安らかな幻


「……!」

ダリスが声を無くして立ち尽くしている。その目は、久しく…どころか初めて見るはずの光景になど目もくれない。揺れる木々や淡い木漏れ日、その先の空や雲を見向きもせず、ひたすらにジュリアを見つめている。柔らかな風に前髪が吹かれ、露になった目元の、その色を。陽射しを浴びてようやく煌めいた、その乾いた瞳だけを。

「……ジュリアさん、昨夜の話を覚えていますか?」

見開かれた彼女の目がゆっくりと瞬きをする。やはり私の言葉は届いていないのだろうかと思ったが、彼女はそっと、僅かに首を降ろした。それはあまりにも微動だったが、頷いていたのだろう。反応が初めて返ってきたことに、高揚しなくはなかった。けれど胸はすぐさま冷え込んだ。

「……では、ダリスの手を、」

そう言い聞かせながら、どっと唐突に血の気が引きそうになる。ダリスの手を握り返せば、彼共々ジュリアを救うと私は言ったのだ。いつぶりか知らないが、ようやく意思表示をしようとしている彼女が、真っ先に死を望むなんてのは、ダリスにとっては酷すぎることだ。そしてジュリアとダリスを殺すことを、救いとするだなんて。

(……したくない…なんて……今更、言えないよなあ…。)

確かにそれは、生きた屍が息を吹き返した瞬間だったのだろう。出会って間も無いが、初めてジュリアの瞳に光が宿ったのだ。この動きを望んでいたはずなのに、この後のことを考えたくない。

「……ジュリアさん?」
「…………、」

ダ、リ、ス。
ジュリアの唇が音もなくそう象った。

「…かあ、さん…?」

視線を下げダリスを見る。己の手を握る存在を認めて、ジュリアは焦れったいほど緩慢に瞬きを繰り返した。

「…っ」
「母さん…!?」

唇を震わせ眉を顰めたジュリアに、ぎょっとダリスの肩が竦む。

(もしもジュリアがダリスを拒絶したらどうしよう…!)

「…おい、」

慌てた瞬間をぶった斬るようなバルタザールの声に肩がびくりと跳ねる。

「!な、何ですか?」
「こいつ、そろそろ降ろしていいか?少し先に腰掛けやすい石があんだよ。」
「あ、は、はい。」

バルタザールはこれといった配慮も躊躇もせず、断崖絶壁を目前にした岩場にジュリアを座らせた。慌ててダリスが彼女に寄り添って背を支えていた。ジュリアはまさに呆然自失としているようだが、これまでの心神喪失とは違う。

少し様子を見た方がいいだろうかと思案していると、バルタザールに「ちょっと来い。」と肩を掴まれた。彼らの様子が見える位置まで離れると、木影から音もなく思いもよらない人間が顔を出した。

「…ユーリス、」

健やかな木漏れ日の下であっても怪しげで美しい女王が、じっと探るようにこちらを見ている。

「どうして、ここに…?」
「アルファルドさんに聞いて、というのもある……実は密かに聞いてた部分もあってな。」
「え…、」
「別に報告は義務じゃねえが、ダリスのことを頼んだのは俺だ。何も知らされず相談もされねぇってのは、寂しいもんだぜ?」

密やかに、冗談めかして女王が笑みを浮かべる。決して冷たくはないが油断ならない表情。それがなんとなく、先日の腹立たしさを思い起こさせる。

「……何も知らせてないのはユーリスの方ではありませんか。」
「…は?」
「とりあえず、これ以上彼らを勝手にどうこうしたりはしません。けど今は、しっかり見ておかなければいけませんから……邪魔しないでくださいね。」
「…リルメ、」

一方的に告げて背を向けると、すかさずユーリスに腕を掴まれた。

「……俺は、お前ひとりに重荷を背負わせる気はないからな。」
「…言い出しっぺは私です。後始末は自分で、」
「頼んだのは俺で、最悪の場合も想定していたんだ。俺は、お前が…、」

