アビスには懇意にしているディオという商人がいる。どこの商会の者かわからないし、怪しげな噂もあるし、得体も知れない。しかし、アビスに害を成すことだけはないのだから、その辺りはどうでもよい。
「……で、ヴィット商会についての情報は掴んだのか?」
「多少はな。…ったく、お前は俺から毟り取りすぎだぞ。」
「敗者は黙って従う掟だろ?それに、ディオにとってもそう悪い仕事じゃなかったはずだぜ。」
「どうだか。とりあえず、こっちが調査書だ。」
調査書という名の走り書きの紙束が渡される。わざわざ清書するなどという手間をかけないのが、この男のいいところだ。
ディオを打ち負かしヴィット商会を探らせたのは、
リルメが初めてヴィット商会の名を口にした時。そこには少なからず、後ろ暗さがあった。もちろん、アビスならばそんなことは些事だ。自分だって悪党だし、バルタザールのように借金まみれの人間だっている。
ただ、些事と呼べるのは、アビスの人間に害がなければ、の話だ。交渉人のように、こんな地下まで追ってきて、アビスの住人に手を出すかもしれない者との関わりとなれば、話は変わってくる。
「……概ね、予想通りだな。」
ヴィット商会はファーガスではそれなりに有名な大商会だ。香辛料や酒を中心に極寒のファーガスで必需品とされる織物にも手を出している。その分、役員や下請けも多いが、カーターという男は表立って動く人間ではないようで、ヴィット商会の中で彼を知る者はいないらしかった。恐らくカーターという名は偽名だろう。
「まだ裏が取れてるわけじゃないが、交渉人と呼ばれる工作員はいるらしい。」
「…そりゃあ、物騒だな。」
「ま、大商会ならそういう人員も必要だろうよ。」
「……。」
カーターが交渉人などという堅気な雰囲気の者ではなく、工作員なんて姑息なものであれば。それと関わっていたらしいリルメは一体何なのか。
「二枚目は、お嬢さんの生家についてと、医療事業の件だ。」
ファーガス北方。ゴーティエ領とスレン地方のちょうど境界付近。名前も聞いたことのない街に、リルメの生家はあったらしい。彼女が名乗らなかった姓を冠した、レイニア診療所。
その近所には街と周辺の村の生活を支えるルグル会なる大店があり、レイニア家の夫妻は診療所を始めた頃からルグル会と交友関係にあった。
「…ヴィット商会とお嬢さん、そしてルグル会での合同事業だったようだな。」
「なんでルグル会とやらが噛んでるんだ?」
「街の人間が言うには、街の医療体制を整えることが優先だからと、お嬢さんがヴィット商会に掛け合ったらしい。街の診療所は街に根付くルグル会の管轄にし、レイニア診療所の顧客をルグル会に売り渡したんだと。街には小規模だが診療所が一応できてたぞ。」
「…それでヴィット商会に利はあったのか?」
「元々、お嬢さんがご両親から得た知識をアテに持ちかけられた話だ。街の診療所が出来るまでの段階で、ある程度ヴィット商会の要望は叶ったんだろう。診療所ができた時の祝いで、ヴィット商会の会頭にお嬢さんが辞去の挨拶をしてたらしいし、別れ方は至極真っ当なもんだったんじゃないか。」
会頭と話をつけたのならなぜ、今更ヴィット商会の交渉人がリルメを捜しに来たのか。自分の知る限り、彼女がガルグ=マク大修道院に来てもう一年以上経っているのは確かだ。彼女の言っていた通り、新たな用件なのだろうか。
そう考えながら調査書を捲った時、紙の裏側に走り書きが見えた。
「……ルグル会の跡継ぎが死んだ…?」
「ああ、ルグル会主導の新年の宴席で、酒を煽って死んだらしい。」
「…酒で?」
「酒に弱いわけじゃなかったらしいが、ファーガスの酒は強烈だからな。その日の体調と合わなかったか、宴席での食べ合わせが悪かったか……ま、不運な事故ってとこだろう。」
「……。」
ルグル会の跡継ぎはまだ若くて容姿もよく、才気溢れる魅力的な男だった。街の娘達の多くが彼に憧れていた。
……その文章も、その先も、今回の件には必要ないものかもしれない。けれど、頭に焼き付くような文字が幾つも出てくる調査書から、目が離せなかった。
そして、
とりあえず話を聞くためアビスの一室に通したリルメと、案内されている間ずっと歯の浮くような台詞で彼女を口説いていた交渉人。そして胸糞悪い自身だけの空間。
「……交渉人、あなたから見た私なんてどうでもいいので、早く用件を言ってもらえますか。一応、話は最後まで聞きます。」
些かサイズの合ってないままの制服姿だけでなく表情や声までもを褒めそやす交渉人に対し、リルメは顔色ひとつ変えずに素っ気なく返す。
何かしらの目的はあれど、口説いている女にここまで可愛げの無い反応をされているのだ。普通なら気を害すなり挫けるなりしそうなものだが、交渉人はそんな素振りをひとつも見せず、寧ろどこか愉快そうですらある。
「つれませんねぇ。もちろん私はいつでも本題に入れますが…、いいのですか?彼に聞かれても。」
「……彼なら構いません。」
「おや、余程彼を信頼しているようだ。これは妬いてしまいますね。」
冷たく交渉人を睨んだリルメに、甘い笑みを向ける交渉人。思ってもいないことを澱みなく垂れ流すこの男のことは、すでにわりと嫌いになってきた。リルメの「構わない」が信頼故のものではないことくらい、自分が一番わかっている。
「……えらくリルメにご執心な男が悪さをしないよう見張るだけさ。別に口外はしないから好きなように話しな。」
