天才と才能の無駄使い


ガルグ=マク大修道院の書庫は立派だ。
本の価値が馬鹿高いフォドラにおいて、これだけの書物が並べられる場所はそう多くないだろう。そのうえ大修道院の地下にも日の目を見ることのない書物が大量に眠っているのだ。二十年前の大火で多くを失ってなお残るこの財産は、私にとっても十二分に価値があるものだった。

( ……それは、一部の生徒達にとっても同じ )

士官学校に入学する生徒達の中には、ここの書物を目当てに入学する者もいるらしい。よっぽど活字が苦手な者を除き、生徒達が一度は訪れる場所だ。
入学したてのこの時期は、多くの生徒が書庫に訪れる。これまでだったら夏頃までは自身の足が遠退いていたのだが、今年はそういうわけにもいかなかった。

( なぜなら、しばらくアビスに行けないから…! )

地下行きの扉さえ解禁されればアビスの書庫で時間を潰すのだが、今年はアルファルドが……正確にはアルファルドから言い含められた番人や住人達が目を光らせているので、アビスには行けない。正直アビスの書庫の方がおもしろい本はたくさんあるのだが今年は仕方がないと諦めている。


「……ん?」

残念な気持ちで本棚を眺めていると、小柄な女の子が必死に爪先立ちをして手を伸ばしていた。高い位置にある本を取りたいのだろう。
周囲の気の利かない男共を一瞥して、彼女のお目当てらしい本を手にすると「あっ」と小さな悲鳴が下から聞こえてくる。ついでにその隣にあった本を自分用に取って、小柄な彼女を見下ろした。


「はい、これであってる?」

そう言って彼女に差し出したのは理学の本だった。過去に目を通したことがあるもので、理学を修める者には必見の名著だ。
それを受け取ったのは、白い髪に退紅色の知的な猫目を丸くした可愛らしい女子生徒だった。

「……あ、ありがとう…ございます」

少し舌っ足らずな声も可愛いかもしれない。アビスに行けずやさぐれていた気分がそれだけで少し癒されて「いいえ」と僅かに微笑みを返す。
何度かこの書庫で見かけたことのある彼女だが、なかなかに幼く見える。しかしいつも勤勉な様を見ているので、この名著だが小難しい学書を理解できるのだろうかという失礼な懸念は差程ない。


「……それを読むなら、これも持っていた方がいい」
「え?……フォドラにおける気候変動…?」
「中盤以降にある現象理論がおもしろいし、たぶんその学書の参考になる」


ついでだからと取っていた本を渡すと、彼女は不可解そうに首を傾げた。お節介だっただろうか。

( いや…でも、可愛いし )

なんとなく何かしてあげたくなるのだから、しかたない。お節介だろうが、きっとこの本があればいい勉強になるはずだ。他でもない私がそうだったから。

( 頑張れ )

怠惰な不肖姫と名高い私が他人に気安く告げていい言葉ではないそれを飲み込んで踵を返す。目的の本は渡してしまったので、さてどうしよう。何を読むべきだろう。


「やあ、リルメ」


思案していると、ここ数日で聞き慣れた声がした。少し辟易しつつ振り返ると、眠たげな目を擦るリンハルトがいた。


「……こんにちは」
「なんか嫌そうな顔だね」
「そう見える?」
「少なくとも、僕には」
「なら、そういうことでしょ」


そのまま背を向けると「つれないなあ」と呟く声が聞こえてくる。
やはりというか、着いてくる気配のある彼に溜め息を吐いて静かに書庫を出た。先程の彼女をはじめ、読書や勉強をしている生徒がちらほらいるのだ。あそこで話し込むわけにはいかないだろう。


