記憶の蓋


「…お母さん、なにこれ?」
「これはね、験担ぎよ!」
「げんかつぎ?この草はヒカゲノカズラだよね?」
「えらいわ、よく覚えていたわね。」
「へへ!」
「このシダ植物は冬でも常緑で、そういうものは豊穣を齎すと言われていたの。モミの木が神聖な冬の樹木とされるように、私の生まれたところではヒカゲノカズラが冬の祈りのための信仰植物になっていたのよ。」

蔓のようなコケのような、鮮やかな緑のそれは、同じくらいの長さのものが数本ある。それらを束ねた上部分を美しい赤色の編み紐で縛っており、垂らされた残りの編み紐はやたらと長い。
母はそれをレグリチェと呼び、玄関の内側に吊るして満足気に笑った。

「この植物は春を願う意味もあるけれど、レグリチェは家庭内の不幸を肩代わりしてくれるものでもあるわ。」
「不幸を?」
「そう、たとえば家族の誰かが怪我をしたり、備蓄が熊に取られたり、リルメが好きな干し果実が食べられなくなっちゃうような歯痛になったり…、」
「や、やだ!」
「ふふ、レグリチェは大きな不幸も小さな嫌なことも、枯れた棘の数だけ落としていってくれるの。枯れ落ちた棘は薪と一緒に燃やしてしまえば、来年の冬まで私たちは安泰なのよ!」
「干し果実は食べられる?」
「ちゃんと歯を磨いて、レグリチェを大事にすればね。」

そう微笑んで頭を撫でてくれた母に、私は頷いて、すぐに歯を磨いた気がする。玄関の扉が開閉する度に外の冷たい風が吹き込んで、ガサガサとレグリチェが揺れていた。最初は慌てて扉を早く閉めたり、届きもしないレグリチェに手を伸ばして風から守ろうとしたが、母は「外の風に触れるのも大事なことなのよ。」と言って私を宥めた。垂らされた長い編み紐は節を超えるごとに、下部で優しい結び目を作られる。春が来る頃には結び目は五つできあがっていて、スカスカに痩せ細ったレグリチェは松の脂を垂らした炎で燃やすのだ。そして、春の芽吹きを祝う。



「…まあ、そのような文化がある所だったのですね。」
「はい。私も母の出身地はよく知らないのですが、周囲では聞かなかった風習や料理をたくさん教えてもらったのです。」

レグリチェは結局、大きな不幸の肩代わりをしてくれなかったし、母から伝え聞いた他のおまじないでも、両親を守ることはできなかった。ご利益のないそれらに失望したこともあったが、今ではそんな罰当たりな感情も薄れ、色褪せたような記憶として残っているだけだ。

「興味深いですわ。貴女からは不思議な魔力を感じるのですが、それも母君の影響かしら?」
「魔力?」
「私の目は誤魔化せませんわよ!貴女からは豊富な魔力と…何と言うか…流れのようなものを感じるのです。魔導の天才である私が言うのですから、間違いありませんわ!」

コンスタンツェは大層自信ありげだが、言っていることがよくわからない。

「そう言われても…人の魔力なんて感じれるものなのですか?」
「ええ。人は皆、大小あれど魔力を持っているでしょう?微細なものや動植物のもの、魔導の道にいない者の魔力は殆ど感じられませんが……アルファルド様も魔力が豊富なようですわね。」
「へええ…そんなことがわかるなんて、コンスタンツェはすごいのですね。」
「おーっほっほっ!私ほどの者であれば当然ですわ!」

魔力の扱いに関しては、魔法を得意としていた父から教わった。移民であった父はフォドラにはない魔法の習得方法で私を教育してくれたが、修道士だった頃に魔力がどうだとか指摘されたことはない。傍目には不思議がないはずだが、習得方法が違えば魔力も少し違ってくるのだろうか?それをコンスタンツェにどう話したものだろう?そう思案していれば、ダリスが水桶を持って居住区に向かう姿が見えた。

「……あの子の母親、だいぶ回復したようですわね。」

コンスタンツェと共に見回りをしている市場には、駆けていくダリスを見て安堵している顔がちらほらあった。あの母子を気にかけていた者は思いの外いたらしい。

「はい。ダリスやウテナと毎日いろいろな会話をしているようですね。体力は衰えてますし、味覚は機能していないようなので、元気、とは言い難いのですが…。」

ダリスとジュリアを外に連れ出し、死ぬか生きて息子と向き合うかの選択肢を提示し、そして後者を選んだジュリア。彼女はダリスとウテナの手を借りて、少しずつ生きた屍から人間に戻ろうとしている。家族との時間を優先させるべきだろうと、私は様子を見に行くのを最低限に留めていた。

