本性と本心


その翌日から、リルメは薬作りを始めたらしい。
コンスタンツェのダークペガサスに同乗して水汲み場の天井に蔓延るカビを剥ぎ取り、バルタザールに再度案内させた地上への道を忙しなく行き来し、アルファルドからアビスの一室をもぎ取ったリルメは、ここ数日ほとんど姿を見せていない。

「まったく…周りを頼るようにとは言いましたが、この私を便利に使うだけ使って放置するだなんて!」

今日も天井のカビを取らされたらしいコンスタンツェが憤慨している。リルメに何をしているのか聞いても詳しいことは話してくれないと、不満そうでもある。

「危ないから近寄るなって言われたもんねー。」
「まったく、リルメは何を考えていますの!?相変わらず花束が贈られてきているということは、あの交渉人とかいう男の件は解決していないのでしょう?」
「つーか用件は何だったんだ?」

コンスタンツェとバルタザールの視線に促されて少し思案する。あの時に口外はしないと言ったのだし、交渉人の話していたリルメの過去を確証も彼女の許可もないまま語るわけにはいかない。

「……用件は、まあ、結婚してくれってもんだったよ。」
「結婚!っは、笑える。」
「でもリルメは断ったんじゃないの?」

結婚は考えられないとリルメは告げたが、すんなり引き下がるわけにはいかないのだろう。交渉人は諦めた様子もなく「また来ますね。」と差し出した花束を彼女に握らせ、その指先に口付けを落としていた。

「おいユーリス、物に当たんじゃねえよ。」

バルタザールの呆れた声にハッとすれば、指先に痛みが走った。腰掛けていたボロい木の机を握り潰していたらしい。脆くなっていたとはいえ、しっかり凹ませてしまった。

「うぉ、なんだこれ。痛ぇな。」
「トゲ刺さったんじゃない?」
「馬鹿ですの、あなた…。」

ハピの言う通り指の腹にいくつかの棘が刺さっている。これは地味に痛い。

「ピンセット持ってねえ?」
「…そういえば、リルメが持ってた気がするー。」
「ついでに、あの子が危ないことしてないか様子を見てきたらどうです?」
「ああ、あと、そろそろ飯食えって言っといたほうがいいぜ。」

口々にそう追い立てられ、半ば締め出されるように教室を出る。ズキズキと痛む指先を見下ろして溜め息を吐くと、リルメのいそうな場所を当たることにした。

彼女がアルファルドからもぎ取ったらしい部屋は、居住区や市場から随分と離れた所にある。先日見つけたばかりの地下闘技場の更に奥、自分でさえ気付かなかった通路を彼女は見つけた。住人達が使っていない水路も近くにあって丁度いいのだと彼女は言っていたらしい。
しかし訪れた部屋は生憎不在だった。しっかり施錠されていて中の様子は伺えないが、扉にはご丁寧にも「外出中」の札がぶら下がっている。

「…となると、外か。」

一度リルメを迎えに行った女神の塔の裏側だろう。
ふと、あそこがこの部屋からは差程遠くないことに気付いた。それを知っていたうえでこの部屋を得たのだとしたら、彼女は知らない間に随分とこの地下空間を把握していたことになる。


いくつか寄り道をして女神の塔の裏側に出ると、ちらちらと雪が舞っていた。ぼんやりした灰色の空を見渡すと、大修道院の橋梁が目に入る。翌々節に卒業を控えている士官学校の生徒が駆けていくのが見えて、不意にあの色の制服を着ていた頃を思い出した。何年も昔の話というわけではないのに、妙に遠く感じて目を逸らす。

「……。」

雪が降っているからだろう。口布をしてそこそこ着込んだリルメの野暮ったい姿を見ると、なんだか気が抜けた。木の枝に麻布を引っ掛けて広げており、傘となったその下で何やら作業をしている。

「リルメ。」

呼びかけると大きく肩を跳ねさせて振り返る。自分を見る彼女の目には、いつも微かな怯えがあるように思えた。

首を傾げて何の用かと尋ねた彼女に指先の痛みを思い出して、ピンセットを借りれないかと聞けば薬液塗れなのでと断られる。
そしてリルメは手を拭くと、遠慮なく俺の手を取った。周囲と、とりわけ自分とは距離を置こうとしているのに、ふとした時に簡単に手を伸ばしてくるのだからタチが悪い。