ユーリスの手をやんわり剥がそうとする私に、彼はそう言い募りながら困ったように言葉を彷徨わせた。これ幸いと強引に彼の手を剥がし、しっかりと微笑んで、今度こそ背を向ける。

最悪、ジュリアを死なせることになる。そうわかっていて、よく知りもしない人間にその世話を焼かせていた。ユーリスがどういう考えでそうしたのかはわからない。けれど何も知らされないまま動いて、結果、こんなに頭を悩ませることになったのだ。ジュリアの反応次第では、彼女はいなくなる。長年ダリスやウテナに寂しい思いをさせてきた彼女の背を、私が死へと突き落とすことになるのだ。




························




「私の母はね、とても美人だけれど少し変わったところのある移民だったのです。」

リルメの柔らかに語る声が聞こえてくる。ジュリアの正面に立ち乱れたその髪を優しく梳く彼女の向こうは断崖絶壁。少しよろめけば真っ逆さまに落ちるような、そんな危険に背を向けてなお穏やかに。

「母は移民ゆえに独特だけれど、神秘的で儚げな美貌をしていました。それはたいそう評判もよくて、地元の権力者や富豪なんかが挙って求婚していたそうです。」

気が気でないこちらの心配など意に介さず、どこか自慢げに自分の母親を語っている。「残念ながら私は母に似ず平凡なのですが。」笑い混じりにそんなことを言って。

「彼女はとても優しくて、可愛らしいひとでした。私が勉強に行き詰まって不貞腐れると、根気強く寄り添ってくれるのですが…痺れを切らすと意地の悪い選択を迫ったものです。」
「……。」
「ああ、けれどね、私は意地の悪い母のことも大好きでした。」

だって好きだからこそ意地悪をしてしまうこともあるのでしょう?これを教えてくれたのは父なのですが、…そういえば、父は私に甘かったので意地悪はされませんでしたね。
静かな空気を茶化すように語るリルメは、きっと両親に愛されて幸福に生きていたのだろう。

「……けれどある日、父も母もいなくなりました。」

ジュリアに寄り添っていたダリスがハッとしたように顔を上げる。頼りなく丸まったジュリアの背中がビクリと揺れて、あの生きた屍がそんな反応をしたのは、ジュリアが自身の母を思い出したからだろうか。

「その時は私もね、ジュリアさん、あなたのようになりかけたんですよ。」
「……。」
「ねえ、ジュリアさん。ずっと現実から目を背けて…いや、あなたはきっと、現実も夢も見ないように目を閉じていたのですよね。」
「……。」
「…いいえ、あなたはその主さえも本当には見ていなかった。あなたは自分の望みを叶える手段として、主に呼びかけていただけで、それは祈りというより……呪いでした。」

再び、ジュリアの肩が揺れる。死にたいと願いながら、そうなるにいたった経緯を思えば憎悪を持たないはずもない。

「時間が経ち、擦り切れて薄まり、忘れたように思えていても、あなたのなかには夢や希望も、憎しみだって未だあるのです。」

そして「見てご覧なさい。」と断崖絶壁に振り返ったリルメは、修道女だった頃のように色味のない微笑みを浮かべた。

「とても美しい光景ですよね。遠くには山々が見えて、空も高く澄んでいます。下は霧で覆われていますが……不思議と、安寧の気配がありませんか?」
「……。」
「あれ、そうでもなさそうな反応ですね。おかしいなあ……心から主に救いを求めたあなたなら、きっと美しいそこに飛び込みたくなるはずだったのですが…、」

