身を包み、生真面目に背筋を伸ばし、祈るように手を組み、慈愛じみた微笑を浮かべて。そろいもそろって同じ様子の修道士達は、ステンドグラスから差す淡い光に照らされると、神聖に見えなくもなかった。
だというのになぜか一人だけ、微笑んでいても仄暗く見える女がいた。だからといって陰気臭いわけではなく、どちらかといえば顔立ちは甘やかに整っていて自分程ではないが美しい部類に入るだろう。そして不意に、昔どこかの貴族の屋敷で見た絵画を思い出した。それは一輪の花を手に微笑む喪服の女の絵だった。ゆるやかに弧を描いた満足気な口元は毒々しく見えたのに、荒廃した光のない瞳は最早涙も枯れたかのように静謐そのもので。その絵に題された名を見て、更に魅入られたのを今でも覚えている。
(……似てる、か…?)
外見的なものではなく、雰囲気や笑い方というのだろうか。どうにもあの絵画の女と重なって見えた。
(…しかも口パクかよ…。)
その仄暗い女が美しく響く賛歌を捧げる一員…に見えたのは一瞬で。少しばかりズレたその口元に気付くと、なんだか興味が沸いた。

その日からだ。短かった学生生活が途絶えアビスで過ごすことになってからも、あの佇まいが忘れられず、地上に出ては時折その姿を観察した。そして毛色の違うあの修道士が、不信心者だと気付いた。
信徒に聖句を諳んじる彼女の表情や声に色がないこと。祈りを捧げる時は密かに眉を寄せていること。一度だけ偶然を装って話しかけたこともあったが、己の美貌には目もくれず至極穏やかな笑みを向けられた。その瞳には慈愛も信仰心も光もなく、あの絵画の女よりも遥かに荒廃した闇が深まっているように思えた。
それは、ここで共に過ごすようになった、今でも。

「よーお、ユーリス!」

上機嫌な声と共にガッと肩に手を掛けられる。この野太い声と遠慮のない掴み方はバルタザールだ。

「何の用だ?」
「あぁん?せっかく美味しいとこ譲ってやったってのに随分ご機嫌ナナメじゃねえの。」
「はあ?」
「…ったく、その様子じゃ進展はなさそうだな。」
「何の話だよ。」
「リルメを迎えに行ってやったんだろ?」
「……ああ、そういうことか。」

そこで漸くバルタザールの言いたいことが理解できた。

「勘違いすんじゃねえよ。あいつのことは懸念こそあれ、そういう興味はない。」
「…へェ…懸念、ねぇ…その懸念を少しも払拭できてなさそうなあたり、まあ…お前もなかなか難儀だな。」
「そうかよ。」

先程の下世話な様子から一転、やれやれと一歩引いて傍観する姿勢を見せたバルタザールは、こういう時ばかりは年長者らしく見えたりする。先日も賭けに負けて懐が寒くなったと、情けない姿を見せていたのに…そう、考えて彼に言わなければならないことがあるのを思い出す。

「バルタザール、お前、五日程前に変な商人と賭けをして負けたっつってたよな?」
「嫌なこと思い出させんじゃねえよ…。なんだ、そいつがまた来てたのか?」
「てめぇが奴の出入りなんぞを賭けて負けやがったからな。」
「だァから、それは悪かったって!」
「負けたもんは仕方ねぇさ。それより、今度そいつを見かけたら俺を呼べ。」

思いがけず低くなった声に、バルタザールの顔が引き締まる。

「…そいつが何かしたのか?」
「……いや、追い出す程のことじゃあないが、」

アビスの住人達いわく、その商人の男はバルタザールとの賭けに勝ったから言って、飄々とアビスを観光していたそうだ。アビスの人間は基本的に怪しい人間への警戒を怠らないのだが、ぼんやりしていたハピはその男に話しかけられた。その男は固有名詞こそ出さなかったものの、どうもリルメのことを探っているようだとハピは感じたらしい。彼女は普段のあの調子で男の質問をのらりくらりと躱しリルメのことは話さなかったが、もし声をかけられたのが短慮な部分もあるコンスタンツェなら、うっかり漏らしてしまったもしれないと感じるような、巧みな誘導をされたとも言っていた。

「……どうにも、面倒が起きそうだからな。俺様が出禁にしてやるんだよ。」
「ほお?ついでと言っちゃあなんだが、俺が負けたぶんも取り返してくれたり…、」
「何割くれるんだ?」
「けっ…お前はそういうやつだよな。」
「当然、タダ働きなんざしてやるものか。とにかく、見つけたら呼べよ。」
「へーへー、わかったよ。」

肩に置かれたままの重いバルタザールの手を払って、ふと、リルメに手を差し伸べた時のことを思い出す。自分が差し出した手を見て目を瞠り、恐る恐るこの手を取った彼女は、どこか途方に暮れる子供のようだった。あの冷たい手を掴んで感じた頼りなさは、どうにも苛立たしく、胸を騒がせている。