交渉人


「随分と捜しましたよ。まさか噂に聞くアビスにおられたとは。」

その男は人の良い笑顔で両手を広げながら歩み寄ってくる。震えそうになる喉をぐっと締めて、どうにか微笑んだ。アビスに来るまでは呼吸同然にできていたそれが、今ではなんだか難しい。

「…お久しぶりです、交渉人。」
「おや、そのように他人行儀な呼び方をされると寂しいですね。以前のようにカーター、と…。」

まるで未練ある昔の恋人に送るような、甘やかな視線と声。もちろんそうであったことなど一瞬たりともないので不快でしかない。

「その冷ややかな目も、地下にあってなお変わらず煌めいていてお美しい。」
「……。」
「両親も恋も失ったあなたは自暴自棄になってしまわれたのかと心配しておりましたが…、御創建で何よりです。」

端正な顔立ちをホッと緩め、優しくそう告げた姿を見ると、言葉通りの感情をこの男が持っていることを疑えない。けれど、カーターという呼び名のこの男は交渉人でもあるが、何者にでもなれる演者でもあるのだ。決して表面に騙されてはいけない。

「…ところで何故、アビスにいるのでしょう。」
「本当に、つれない方だ。あなたに会いに来たのだと、ご存知でしょう?」
「では、ご用件はお済みですね。出口はあちらです。」
「はははっ、私の大切なお嬢様は毒舌を覚えられたようだ。これもまた刺激的で良いものですね。」

黙って成行きを見ていたコンスタンツェとハピに振り返り、視線で「行きましょう」と促す。二人は訝しげに、とりわけハピは警戒心を露わにして交渉人カーターを見ているが、できれば奴のことは忘れて欲しい。

「リルメ様。」
「…!」
「一度、私に機会を頂けませんか?」

呼び声に振り返ると、交渉人はいつから持っていたのか知れない花を一輪差し出し跪いていた。端正な顔が甘く整えられていて、それはまるで求婚しているかのようだ。
コンスタンツェとハピが背後で絶句しているのを感じながら、なるほどそういう役を演じているのかと微笑んだ。

「何の話かわかりかねますね。」
「では、ここでお伝えしましょう。」
「結構ですよ。」
「我々の愛しいお嬢様カナリア…、あなたは私が生涯をかけて、」
「よぉ、面白そうな話してんじゃねえか。」
「!」

些か低く言葉とは裏腹に楽しくはなさそうな声。美しいが攻撃的な笑みのユーリスが歩み寄ってきて、なぜだか唐突に逃げたくなった。

「求婚するなら場所は選んだほうがいい思うぜ?」

ここはささやかながら人の集まるアビスの市場だ。ハピやコンスタンツェだけでなく、住人達が多くいる。おおっぴろげにこんなことをされても私は困るが、交渉人は違うのだろう。得体の知れない笑みを口元に浮かべた彼は、わざとらしく苦笑して見せた。

「……ご忠告感謝します。私はそういったことに疎いもので…彼女に会えた喜びでつい、気が逸ってしまったようです。」
「そうかい。じゃあ出直してきな…と、言いたいとこだが、……アンタ、俺と賭けをしないか?」
「!」

その言葉にハッと振り返って首を振る。ユーリスがどういうつもりなのかは知らないが、交渉人に賭け事を仕掛けてはいけない。

「何を賭けるつもりなのですか?」
「以前、バルタザールがこいつに負けたからな。その分を取り返すついでに、…叩き出すつもりだ。ここの住人を怪しげな商人の餌食にされちゃたまらねぇ。」
「あの、このひとは悪徳商人ではないし、アビスの住人に危害を与えるほど愚かでもありません。私の言い分など信用ならないでしょうが、そこだけは保証させてください。」

そう言うとユーリスは片眉を上げて口を噤んだ。

「だから、この男と賭け事はしないでください。」
「……。」

重要なのは交渉人や私が信用に足るかどうかではなく、今この場で彼等に賭けをさせないことだ。その意図が伝わったのか、ユーリスは不可解そうな顔をして私と交渉人を見比べた。

「……リルメ様、」

す、と耳に交渉人の手が触れる。鼻を擽る香りに、思わず耳に触れると花が飾られていた。

「お会いできただけでも僥倖でした。私はあなたの言う通り悪徳商人ではありませんので、今日のところは引きましょう。…けれど、覚えておくといい。」

私の耳元に顔を寄せ艶然と微笑む交渉人から、ふわりと香が舞う。どこか懐かしいにおいに硬直すると、小さく笑う気配。
「求める女性を前にした男など、愚かなものですよ。」
そう低く囁き、飾った花にちゅ、と口付ける。目を見開く私にもう一度微笑んで、交渉人はユーリス達に向かって優雅に一礼した。「また、お会いしましょう。」と。