その言葉に推し量れない笑みを浮かべた交渉人は「では、遠慮なく。」と姿勢を整えた。
「まず、今回あなたに会いに来たのは私の独断です。」
「あなたの独断?じゃあ、会頭は…、」
「私の考えも行いも、何も伝えておりません。知ってはいるかもしれませんがね。」
「…そうですか。それはつまり、ヴィット商会の損益に関わる話ではない、と?」
「さて、それはこれから確認しますよ。」
なるほど、と頷くリルメはここまで淡々とした表情のまま。後ろめたいことなど何もなく、自分に非はないと確信しているような、そんな表情を今のところは貫いている。先日書庫で見せたような澱んだ目など一瞬たりともしていない。
「単刀直入に申しますと、私はあなたに惚れ込んでしまったのです。」
「……。」
「信じられないのも無理はありません。私はあなたが立ち去るまで、あなたの魅力に気付かなかったのですから。」
リルメの冷然とした眼差しと、交渉人の熱の籠った眼差しが交差する。
「あなたが姿を消し、事の全容が見えた時、私は戦慄せずにはいられませんでした。」
「事?」
「ええ、それはもう見事としか言いようのない、最善を尽くした復讐劇でしたね。」
復讐。その言葉に少なからず衝撃を受けた自分と違い、リルメは僅かに首を傾げただけだ。交渉人は好意的に見えるような笑みを深めた。
「…復讐、ですか……まるで、私が誰かに大切なものを奪われたみたい。」
「奪われたではありませんか。……初恋の男に、愛する両親を。」
「へえ…では、私は、両親の仇として初恋の男を害したというのですか?」
「それだけでなく、ご両親の死に一枚かんでいたヴィット商会の利益も横流ししてしまわれた。」
「……ヴィット商会が両親を?ご冗談を。あれだけ商談を重ねて、あの企画の利を散々私に説いていたあなた方が?」
「それ以上の利があれば、あっさり掌を返すのが商人というものです。そのうえであなたを掌握できればよかったのですが、会頭はあなたに甘い。同じ年頃の娘がいるからでしょうが、会頭は未だにリルメという女性のことを何も知らない哀れな少女だとしか思っていないのです。だから簡単に手放してしまわれた。」
リルメの両親は彼女の初恋の男が殺した?そんな情報はディオからのものにはなかった。ディオの持ってきた情報通りなら、ルグル会の跡取りが彼女の初恋の男で、レイニア夫妻の死後は二人の婚約の話さえ上がっていたのだ。両親を失ったばかりのリルメを支えていたのは、ルグル会の跡取りだと。そんな男が彼女の両親を殺し、彼女は仇を討ったというのか。
「私が思うあなたは、何も知らない哀れな少女などではなく…そう見えるよう演じ、見事に目的を成し遂げた、敬愛すべき聡明な女性なのです。」
リルメの冷然としたままの目は、確かに聡明さが見えた。けれど、両親の死に関してあれこれ推察されたあげく、初恋の男を貶され、その男に見事な復讐をしたなどと言われて、静かに怒りを溜め込んでいるようにも見えた。
不意に、貴族の屋敷で見かけた絵画の女を思い出す。微笑む喪服の女。"覚悟"と題されたその絵の、荒廃した静寂に隠された激情。リルメがその女に似ているというわけではなく、しかし何故か彷彿とさせるのは、交渉人の話が事実だからだろうか。
「あなたの母親は微笑みひとつで他人の人生を狂わせるほどに美しく魅力的な方だった。そしてあなたの父親はそんな女性を二十年も守り続けられるほどに底知れない能力を持っていた。」
「……。」
「御二方によく似たあなたもまた、他者を狂わせるほどに魅力的で、底知れない。だから私は、あなたと添い遂げたいのです。」
椅子から立ち上がりリルメの傍で跪いた交渉人は、胸元から小さな花束を差し出した。
「あなたに結婚を申し込みたい。どうか私の元へ来てはくれませんか?」
僅かに瞠られた彼女の目が、差し出した花束に釘付けられている。まるで心を捕らえられたかのような様子に、胸が軋むような不快感を覚えた。
「ファーガス北方はこちらよりも遥かに寒いですが、仮にも私はヴィット商会の幹部です。これまでにない満たされた生活を約束しますし、あなたが好んでいたという木の実の酒も、デアドラ風の織物も、いくらだって用意しましょう。故郷の者達もあなたに会いたがっていましたから、あの街の近くに新居を構えてもいい。」
それは、住処を失いこんな地下に流れ着いた彼女にとって、どんな風に聞こえたのだろう。貧しく不安定なアビスよりも、生活が楽になることを約束されている。両親を失った彼女に新たな家族ができることにもなる。……それは、一般的には幸福なことだろう。なのに、降って沸いたような幸福を喜んでいるようには見えない。
「……なにより、私の元にいれば、白豚の首を取らせてあげられます。」
「…白豚?」
「覚えておられるでしょう?我々の故郷を治める、ゴーティエ辺境伯の遠縁だという子爵のことを。」
「……母にしつこく言い寄っていただけの貴族の首なんていりません。そして豊かな暮らしも故郷の人間との再会も求めてません。」
だから、あなたとの結婚は考えられない。
冷然としたままそう告げたリルメに、交渉人は素直にも苦笑して見せた。
どこまでが真実なのかこの時はわからなかったが、徹頭徹尾その内心を悟らせなかったリルメの、その目だけは過去を掘り起こされて光が磨り減っていくように見えた。