「これくらいならすぐ……はい、終わりです。」
「もうできたのか?…ライブ、じゃねえよな?」
「そんなちゃんとした魔法じゃないですよ。傷を修復する要領で棘を真っ直ぐに押し出して穴を塞ぐだけで…、」
「傷を塞ぐだけのライブより高度そうなんだが。」
「…言われてみればそうですね。」

首を傾げつつ、まあ医者ですからと、雑に流して作業を再開したリルメの手元を見る。土を入れた容器にカビのようなものを植えていた。

「コンスタンツェが文句言いながら取ってたのはこれか?」
「はい。コケの一種なので培養しているのです。」
「コケなのか?カビではなく?」
「カビはこっちです。有害なので自分で採取しました。」
「有害だと?」
「居住区付近にはないので大丈夫ですよ。」
「それもだが、お前に害はないのか?」
「…扱いに気をつければ。ユーリスもこれには顔を近付けないでくださいね。」

胞子を吸い込みすぎると危険だから口布をしているのだと付け足され、少し顔を引く。そうして改めてリルメを見れば、骨張った手首が目に付いた。

「……ちゃんと食ってんのか?」
「え?」
「飯だよ、メシ。」
「ああ、お腹が空いたら食べてますよ。」
「それは不摂生な奴の常套句だな。」

呆れてそう言えば、リルメが口布の下で唇を尖らせたのが見えた。思わず口布を引き剥がしたくなって、寸での所で留まる。

「ユーリス?」
「…一応、食堂でパン貰ってきたから、キリいいところで手止めて食え。」
「パン…、」

パンを入れた紙袋を少し広げると、香ばしい小麦が薫る。まだ温かく、寒い雪空の下では湯気が立ち上った。じっとそれを見てお腹を抑えたリルメは首を捻りながらも「いただきます。」と受け取った。

「……あったかい。」
「お前に渡すっつったら食堂のおっさんが焼き立てくれたんだ。この前の礼だってよ。」
「食堂の…?火傷の人ですかね、それとも腰痛の?」
「知るかよ。食いに行って直接聞きゃいいだろ。」
「別にどうでもいいです。……あ、クルミ。」

両手でパンを持って頬張り、はふはふと口の中で冷ましながら咀嚼し、飲み込んで「おいしい」と少し笑う。白い吐息を可笑しそうに眺めて、リスのように小刻みにカリカリとクルミを噛み砕いて楽しんでいるようだ。

なぜだかリルメの言動が拙くなったように見える。取り繕っていただけで、元々こうなのかもしれない。心のままに動いているようで、それをなんとなく可愛いと思う。

「…ひとつ、聞いていいですか?」
「な、なんだ?」
「その…私のこと、どう思ってますか?」
「ごほっ!?」

心を見透かされたのかと思った。しかし、ごほごほと噎せる自分に驚きながら大丈夫かと問うリルメの目に咎めるような色はない。ホッとしたような疚しいような気持ちの胸を、どうにか落ち着かせる。

「……悪ぃ、ちょっと器官に入った。」
「あ、いえ…私も変なこと聞きましたね。……ただ、少し気になっただけなんです。」
「…何が?」

そこで口にするのを躊躇われると、こちらもヤキモキしてしまう。せっかく落ち着かせた胸が騒ぎそうになったが、目を伏せたリルメの横顔がなんだか憂いで見えて目を瞠る。

「……どうした?」

思わずリルメの頭に手を置いて首を傾げると、彼女はこちらを見て目を丸くしたあと顔を歪ませた。

「…っユーリスは変です。ずっと私を警戒してるみたいなのに、ときどき真剣に優しい。」
「……、」
「面倒見がいいし責任感もある級長だからと、わかっていますが、それだと優しさが嘘らしく思えてしまう。…それに、意地悪です。」
「あー…その、」
「ジュリアのことだってそうです。彼女がああいう状態なら先に教えてくれたってよかったじゃないですか。おかげで私は彼女が無駄に嫌いになっちゃいましたよ。……終わったことなんでもういいですけど。」