その背を見送ると再び逃げたくなって、疲れと困惑の溜め息が零れた。

「…っな、何なんですの!?あの気障な破廉恥男は!」

コンスタンツェが顔を真っ赤にして憤慨しているのと反対に、ユーリスはたいそう冷徹な顔をしている。

「……他人の詮索はしないのがアビスでのマナーだが…少しは聞かせてくれるよな?」

ユーリスの有無を言わさぬ笑顔にもう一度溜め息を吐く。
交渉人は「悪徳商人ではない」と言ったが、愚かであることは否定しなかった。

「ここの連中に手を出す危険性がある以上、野放しにするわけにはいかねぇ。」
「…わかっています。」

教室に移動して自分の定位置になりつつある瓦礫の上に腰掛ける。硬くてザラザラしているのに高さや足をかけられる位置がちょうどよくて気に入っているのだ。ここで一息つくと私はもうアビスの住人なのだと実感できた。

「……交渉人…カーターという呼び名の彼は、ヴィット商会の人間なのです。」
「ヴィット商会…縁があったと言ってたな。」
「主に縁があったのは両親ですけれどね。両親の営む診療所は評判がよくて、それを耳にしたヴィット商会が提携を持ちかけたのが始まりです。」
「診療所と商会が提携?」
「大雑把にいえば地域の医療活性化を目的としたものです。両親はより多くの人に手を差し伸べたいと願っていましたから、有力で格式高いヴィット商会と共に取り組めることを心強く思っていたようですね。」
「…商会側が医療活性化の話を持ちかけたのですか?」
「そう聞いてきます。両親はどちらも移民だったので、二人から齎される異文化等の情報もヴィット商会の目的のうちだっただろうとは思いますけど。」

母の出身地である異国での政策を元に、医療活性化計画は立案されたらしい。うまくいけば街は豊かになるはずだから、地主である貴族より補助金が出る、なんて話もあったそうだ。

「……しかし、両親が亡くなり、その計画は企画段階で頓挫してしまいました。そしてヴィット商会は私に両親の引継ぎを要請したのです。」

両親を失い、悲嘆に暮れた日々。現実から目を逸らして呼吸をしようとしても上手くいかず、どのように生きていけばいいかもわからなくなって。それまで、ぼんやりと見えていたはずの未来が唐突に暗澹としてしまったあの頃。
そんな時だったのだ。ヴィット商会が話を私に持ちかけてきたのは。

「私の住んでいた街では、両親が唯一の医者であり薬師でした。その頃は私があまり機能していなかったため、街の人達は治療を必要とした時、隣町にある教会や診療所まで行っていたらしくて。けれど、そんな状態を見過ごしていては両親に顔向けできないと気づき、彼等の試みに手を貸すことにしたのです。」
「…今ここにいるということは、手を貸しはしたけれど、ある程度のところで手放したということでしょうか?」
「そんなところですね。」
「お前、住処がなくなったからここに来たって言わなかったか?」
「…家はもうないですよ。」
「あの交渉人とかいう男の感じを見るに、ヴィット商会は家でも職でも用意する心積りはあったんじゃねえの?」
「……痛いとこつくなあ…。」

できる限り感情が入らないよう、淡々と話していたつもりだが、やはりユーリスは意地が悪い。

「ヴィット商会との計画は、完成の目処がたてば抜けると、ヴィット会頭と約束していたのです。そして正当にヴィット商会と手を切った後で、家はなくなりました。もちろん、ユーリスの言うように、彼らに頼めば家でも何でも手配してくれたでしょう。……けれど、私はあそこにいたくなかった。」
「それは、」
「それよりさあ、ユリー。あの人なんでリルメに会いに来たのかな。」

深く突っ込んできそうなユーリスを、ハピがのんびりした口調で空気ごと遮った。人知れずホッと息をつく。

「ヴィット商会っていうのとは手を切ったんでしょ?」
「…はい。とはいえ、二度と関わらないと約束したわけではありません。以前の契約とは違う、新たな用件なんでしょうね。」
「なにそれ、めんどくさ。」
「まったくもって不快なことですが、次に来たら目的くらいは聞くべきかもしれせんわね。」

コンスタンツェの言う通りきちんと交渉人の話を聞いて、そのうえで追い返せるのが理想なのだろう。私自身彼とは関わりたくないが、私のことでアビスの人たちを煩わせたくもないから、ちゃんと対処すべきかもしれない。

「……そういや、なんで賭けはやめろって言ったんだ?相当強ぇのか?」
「交渉人は確かに強いらしいですが、負け無し、というわけではありません。」
「じゃあいいじゃねえかよ。バルタザールがあいつに賭け負けたせいで、あの男のアビス出入りを黙認することになってんだ。次に俺が負かして出禁にすりゃ済む話だろ。」
「バルト…何やってんの…。」
「交渉人の賭け方は、なんていうか…相手に無傷で勝たせないそうなのです。」
「どういうことですの?」
「私も詳しくは知りません。ただ、交渉人をよく知る人間は皆、彼と賭け事をしてはならないと言っていました。バルタザールのように乗せられて所持金まで賭けることになっていることもあれば、賭けの心理戦の最中で機密を吐かされていることもあるそうです。」
「……面白そうじゃねえか。」
「…私は一度止めましたからね、知りませんよ。」

好戦的な笑みを浮かべるユーリスに辟易しながらも、交渉人の言葉を思い出す。
私に機会を、と言っていた。それがどういう意味なのか、全くわからないわけじゃない。ただ、少しだって考えたくはなかった。