ぬるいお茶、一滴残らぬ花冷え日


じりり、と蝋燭の火が燃える。
ガルグ=マク大修道院の地下に広がる薄闇の街・アビスは、麗らかな陽射しが届かないまま、未だ真冬のように寒々しい。

比較的整った瓦礫に継ぎ接ぎのテーブルクロスをかけた卓上には、色の薄い茶が白く湯気を燻らせている。安い茶葉の、更に何度も使い回された出涸らしのそれは、香りなど殆どない。出涸らし特有の雑味や渋味と微かな香り、あとは視覚から受け取る雰囲気を楽しみ、体を温めるだけの飲料だ。この貧しいアビスでは、さして珍しくもない嗜好品である。

そんなお茶は清貧を通り越してもはや惨めにも思えてくるが、なぜかそんなに嫌でもないのだと、以前リルメは笑っていた。
それは出涸らしではない極めて普通のお茶、更に言えば高級なお茶を難無くその手にできるような富める者の娯楽であると、不愉快なごっこ遊びのようなものであると、その時のコンスタンツェは腹を立てたものだ。
当時のコンスタンツェにとっては、あまりにも不快で惨めになる言葉だった。

( ……お茶だけではない。温かな料理も、守られた家も、愛しい家族も、誇りさえも……この手から奪われたばかりだったから )

ある晴れた日に突然、この手から取り上げられたものだった。そうして初めて、それらが幸福の証だったと知った時のことは到底言葉にできやしない。自分は幸福だったのだと知った時には全てを失っていた。残ったものは自分自身と、太陽を恐れる腹立たしい自分と、暗澹とした未来のみ。

絶望とも呼べそうなその感情は、しかし、いつの間にか時の流れに均された。あの頃のような幸福ではない代わりに、ささやかな平穏を得ていた。寝食に困らない生活のなかで、その絶望に似た闇は心の奥底に沈んだのだろうと思う。


( 絶望する程の喪失もなく、恵まれた立場であるリルメと私はまるで違う……けれど、落ちぶれた私に誰よりも寄り添ったのは彼女だった )


そんな彼女は、いつものように出涸らしの薄い茶を「味がしないなあ」とぼやきながらも、微かな香りを味わい尽くすように大事そうに飲んでいた。
同じく薄い茶を手にしながら彼女と向かい合うのはアルファルドだ。

寒々しい初春の室内の空気は、そのアルファルドの言葉によって今この瞬間に凍り付いた気がする。


「…………今、なんて?」


聞いたこともないような、リルメの掠れた低い声。ひやりとするようなその声音に、ハピとコンスタンツェは思わず顔を見合わせた。

リルメという人間は、自身が周囲にどれだけ悪く言われようが、誘拐などの憂き目に遭おうが、激しい感情を見せることは殆ど無い。怒らないわけでも悲しまないわけでもないが、それはいつもさらりとしているのだ。本心を見せていないだけかもしれないが、ウィリアム司祭いわく「リルメはアビスにいる時が一番素直である」そうなので、心を大きく波立たせないのは育ちや元々の気質によるものだろう。
以前ヌーヴェル家の没落を笑った生徒を泣かせたことはあるらしく、攻撃的な部分もあるにはある。しかしリルメ自身に関することで彼女が大いに機嫌を損ねているところを、コンスタンツェは初めて目にしていた。


「では……今一度、噛み砕いてお伝えしましょう」


彼女の据わった白緑の目の悪辣さときたら。蝋燭の明かりに鈍い光を湛えている様は悍ましくさえある。美人の怒り顔に迫力があるのは自然の摂理のようなものだが、真正面からそんなリルメに見つめられているアルファルドは、しかし動じることなく小さく苦笑した。


「週明けから士官学校の新たな生徒達が入寮を始めます。今年の生徒達と交流を持つため、半年程はアビスへの立ち入りを控えてください」
「……アビスの支援は、私のしている唯一の仕事です。それを控えろと?」
「私も貴女がいなければ困るのですが……アビスに来るのは週に一度くらいにした方がいいでしょうね。それならば、大司教も否とは言わないでしょう」
「……」


すとんっと、何かを取り落とすように表情を消したリルメに、アルファルドは気遣わしげな顔をした。

アルファルドは修道士だが、同時にアビスを庇護する管理者のようなものだ。教団と交渉して得た資金と彼の私財でアビスを支援する彼は、安寧などなく荒んでいたアビスを安定させた救世主なのだそうだ。信心を深めるための女神よりも腹を満たしてくれる彼こそが神様だと讃える住人は多い。
誰に対しても穏やかで優しいが、荒くれ者に侮られるほど惰弱でもないため、コンスタンツェにとっては理想的な頼れる大人だった。