「…どうしてそんなに嫌がるのかな。ちょっと研究させて欲しいだけなのに」


一階に降りて大聖堂へと繋がる橋梁へ出ると、呆れたような声が後ろからかかる。半ばうんざりしながら振り返ると、存外綺麗な顔が心底不思議そうにしていた。


「やっぱりそういう性質なんだね、あなたも」
「性質?」
「観察ができるから人の機微には敏い。けど、人の感情に対して無神経」
「ああ、なるほど」


確かに言われたことあるよ、それ。
何でもないことのようにそう頷く顔は、言葉通り無神経にも無頓着にも見える。こちらの辛辣な言い様を当然のように受け止めてもいるのだから、実は懐が広いのだろうか。もしくは、人間として相手にされてないのかもしれない。


「僕は前々からセイロスの紋章を研究してみたかったんだ。でも帝国の皇族しか持っていないものだから諦めてたんだよ」
「そのまま諦めてなよ。それかあなたのとこの級長に頼めばいいじゃない」
「嫌だよ、消される」
( さては一度打診してあのおっかない従者に脅されたな )

まあ、だからといって彼の研究に付き合う義理はないが。

「……もう懲り懲りなんだよ、そういうの」
「…ふうん…」
「別にあなたが悪いわけじゃないけど、嫌なものは嫌なの」
「そう…わかったよ」
「え?」
「とりあえず研究はいいや」


意外にも物わかりのいい返答だ。出会い頭に紋章を研究させてくれと言ってきて以来、そこそこの頻度でその頼みを断ってきた。それなりに執拗いと思っていたので拍子抜けする。


「まあ、納得してくれたならそれで…」
「そうだね。まずは観察からすることにしたよ」

その言葉に「は?」と声が引っ繰り返る。観察って何だ、私は珍獣か何かか。

「君を知ることから始めようと思う」
「…研究を諦めるんじゃないの?」
「とりあえずは、ね。一年しか時間がないけど、それだけ観察すれば何かわかるかもしれないし」
「一年も観察すんの…?」
「卒業する頃には君の心も変わって、どうぞ好きなだけ研究してくださいと言ってるかもしれない」
「……いや、とても清々しい気持ちであなたの卒業を見送ってると思う」
「さあ、それはどうだろう」

ふ、とリンハルトは微かに笑う。紋章紋章と喧しくしなければ綺麗な人なのに、と惜しんでしまう顔だ。

「……あんまり、観察はしないでよ」
「僕だって常に君を見張ってられないし、睡眠時間も必要だからね。そんなに警戒しなくていいよ」
「…どうだかな。ま、道を踏み外すことだけはないようにしてね」


研究心の旺盛な人間には、時折何もかもを振り切る種がいる。常識も外聞もそっちのけにして、犯罪に手を染めてでも己の研究心を満たそうとする人間がいることを、私は身をもって知っていた。一見そうは見えない人が、とんでもない地雷を抱えていることもあるのだ。リンハルトがそうではない保証はないし、そもそも彼をよく知らない。だったらこちらが彼を監視すべきなのだろうか。

( …面倒くさ… )

観察でも何でも勝手にしてくれという気分になって、それではダメだと自分を叱咤する。勝手にしろと放置し他人の視線に頓着しなくなった結果、ろくでもない目にあってきた。そのことを決して忘れてはならない。



紋章史上主義。
その価値観を嫌悪している人間は少なからずいるはずなのに、フォドラには未だその思想が跋扈している。

確かに紋章は強力だ。英雄の遺産だって、あれば安心な秘密兵器であり滅多に日の目を見ない権力の象徴でもある。それを扱う資格を持つ人間は特別であり、特別な人間が上に立つことが当然。

( ……つまらないよな )

誰が上に立つべきか見極めること、そもそもその為の思考すら放棄しているようなものだ。紋章がなければ権力や金や力が判断基準となり、個人の能力という部分は置き去りにされがちな気がする。


「……はあ…」

書庫前の廊下の窓際で、憂鬱な溜め息を吐く。窓から見下ろした先では、仲のいい司祭ウィリアムが不遇されていた。

( …なんだろう…仕事を押し付けられてるのかな……あんなもの奴らの署名だけして空欄のまま提出すればいいのに )

