先の話


カランコエの丸みを帯びた多肉の葉に触れる。しっとりしていて、ほんのり柔らかい。花言葉でもある「たくさんの小さな思い出」は、この花鉢を見つめていたところで甦らなかった。当然だ。知識はあっても思い入れがないのだから。

「あなたを守る…ね。」

もうひとつの花言葉にも特に思うことは無い。けれど明確に結婚を申し出た交渉人に小さな花束を渡された時は、つい思考が固まってしまった。あの花束には、優しい思い出と、あったはずの未来が映し出されていたのだ。

(母さんと作ったレグリチェを思い出すような、赤い編み紐とヒカゲノカズラ。そして夏に咲くはずのジニア。……父さんが提唱していた温室栽培が成功した証だ。)

医療事業で計画していた、魔力頼みの温室による魔力頼みの栽培。夏を最盛期とするジニアの花を真冬に咲かせ、遠い極寒のファーガス北方からここまで、長期間枯らすことなく持ち込んできた。
ガルグ=マクの温室だってかなり良質で肥料も豊富だが、自然の摂理をガン無視した植物はさすがに育てられないだろう。この成功は、大変なものなのだ。

ジニアの花言葉は「不在の友を想う」「注意を怠るな」だった。カランコエの「あなたを守る」という花言葉といい、これらはまるで、気遣いや心配を示しているようで正直気持ちが悪い。意図が読めないのだ。

「……え、」

書庫を出てアルファルドからもぎ取った作業部屋に向かう。その途中、アビスの住人達でさえ立ち入らないはずの通路で、交渉人と鉢合わせた。なぜこんな所にいるのだろう。

「…おや、ちょうどよかった。あなたを捜していたのです。」
「……私も、ちょうどあなたのことを考えていたところです。」
「それは嬉しい。どのようなことをお考えだったのですか?」
「私は何に注意すべきなのだろう、と。」

ひとりで考え込んでいても仕方ない。そう割り切って訊ねてみれば、交渉人は目を丸くしてすぐに悪戯な笑みを浮かべた。

「私には注意を払わなくていいのですか?」
「……あなたは、別に。」

交渉人は、怒りと悲しみを呼び起こすような、消えたはずの復讐心を燻らせるような、そんな存在であることは確かだ。だが、再会した時のような強い嫌悪も今はなぜかない。まさか花束とその花言葉に絆されたのだろうか。いや、まさか。

「ヴィット商会がその気になれば、私をここから引き摺り出すのは容易いはずです。なのに、あなたはそういう手段を取ろうとしていない。」
「結婚を申し込んでいるのですから、無理強いはしませんよ?」
「こんな所まで通い詰める理由が結婚だけだと?仕事でガルグ=マクに滞在しているついでとか?」
「もちろん利益を得ることも考えていますし、ついでに仕事もしています。けれど、私はあなたと会うためにここに来ている。」
「だから、」

わざわざ会う理由が結婚のためだけだとは思えないのだと、そう口にしようとして思わず噤む。瞬きの間に距離を詰められ咄嗟に後退りすれば、とんっと壁に背が当たった。

「…交渉人?」

そうすべきではないのに、つい彼を見上げてしまって、間近にある銅色の瞳とかち合う。首の裏に手が回り頬に手を沿わされた。

「……。」
「えっと…?」

初めて知ったことだが、首裏と頬を取られると顔が動かせないらしい。間近にある交渉人の顔で視界は埋め尽くされているし、その目はじっとこちらを見ているだけで何も読み取れない。先程までの饒舌さは何だったのか、唐突に目の前で黙り込まれると対処に困る。以前程の嫌悪はないにせよ、恨んではいるのでこの距離でいるのも不快だ。

「……。」
「…あの、用がないなら離れてもらえま……っなに、」

ぴたりと密着してきて交渉人は、膝を私の足の間に差し込んだ。後頭部は固定されたまま、頬に添えられていた手が腰に回って引き寄せられる。思わず胸を押し返したが微動だにしない。

「ここで用を済ませてもいいのですね?」
「よ、用…、」
「声は響きますが、誰も来ませんよ。」

腰から背筋をなぞり上げられ、しゃっくりのような声が漏れる。耳元に口を寄せた交渉人が「力を抜いて、」と囁き、自分を覗き込んだその顔を見て、微笑んでいるのに「能面のようだ。」と思った。
視界の端がチカリと煌めく。

「相変わらず場所を選ばねえやつだな…!」
「…選びさえすれば構わないと?」
「んなわけあるか。」
「おや、息があがってますよ。」

うっせえと雑に返したユーリスは、交渉人に向けていた刃物を仕舞いながらこちらを睨んでくる。

「お前も、なにボケっとしてんだ。」
「…いや…びっくりして。」
「それじゃ相手の思うツボだろうが、馬鹿。」

交渉人の言うように少しだけ息をあげている。走ってきてくれたんだろうか。
念の為に薬を手にしていたが使う必要はなさそうだ。掴んでいた薬瓶をポケットにこっそり落とそうとして、指先から滑ってポケットに弾かれた。何やら言い合いをしていたユーリスと交渉人が、私の「あっ」と零してしまった声に振り返る。カランと床に転がったそれを慌てて拾い上げると、訝しげな顔のユーリスに作り笑いを向ける。