リルメはそんなアルファルドと付き合いが長く、彼の補佐をしてアビスの手入れをしてくれている。なぜアルファルドがそんなリルメのアビス立ち入りを制限するのかだろうか。


「大司教も今回ばかりは信徒達の声を蔑ろにはできないのでしょう。……次代を担う各国の若者がここまで集うことは、今後ないでしょうからね」


アルファルドの言う次代を担う若者、とは言葉通りのそれだろう。次期皇帝、次期国王、次期盟主。そして各国の高位貴族の子息達、果ては異国の姫までもが、翌節から一堂に会することになる。……と、ユーリスをお頭と仰ぐ破落戸達から聞いている。

( ……それらは政治的な価値や将来性の高い生徒達ともいえる。そんな者達と交流を持たせたいのは、やはり教団と各国の連携の為…?……いいえ、教団のためだけには働けないリルメが外交的な務めに関して望まれていることなんて… )

そう考えかけた時、溜め息のように消え入りそうな声が耳を掠めた。


「………で、」
「?」
「……あなたまで、どこかへ行けと言うのですか」
「!」


喉を引き絞るような声。きゅっと胸が締め付けられるその声の切実さに、息を呑んでリルメを見た。

不肖姫と、侮蔑と諦観をもって呼ばれるリルメに望まれるのは、その婚姻によって教団が有力貴族との繋がりを深めることだ。つまり政治的な価値の高い生徒と縁を持てというのは、早くどこぞへ嫁げと言外に告げているようなものなのだろう。
それに気付いてようやく、リルメが感情を押さえつけるように目を閉ざした理由がわかった。

( 地上の他者はともかく、アルファルド様がその後押しをするなんて…! )

ハピが普段は見せない程の俊敏さでリルメに寄り添い、コンスタンツェも少し俯いた友人の前に立って、数秒前に改めて尊敬したばかりの大人を今度は探るように睨みつけた。


「え、あ、ああっ、違います!誤解をしないでください」
「あら、私は何をどう誤解しているというのでしょう?……まさか、アルファルド様は、厄介払いしたがる者達に賛同しているとでも?」
「そのようなことは断じてありえません。ただ、私はリルメの幸せを願って…、」
「それで結婚を押し付けよーとしてるってこと?」
「いえ、いいえ、決して押し付けるつもりはありません。ただ、今回はリルメの為にも、機会だけは持った方が良いと思っているのです」


少しばかり威嚇するコンスタンツェ達を押し留めるように、ゆっくりとアルファルドはそう言い聞かせた。
機会だけとはどういうことだろうかと首を捻ると、アルファルドは「失礼」と断ってコンスタンツェの横から回り込んでリルメの前に膝をつく。いつもアビスの子供達と視線の高さを合わせる時と同じで、汚れや体裁など気にせず、ただ寄り添うようにそっと微笑んだ。

「リルメ、どうか聞いてください……」

どうやら自分達を宥めるよりも先に、眼差しを暗くしたリルメを説得するつもりらしい。


「……貴女が幼い頃にアビスに逃げ込んで来て、私が躊躇いながらも庇護した時から…ずっと私は貴女が心配でした」
「………心配?」
「ええ。貴女に教団の空気が合っていないことは、すぐにわかりましたから。考えあってのことでしょうが、その振る舞いに困惑したこともあれば不安のあまり眠れなかった夜もあるくらい……貴女は教団では浮いていた」


アルファルドが少し口先を鈍らせつつ言ったそれは、昔も今も変わらない多数の評価であることくらい、リルメはもちろん知っているだろう。友人としては不愉快でしかないが、コンスタンツェが士官学校の生徒だった頃から"不肖姫"は存在していた。
幼少期から知る子供がその有様であれば、人の良いアルファルドが彼女を心配し続けてきたのは当然である。


「けれど、そのうえで……というよりこれは、そのために、というのでしょうね。リルメが私の補佐をしてくれていることを、とても助かっていますし、頼もしく思います」


( ……ああ…やはり、そういうことなのかしら )

リルメがアビスの管理に手を出せるのは、教団での一般的な務めを果たしていないからだ。それらを放棄して不肖姫となったからこそ、得られた時間がある。なによりアビスに入り浸るのなら真っ当な姫でいてはいけないのだ。

( ……はぐれ者だからこそアビスに馴染んでしまったのだわ。その為に、はぐれ者で居続け、教団にとっての慮外者となった… )