彼ならば奴らの筆跡を真似て不出来な書類を提出することも、奴らを陥れるように不正を晒すこともできるだろう。けれどウィリアム司祭は決してそういうことをしない。優しいからとか、争いが嫌いだからとか、そんな理由ではなく。

( ……妹がいるもんな )

ウィリアムは貴族家出身だ。長男として生まれたものの、紋章を持つ腹違いの弟に居場所を奪われた。正妻である母が亡くなり、紋章持ちの子を連れた妾が来た途端、正妻の実子であるウィリアムと妹は家から追い出されたのだ。家長である父もそれを容認した。貧しい家を立て直す為、お金は紋章持ちの子に使わねばならないから…と。その後、姓を捨て妹と共にガルグ=マク大修道院に来たウィリアムは、高い能力を発揮しそれを認めた他貴族の後見を得、若くして司祭となった。全ては唯一の家族である妹を守るため。


「……何ですか、あれ」
「!」

不意に可愛らしい声がして肩が跳ね上がる。

「すみません、驚かせてしまいましたね」

いつから隣にたのだろう。ゆったりと謝った彼女に首を振って改めて見下ろした。窓の外、司祭達を見つめて不快そうに眉を寄せた顔は、他の生徒達より少しばかり幼く見える。

「……感じ悪いですね」
「…うん」

ウィリアムの胸を殴るように書類を叩きつけた司祭達が、笑いながら立ち去っていく。ウィリアムは押し付けられた書類を眺めていたが、ふっとこちらに気付くと不敵な笑みを浮かべて軽く手を振った。


「…知り合いですか?」
「そうだよ。……紋章を持っていないために落ちぶれた元貴族、という理由で軽んじられている司祭だ」


司祭になる人間の経歴は様々だが、ウィリアムは貴族家から追い出された孤児同然の立場であった。そして孤児院にいる妹を守る為にも、事を荒立てたり他人に刃向かったりはできない人間だ。つまらない連中はそこに付け入って憂さ晴らしをするのだろう。


「まあ本人の有能さに対する妬みもあるだろうけどね。あの笑顔なら特に問題はなさそうだ」


目を瞠って言葉を無くす彼女に少し微笑む。彼女は少し低い声で「問題ない?」と問い返した。


「ああいうのには慣れてるんだ、彼」
「慣れてるって…そういう問題でもないでしょう。あんなのおかしいです」
「私もそう思う。けどね、集団である以上あの程度の軋轢はつきものだよ」


正しくあれと説く教団にだって負の感情はあるし、女神に仕える誰もが清い聖人になれるわけではない。なれないからこそ、幼子に説くような教えを高々と掲げてもいるのだ。
とはいえそんなこと生徒には言えないので「あれでもウィリアム司祭は世渡り上手なんだ」とはぐらかした。


「それより、私に何か用があった?」

だから隣に来たのではないの?声音を改めてそう問いかければ、女子生徒は不可解そうにしていた顔をハッと目覚めさせた。


「あっ、そうでした。名乗り遅れました、私はリシテア=フォン=コーデリア。金鹿の学級に所属しています」
「私はリルメ。それで、どうしたの、リシテア」
「渡していただいた本について聞きたいのですが……、」


そこから何気なく始めたリシテアとの論議はなかなかに楽しかった。
今年の生徒の中では最年少でありながら、多くの知識を持っている。そして彼女は頭の回転も早く、やはり勤勉そのもの。

私は「将来有望だね」と彼女に感心した。
貪欲に何かを得ようとしているのだ、きっと明るい未来のために頑張っているのだろう、と…安易にそう考えた。
しかしリシテアが浮かべたのは、困ったような、悲しいような悔しいような、歪な笑みで。踏み入ってはならなかったのかもしれないと気付いた時には、手持ちの飴を差し出して話を逸らしていた。