「……よかったですわ。言い方がよくないかもしれませんが、あなたも肩の荷が降りたのではなくて?」
「…ふふ、ありがとうございます。もちろん安心はしましたよ。ただ、私が目指していた医者というのは、こういうものでしょうから。」
「そういうものかしら?寄り添うにしたって線引きは必要だと思いますわよ。」

不意に鋭い言葉が飛んできて目を瞠る。首を傾げてコンスタンツェを盗み見れば、彼女は少し目を眇めて市場を見渡していた。

「……。」

医者としてではなく、かなり個人的な感情を持ってあの母子に寄り添っていたのは確かだ。ユーリスやバルタザール、アルファルドさん、誰がそれを見抜いていてもおかしくはない。けれど盗み聞きも働いていたらしいユーリスなら、勘が鋭そうで何もかも見透かしてしまいそうな彼なら、私の本心にも気付いていたのかもしれない。そして、それら全てではないにしろ、何かしらの懸念を持って灰狼の学級の皆にそれとなく伝えたかもしれない。私のなかの歪さを。

「……そう、ですね。」
「そうですわ。貴女だけが心身を削るのは不快ですから、次は周りを使いこなしなさいな。」
「…え?」

コンスタンツェはくるりとこちらに向き直ると、腰に片手を当てて立ち止まった。鼻先が綺麗な指で小突かれ「んぎゃっ」と可愛くない悲鳴が漏れる。

「リルメはジュリアのことを相談されましたけど、食事中だったからといって本当に気分を害したわけではなかったのです。」
「そ、そうなのですか…?」
「確かに私もまともな助言などできてなかった、かもしれません。けれど、それはただ、……いえ、それ以上に貴女が、その…、」
「心配だったんだよねー。」
「きゃああ!」
「っは、ハピ…びっくりしました…。」
「ごめんごめん。なんかコニーがいいところでモゴモゴしてたから、つい。」

「モゴモゴなんて…っ、」と戦慄くコンスタンツェに、ハピは「おいしいとこ持ってっちゃってごめんねー。」と気の抜けるような笑みを浮かべている。

「リルメはあれ以来相談しなかったからさー、大丈夫かなってハピ達はこれでも気にしてたんだよ。解決したみたいでよかったけど、次の日はリルメ一日中寝てたし、もっと声かければよかったって思ったんだよねー。」
「そっそうですわ。アルファルド様やバルタザールの手を借りるだけではなくて、私の明晰な頭脳を頼っても構いませんのよ!?」
「…ま、自分だけで考えてないで、もっとハピ達にも話してよ。ハピは考えるの苦手だし、薬とかもよくわかんないし、あんまり面倒臭いこともできないけど……何もできないのもヤだからさ。」
「……。」

コンスタンツェとハピの言葉が、じわじわと頭に浸透していく。ピリリと、コンスタンツェに小突かれて鼻先が痺れて、鼻の奥がクッと鳴った。何と言うのだったか、胸が緩むようでいて苦しいこの温かさを。

「……ありがとう、ございます。」

幼い頃の、秋の終わり。忙しくしていた両親の代わりに、ひとりでレグリチェを作ろうとして、ヒカゲノカズラの棘で手に小さな傷をたくさん作ったことを思い出す。両親は勝手をした私を叱りはしなかった。ただ、困った時や辛い時は、些細なことでもちゃんと話しなさいと言った。
あの時の私は「ありがとう。」とは言わなかった。両親の気遣いや愛情を、当たり前のものとして受け取っていたからだと、今ならわかる。

「私達は灰狼の学級に属する、謂わば級友ですわ。有事の際の報告、連絡、相談は義務にしますわよ!」

義務という言葉で、両親の記憶の温もりが薄まる。その代わり、彼女らとの繋がりが約束されたようで、それも決して嫌ではなかった。

「……コンスタンツェ、ハピ。二人には改めて……、っ!」

話を、と言いかけて、足が止まった。

「リルメ?」

角を曲がってきた視界に入った色彩。その姿に視線が定まると、鉛を飲み込んだかのように息も詰まった。鈍い赤毛に銅色の瞳。一見平凡にも思える容貌は、市井で擦れ違っても一瞬で忘れ去りそうなほど無個性だ。しかし極めて端正であるがゆえのそれは、私にとっては決して忘れられない感情の形をしている顔だった。
薄まったはずの両親の記憶の温もりが一気に加熱され、初めて一人で迎えた冬の夜のように、ぎしりと凍てつく。

「…ああ…、やっとお会いできましたね。私のかわいいお嬢様。」