「リルメがそのような在り方を選んだことは、気がかりが多くある反面……その、図々しく思われるかもしれませんが、貴女の成長や変化を喜ばしく思う親のような気持ちにもなるのです」
「……親…?」
「ええ。貴女の在り方の、その意思を貫く強さを得られたのは素晴らしいことですから」


目を丸くしたリルメに微笑んで頷くアルファルドは、言葉通りの限りない慈しみでコンスタンツェの父を想起させた。
厳格だったコンスタンツェの父は柔和なアルファルドとは似ても似つかないが、こちらの心を大事に扱おうとしてくれそうな眼差しは正に親の持つそれのよう。


「リルメ、以前に私が話したことを覚えていますか?」
「…以前……どれです…?」
「あなたが心から望むのなら、満足するまでアビスにいればいいと……凡庸な身ですが、できる限り庇護すると、お伝えしたでしょう?」
「ずっとここで暮らしてもいいって話していた……?」
「ええ。大修道院との循環を整える必要はありますが、逆に言えば、そこさえどうにかなれば貴女はここに居続けられます」


( ……やはりリルメにとって地上は辛い場所なのだわ )

愚痴のように「上に戻りたくないな」とぼやくこともあったし、コンスタンツェとてそうすればいいのにと思ったことが無いとは言わない。しかしアルファルドと真面目にそんな話を深めていたのだとしたら、リルメは思っていたよりも境界線ぎりぎりの淵に立っているのだろう。


「……ただ、それはやはりアビスの為にも、リルメ自身の為にも、良い選択とはならないでしょう」
「そう、ですね。循環など手を離しても回すことはできるでしょうが、私は、守れるほうがいい」
「貴女ならばそう言うと思いました。これまで通り、大修道院で過ごしながらアビスを支援してくださるのなら……どうか、共に努力をし続けませんか?」
「……努力、……努力かあ…」


そこでリルメは深く項垂れながら長い溜め息を吐き出した。先程までの暗さは薄くなったように思うが、僅かに顔を上げた彼女からは気鬱さが見える。


「それは、ご立派なところに嫁いでガルグ=マクに恩返しをする努力、ですか…?」


アルファルドはその言葉を肯定も否定もしなかった。


「リルメ、貴女は聡明な子です。きっと、周囲の環境も貴女の立場も、私が考える以上のことまで理解しているのでしょう」
「……」
「そして、私は一介の修道士です。大司教殿が下した決断には逆らえませんし、大多数の意見には表立って対立することもできません」


アビスの管理をしているアルファルドにも、同調できない教団関係者がいる。無関心な者も多いが、アビスは浄化すべき闇とする過激な思想の者もいるなかで、リルメひとりのためにアルファルドが立ち上がることはないだろう。残念ながらコンスタンツェにもそこは想像がついた。


「ですが……いえ、だからこそ、もしも想う相手ができれば、どこの誰であろうと私は祝福したいのです」
「……誰であろうと?」
「ええ、それが高位貴族であっても、市井の平民であっても、はたまた海の向こうの何者かであっても、私は貴女が選んだ相手ならば、祝福します。……けれど、あなたのお眼鏡にかなう者がいなければ、誰が何と言おうとこれまで通りで良いのではないでしょうか」
「……アルファルド様…、」


そこでようやく、コンスタンツェはアルファルドの言いたいことを理解した。

リルメが地上を捨てアビスの住人となるなら、アルファルドは彼女をそういうものとして扱いコンスタンツェ達と同じように庇護するつもりだと言った。そして、幸福を得られれば祝福を、そうではなくてもこれまで通りの共存を、とも。
地上の者達の思惑から守ることはできないが、彼自身はそれを手に取らないままリルメを見守ることならばできるということだ。

( ……この方の持つ俄な親心は、そういう形なのだわ。優しく全てを受け入れてくれるけれど、力になってはくれない )

親のように彼女のことを思うと口にし、他者の思惑など知ったことではないと寄り添ってはくれるが、残念ながらそこまでなのだ。
アルファルドの力はリルメの為だけに振るえるものではなく、彼自身が盾になることもできない。それはとても、真っ当なことだろう。

( ……決してリルメを疎んでいるわけではなく、その距離感なりに慈しんでいるよう… )