むくれたように呟いてパンに齧り付く。もういいと言いながら全くそうではない顔は、珍しく素直で。この機を逃せば彼女はまた取り繕ったような態度になるかもしれない。焦りそうな頭を必死に回して言葉を探す。

「……悪かった。その…ジュリアのことは、俺たちじゃ駄目だったんだ。頭ごなしにあれこれ言うのは簡単だが、あの人の耳に入らなきゃ意味がねえ。這いつくばって泥水啜って生きてきたような人間の言葉は、死にたい人間にとっては他人事でしかない。」
「…その点、私なら違っただろうと?」
「まあ、そうだな。大修道院にいた頃のお前も知ってたし、ここに来た時の言い様から考えても、お前が生に貪欲ではないことくらい想像ついてた。」
「……ますます意地悪です。」
「は…、」
「私は両親にたくさん愛されて育った、幸せな子供です。両親が一生懸命守り育てた命だとわかっているから、自ら命を絶つことだけはしなかった。」
「……。」
「だからダリスが母親を失いたくない気持ちは痛いくらいわかりますが、自分を望む子供に見向きもせず死にたがっていたジュリアのことはふざけんなと引っぱたいて水路に顔を突っ込ませたいほど腹立たしかった。」
「おま、」
「呼吸のために藻掻けば自分が生きたがっていることぐらい自覚できたかもしれないでしょう?まったく、ジュリアにだって大切に思い合っていた母親がいたそうなのに、手を取り合える距離に家族がいてあの有様とは……あれに共感できるだろうなどとは思わないでほしいですね。」

冷たくそう言い放ったリルメは、残りのパンを口に詰め込んで顰めっ面のまま咀嚼した。場違いにもその顔がやはりリスのようだと思いつつ、何からどう言ったものかと考えを巡らせる。そうして何も言えないでいるうちにパンを飲み込んだリルメは、言葉まで飲み込んだかのように小さな溜め息を吐いた。

「…とはいえ、彼女には同情もしましたし、全く共感できなかったわけではありません。ダリスが望まれていた子供ではなかったのもわかっています。」

これは八つ当たりでしたね、すみません。小さくそう言ったリルメが次の瞬間には作り笑いを浮かべる予感がして、咄嗟に肩を掴んでこちらを向かせた。

「そんな物分り良くなろうとすんな。」
「…え?」
「頭でわかっていても感情が追いつかねえことなんかいくらでもあるだろ。腹立てるのは理不尽なことじゃないはずだ。」
「……、」
「今のだって八つ当たりだとは思わねえよ。それもお前が確かに感じたことなんだろうし、俺がろくに知らなかった部分でもある。言われなきゃわからないまま、同じことを繰り返してたかもしれねえ。」

言いながら、これはまるで嫌われたくなくて何でも許してしまうのを綺麗に言い換えているだけのように思えてきた。しかし疑う余地もなく全て本心なのだから気の所為だろう。不思議そうに瞬きを繰り返すリルメにも不快感はなさそうだし、今なら自分の言葉を嘘らしく感じられることもないかもしれない。

「……ジュリアのことは、一方的に負担をかけて悪かった。お前にあそこまでさせるつもりは本当になかったんだ。」
「いえ…私こそ、気遣いを突っ撥ねてしまってすみません。余裕をなくしていたようです。」

そうして漸く少し微笑んだリルメに、やっと人心地がつけた気がした。
死にたがり同士なら分かり合えるだろうと、そんな浅はかさばかりだったわけではない。リルメがどう動くか知れれば、彼女との接し方もわかると考えたのだ。懸念を抱いてしまうような仄暗さを携えた彼女の闇の底を知りたかった。

「……暗くなってきましたね。」
「ああ。雪も強くなってきたし、帰ろうぜ。」

広げていた道具を片付けるのを手伝い、リルメに手を差し出した。少し首を傾げた彼女は木の枝に引っ掛けていた麻布をこの手に乗せて「ではこれをお願いします。」と微笑んだ。先は長そうだが、まあ今はこれで十分だろう。