「それ…、」
「ち、違いますよ、これは。使っても後で相談はするつもりで、」
「事後報告じゃねえか。後始末の相談をされても困る。」
「これはそんなんじゃなくて、ちょっと意識が混濁する程度のものです。混濁している間にどこまでしておくか、というのを相談するつもりでした。」

そう言いながら、気が楽になるのを感じた。過去のことを話したからだろうか。私の復讐を知っても態度を変えず、こうして手助けしようとしてくれる人がいるから。だから交渉人に対する嫌悪感…というより警戒心が薄れているのかもしれない。
なんて感心しつつユーリスを見れば、彼は何とも言えない顔をしている。しかし交渉人は鼻につくような態度から一転、弾かれたように声をあげて笑いだした。

「っははは!さすがはお嬢様。武器は鈍っていないようで安心しましたよ。」
「え、笑うとこ…?」
「これならば、もっと良い話ができそうだ。」

そう言った交渉人は愉快げに目を細めて笑った。先程まで能面のようだったのに今では本気で愉快そうなのだから不思議だ。良い話とはなんだろう。
準備があるので詳しい話はまた今度、と交渉人は去っていった。

「…ほんと、よくわからない人ですね。」

そうユーリスに振り返ると、酷く目の据わった女王が顎に手を添え何かしら思案していた。なんだかとても怖いので見なかったことにしていいだろうか。そっと退散しようとしたが、目敏く気付かれた。

「なあ、リルメ。」
「な、なんでしょう。」
「…特訓、しようじゃねえか。」
「…特訓?え、いや、何の特訓か知りませんがしたくな…、あ、いえ何でもありません…。」



························


教室は寒々しい空気だった。
ユーリスをお頭と仰ぐ破落戸が一瞬だけ教室を覗き見ては慌てて立ち去っていく。虚ろな目をしたリルメはそれを横目で見送って前に視線を戻した。リルメの視線の先には薄汚れた天井と、目の据わったユーリスがいる。

「ユーリス、お前ここに居…っと、邪魔したな。」
「待て、バルタザール。」

瞬時に踵を返そうとしたバルタザールを鋭い声で呼び止めたユーリスが、上体を起こして前髪を搔き上げる。下から見るその姿は扇情的なはずなのに、やはりリルメの目は死んでいた。

「呼び止めんなよ。見物しててもいいのか?もし俺も交ぜてくれるってんなら、」
「ふざけんな、誤解だ。」
「お前…女に馬乗りしといてよく誤解だとか言えるな…。」
「…護身術の特訓だよ。」
「……何て?」
「護身術の特訓だっつってんだろ!」
「この妙な空気で?」

最初はこんな空気じゃなかった。ユーリスの目は当初から据わったままだが、異性との距離感がどうとか油断してはいけないとか、そんな説教を垂れていただけだった。そして護身術の実践に移り、いくつかの段階を経てユーリスが馬乗りになった時。こうなってしまった場合の対処法を述べつつ、女ならもう少し危機感を持てという体の小言を連ねたユーリスに対しリルメは「お母さん。」と、呟いてしまった。普段であれば適当に流すなり笑ってやり過ごすなりできただろう。だが、今のユーリスにとっては心に傷を負うような一言だったのだ。

「……こいつをそんな風に呼んだのはお前が初めてだと思うぞ、リルメ。」
「す、すみません、ユーリス。何かと世話をかけていますし、気にかけていただいているので、つい……バルタザールもいいとこで来てくれましたね。ユーリスが凍りついてたので少し困っていたのです。」

ああ、それで…とバルタザールは同情的な視線になる。ユーリスは化粧を施しているが、そうでなくても大変に美しいのだ。貴族が彼を巡って争ったこともあるという程に。そんな彼が心を砕いて注意を促し、そのうえ色めいた密着までしてきているのに、頬のひとつも染めずに「お母さん」とは。相手がリルメでなければユーリスも笑い飛ばせただろうと思うと、バルタザールは生温くも悲しい気持ちになった。

「指導役、代わってやろうか?」
「……いや、いい。」
「だろうな。」

疲れたように首を振るユーリスにバルタザールが苦笑する。「バルタザールが相手だと潰れそうですね。ユーリスがいいです。」とボヤいたリルメの頭をユーリスは軽く叩いて溜飲を下げた。

「そういや、あの情報は確からしいな。」

不意にバルタザールが得意気な顔をして言う。

「あの情報?」
「おう。次年度の士官学校には、各国の要人の子がわんさか入るらしいぜ。」
「皇女に王子に盟主の子息…三国の跡継ぎだな。」
「え…、」
「それに加えてか合わせてかは知らねえが、高位貴族のガキ共が入学すんだとよ。」

アドラステア帝国の皇女に、ファーガス神聖王国の王子、レスター諸侯同盟の次期盟主。彼らが一堂に会する年となるだろう、とユーリスが告げた。

「…これまでも貴族の子達が多くて面倒臭いと思ってましたが、それに比べたら可愛いもんですね。次年度の先生たちは大変な思いをしそうです。」

なんて他人事のように言い合ったその数節後に、面倒臭い貴族の子達の世話になるとは、この時は誰も想像していなかっただろう。