それを感じ取ったのか、リルメがそろりと顔を上げる。
彼女とてアルファルドに多くを望んでいるわけではないからか、少し冷静な息を吐いている。


「……そう、か。そうですよね。縁がなければ、………」


そしてリルメはまるで光を得たかのように、白緑の瞳をきらりと瞬かせた。


「たとえば、努力して交流してみた結果、良い御縁がなかったとしても、それは仕方がない……ということですね?」
「……リルメ?キミ、ろくでもないこと考えてる顔してるよ」
「やだなあ…そんなことないよ、ハピ。素敵な人がいればいいなとは思ってる、期待はしてないだけで」
「ろくでもないというか、失礼なことを考えてますのね…」
「なにはともあれ、半年の間だけ、努力してるように見せかけられたらいいってことだよね?」
「それは相手を見る気もないということではありませんの?」


呆れなかばにコンスタンツェがぼやいた言葉は、リルメの整った微笑みに黙殺された。


「リルメ、わざと騒動を起こしたり嫌煙されるようなことは控えてくださいね。その手段も相手によっては諸刃の剣ですから…」

今以上に立ち位置を悪くしないようにと言い含めたアルファルドは、そのまま今後の予定をリルメと詰めていく。

リルメは地上でアビスの為の循環に時間を割くようだ。循環とは、大修道院の設備を利用して行うアビスの為の金策らしい。
詳しいことはわからないが、循環のことも含めある程度の方針が決められた。


「では、リルメがアビスに訪れるのは休息日ですね」
「仕事は常時受け付けてますので、アルファルドさんとは上で会うことが増えそうです」
「ええ、その時はよろしくお願いします」


( ……あら? )

ふと、ゆったりと笑みを深めたアルファルドを見て何かが気になった。父親のようにリルメを慈しんでいた微笑みではなく、なぜか仄暗く翳ったもののように少しだけ思えた。
しかしハピの「ねえ」と呼ぶ声に呆気なく気持ちがそちらに向く。


「リルメ、来るのが休息日なら、仕事しに来るわけじゃないよね?」
「うん…まあ、多少はするだろうけど、気晴らしに来る感じになりそう……やだなぁ…コンスタンツェ、時間を早送りする魔導具作って…」
「無理を仰らないでくれます?」
「ていうか、リルメは結婚にキョーミないんだね」


ハピの素朴な疑問にリルメは小さく唸った。決して興味がないわけではないらしい。


「うんん……相手が貴族じゃなければ…」
「え、ムリじゃない?」
「ええ。あなたには頑強な守護や地位が必要だと思いますわよ。脆い幸福や日常は貴族ならば簡単に壊せますもの。あなたのお相手が平民であれば尚更、敵対者は手段など選ばないでしょうね」
「ハピもさあ、幸せになれるんだったら何でもいーかなって思ったけど…それが簡単に崩れるものなんだとしたら、やめた方が……あ、いっそ、平民とここに住んじゃえば?」


真面目で建設的な話をしているかと思いきや、居もしない平民の結婚相手を仮想してリルメが頷いたことで、アルファルドはすっかり気が抜けた。


「やっぱりそうなるよねえ」
「だったらアビスの人間でもいいのではなくて?」
「そだね。ユリーとかバルトは?ナシ?」
「えー…レスターの借金王は苦労しそうだし、女より綺麗な男が相手だと自信なくしそう……そういう二人はどうなの?」
「ま、今更そんな風に見れないよねー」
「私もですわね。そんなことよりヌーヴェル家の再興を優先しますもの」
「だったら、それなりのお相手は不可欠だね」


そうして思うことを口々に咲かせ、なんてことのない、いつもの友人同士の会話になっていく。



リルメもひとまず納得したことだし、地上で声高にリルメを批難する者達もこれで少しは静かになるだろう。アルファルドはそう安堵して、出涸らしの薄い茶を口に含んだ。

( ……味も香りも、温かさすらもないが、それで構わない 。そんなものは、求めていない )

彼女がアビスに来なくなる分アルファルド自身は何かと忙しくなるが、しかし、その程度のことが何の支障になるだろう。
……この心が求める唯一を阻むものなら、排除の目処がたったところなのだから、何の問題もない。


「やっぱりさあ、不可侵の防壁はこっちの術式の方がいいんじゃない?」
「しかし、それでは頑強さが足りませんわ。防壁たるもの破られないものでなくては!」
「コニーは求めすぎだよ……この部分どうにかしないと、こっちにも跳ね返っちゃうじゃん?」


結婚の話をさくっと投げ出し、魔導具の話で盛り上がっている彼女等の拙さを嗤う。

まだ、誰かを心から想い、欲したこともない。恋や結婚に憧れはあっても、その毒と闇を知らない純真無垢な少女たち。
彼女らがそれを理解する日は、きっと来ない。