そう言いながらジュリアに手を伸ばしたリルメは、いつの間に編んだのか、ざんばらな三つ編みを手に取って光に翳して見せた。

「……それとも、こんな風に見上げた先のものの方が美しかったりするんでしょうか。」

三つ編みを結った髪紐は、まさに子供の手編みのような歪さがある。リルメは眩しそうにそれを見ると、ダリスに笑いかけた。

「ねえ、ダリスはどう思いますか?」
「え!?っぼ、ぼく…、」

不安そうにひたすら沈黙していたダリスの、裏返った声が響く。そしてリルメの微笑みを見て、自分のターンだと気付いたのだろう。少し戸惑ってはいたが、意を決したように立ち上がると、ジュリアと目線を合わせるべく跪いた。

「……っぼくは、母さんが一番きれいだと思う。このけしきとか、がけの下より、」
「……。」
「…かみがボサボサで、元気じゃなくても……しゃべらなくても、何もしてくれなくても、」
「……。」
「…生きてる母さんが一番きれいだよ!」

何かが変われば、元気になれば、そう願い続けてきたのは他でもないダリスだ。しかし、何も変わらなかったとしても綺麗だと、息をしているだけで一番なのだと、そう言った。ここで死なれるくらいなら何も変わらなくていいと思ったのだろうか。
ジュリアがどんな顔をしているのか知らないが、リルメが微笑みを深めたのは見えた。

「ジュリアさん、昨夜の話を覚えていますね?」
「……。」
「救いを求めるなら、ダリスの手を取ってください。」

ジュリアを救うのはダリスだと、そういう意味であればよかったのだが。そうではないことを俺はこっそりと聞いている。
笑みを貼り付けたリルメの、陽の下にあってなお青白いその顔が、摩耗した人間のものであることも。一切の感情を隠したような目が、ずっと崖の下に安寧の幻を見出しているであろうことも。薄々気付いている。

「……さあ、ジュリアさん、どうしますか?私はいつまでもこんな寒い所に立っているつもりはありませんよ。」

リルメがおどけたように急かせば、ダリスが困惑した顔で彼女とジュリアを見比べた。
そんなダリスをジュリアの横に腰かけさせ向き合わせると、リルメは修道士のように慈悲深い笑みを浮かべてジュリアを覗き込んだ。

「では、そろそろ選んでくださいね。……ここで選べなければ、私が勝手に決めますし、そうなれば二度とこのような機会はなくなります。」

今ここでジュリアが決めなければ、リルメこの母を見放す。ダリスが望めば諸共。

「……二度と、ないのです。目にすることも、触れることも。」

(…ああ、そうか。)
彼女にはもうないのだ。目にすることも、触れることも。彼女はひとり残された人間だから、まだ現実のなかにいる人間だから、ジュリアのように全てを閉ざすこともできないから。きっと羨ましくて、妬ましいのだ。
望むべき家族に手を伸ばせば触れられて、耳を傾ければ声を聞けられるのに。

「……。」

リルメはきっと腹を立てていたのだろう。この母子を見て、もどかしく辛い思いもしたのだろう。そう考えると、彼女の妙な態度も腑に落ちる。こんな顛末になる可能性を全く考えてなかったわけじゃないのに、自分はリルメの為人ひととなりを知るためだけに頼んでしまった。そのうえ手を貸すどころか助言のひとつもしなかったのだから、彼女が自分に腹を立てるのは当然だろう。


「……母さん…、」

ダリスの強請ねだるような声で我に帰る。自省は後回しにしてそちらを見れば、ダリスはジュリアに手を差し出していた。

「ぼくは母さんが大好きだから、ずっといっしょにいたいよ。」

死んでもいいから、いっしょにいさせて。そう手を差し出したダリスに何を見たのか。今度はジュリアがダリスに手を伸ばした。

「……。」
「…母さん…。」
「…………ジュリアさん…?」

ダリスの手を掴んだジュリアは、力の入らない腕をどうにか持ち上げて、ダリスの手を抱いた。

「……救いは、必要ですか?」
「…もう………。」

ジュリアの声は小さすぎて聞こえなかったが、リルメの柔らかな安堵の笑みで答えはわかった。