色彩豊かなステンドグラスから透ける光は、あまりに柔らかい。春先の穏やかな陽射しを受けた大修道院では、木々や花が色付き、外で談笑する人々の声が増えてくる。
穏やかな午後だ、溜め息を吐くにはもったいない。まして、気の合わない人と過ごすだなんて……ああ、もったいない。


「………まあ、もう今更、何を言っても無駄なんでしょうけどね」


結局、堪えきれず落ちた溜め息に大司教はゆるりと微笑んだ。ステンドグラスから差す陽が後光となり大司教を神秘的に見せていた。しかし不信心な私にとっては、全てを黙殺する権力の象徴にしか見えない。


「傭兵を……しかも、教団に近寄らず生きてきたような人を、士官学校の教師にするなんて。戦える人すべてが、戦いを教えられるわけでもないでしょうに」
「彼ならば大丈夫です。かつて騎士団長を勤めていたジェラルトの子であるのですから」
「元騎士団長を信頼するのは構いませんが、それを子供に押し付けるのはどうかと思いますよ。実は遅い反抗期の真っ只中だったり、ぐれてたりするかもしれないでしょう」
「まあ、そのようには見えませんでしたよ。とても良い子でした」
「一目見てわかる問題なんて可愛いものです。一目見てわからない部分が裏や本質だったりするのです。実はおかしな趣味を持っていたり、心が病んでいたり、」
「無礼な言い方はおよしなさい」
「……?」


穏やかな笑みを消してそう咎めた大司教は、やはりどこか尋常ではない信じ方をしている気がした。
顔も知らない相手のことをあれこれ推測するのは確かに良くないが、大司教がそれを「無礼」と言っているくらいだ。何かよくわからないが、その傭兵は大司教の中で既に上位のものとして扱われているのかもしれない。
……本当に、何なのだろう。


「そちらこそ、私を頷かせたいならそれなりの根拠くらい用意しといてください。私だって、こんな不毛なやりとりをするのは好みません」
「………」
「別に彼自身を否定するつもりはありませんよ、まだ何も知らないですし。今のところはいきなり教師に抜擢された気の毒な人…と思うくらいです。だから、何かお困りなら手助け程度のことはするでしょう」


生徒を助けたお礼をするくらいならまだしも、教団から離れていた元騎士団長を再びその地位に置き、その息子を教師に取り立てるのは如何なものか。流れの傭兵を好きでしていたかもしれない親子を、この地に縛り付けることにならないだろうか。
彼等が問題を起こすかどうかよりも、彼等の人生を狂わせてしまう可能性があることを、大司教は鑑みない。


「………ええ。彼を助けてあげてください。彼には主の加護がありますから、そうそう問題もないでしょうが」
「……は?教団に近寄らず生きてきた傭兵に、主の加護が…?何を言ってるのかよくわかりませんが、それを他の信徒達には言わないでくださいよ」
「何故です?主の加護を持つ者ならば、安心して信じられるでしょう?」
「や、あなた、信徒を馬鹿にしてるのですか?真面目にお祈りをしたことがない者にも加護が与えられるのなら、毎日ひたむきに祈っている彼等の時間と、その願いはどうなる!」


少し荒げた声が謁見の間に響いて、ハッと口を噤む。

( ……そういえば、この生き物には何を言っても無駄なんだった… )

それでも何か言わなければ気がすまないのは、やはり私が子供で、大司教のことが嫌いだからだろう。


「………新任教師のことは、もう、そうなってしまった以上、見守ることしかできません。だけど、あなたは、本当に……、」



そうして吐き捨てた言葉が誰かの耳に入り、結果として自分の首を絞めてしまうのだとしても、それは仕方がないのだ。
素晴らしき指導者と呼ばれる大司教は、その能力こそあれ、その地位に相応しい人間だとは、とても思えない。