白い紫陽花



早いもので、もう花冠の節も半ばになる。少しずつ気温が高くなってきて、ガルグ=マク大修道院の景観も初夏らしくなってきた。僅かに霧が立ち込める薄曇りの天気が、紫陽花の儚げな色合いに影を落とす。


「見つけた」


人々が静かに息衝く気配としっとりした空気に、その声はぽつりと響いた。


「…ベレト先生?」


相変わらず気配も足音もない人だ。その点ではシャミアも恐ろしいと思っていたが、彼女のそれが息を潜めて獲物を狙う研ぎ澄まされた気配なら、彼のそれは植物のようなものだった。風景に溶け込むものが、ふとした瞬間に意志を持ったかのような……こちらに悟らせるまでは存在していない幻のような、そんな気配。


「最近どうしてた?あまり見かけなかったけど」


とはいえ彼もただの人間だ。こうして口を開けば、淡々としていながら何故か感情が見える温度を声や目元に宿す。


「私にもいろいろあるんですよ。それより何か用でもありました?」
「別に、会いたかっただけ」
「……そう、ですか」


こうも直球で言われるとな…と苦笑して、ごくりと空気を飲み込む。相変わらず感情の読み取れない瞳は、紫陽花の影と同じ色をしているらしい、なんてことを取り留めなく思う。


「そういえば、今って講義中では?」

辺りの穏やかな静けさにふと気付いて首を傾げた。まさかサボりではなかろうな。


「今は潜伏訓練っていうのをやってみてる」
「ああ…そうか、潜伏訓練。じゃあ、先生は生徒の動向確認中なんですね」
「そう」


潜伏訓練は一歩待ち構えれば隠れ鬼になってしまうが、様々な規則を設けることでとても有用な訓練になる。この訓練で最も養われるのは観察力なのだと、青獅子の学級の元生徒が言っていた。


「にしてもこの時期から潜伏訓練を始めるのは珍しいですね」
「そうなのか?」
「今は基礎をかためる時期で、それぞれの戦場での方向性が定まってから行われることが多いらしいです」
「……確かに、その方が効率的かもしれない。今節の課題について話し合ってたら、そういう流れになったんだが…駄目だっただろうか」
「金鹿の学級の課題って…」
「確か…ロナート卿反乱の事後処理、だったかな」


少ししょげた(ように見える)顔で視線を下げたベレトはなんだか綺麗だったが、その答えには少し引っかかる。
( ……まあ、ベレト先生は雇われたばかりの新任教師だし彼に聞いても仕方ないか )


「それがどうして潜伏訓練をする流れに?」
「マクドレド街道はときどき霧が出るらしい。この時期はあまりないけど、一応…死角や霧の中から突然襲撃された時のためにこういう訓練もいいかと」
「もしかして潜伏している生徒は、捜す生徒にいきなり飛び掛る感じの…」
「そう。みんな楽しんでると思う」
「確かに楽しそう」
「リルメもやる?」
「ふふ、遠慮しておきますよ。それは生徒達のためのものですから」


そう笑った私にベレトは不思議そうな顔で首を傾げた。


「じゃあ、また一緒にご飯を食べよう」


ヒルダも寂しがってた。
何気ないようでいて生真面目な口ぶりに、揶揄いや社交辞令のような色合いはない。

昨年までは生徒であれ騎士であれ、食事などのお誘いは基本的に断っていた。けれど今年はアビスに通えない寂しさのせいか、なんとなく誘いに乗りたくなってしまう。
これでは司祭共の思うつぼなのに、気付けば「また機会があれば」と頷いてしまっていた。


( ……まあ、今は、そんなことをしている場合じゃなさそうだけど )


以前のベレト達との和やかな食事を思い出して、そして反射的にアビスの賑やかだが肌寒い食堂を想う。食事という日々の細やかな喜びの中で、小さく蔓延っていた不安の声。
アビスに出入りする機会が減ったせいか、あそこへ赴く度に何かが変わっているような気がしていた。








大修道院の二階には謁見の間がある。
ステンドグラスから射し込む光が、よくわからない柄の絨毯や聖人かもしれない立派な石像を照らし、謁見の間を神聖な空間に仕立てていた。
色とりどりの光が届かない壁際に立ったクロードは、先程の潜伏訓練での学びを生かして息を潜めていた。謁見の間から続く執務室の扉はいつもは開放されているのに、今はきっちりと閉められている。


「……先生、レアさん達の話し合いが終わるまで、少しここで待とう」


隣に立つ担任教師はクロードの潜めた声に小さく頷いた。
閉ざされた執務室から微かに漏れ聞こえる声は聞いてはならない気もするが、どうも自分達は無関係ではない内容のようなのだ。大司教に質問をするため訪れた執務室から「ロナート卿の件、なぜ金鹿の学級の課題にしたのですか?」というリルメの声が聞こえてきたためだ。


「青獅子の学級に任せるべきではないのですか?」


硬質な声だ、と感じた。
二回しか彼女と会話をしたことはないが、今は随分と強ばっている。関わらないでと言われた初対面時すら、ここまで頑なではなかったはず。


「なぜそう思うのですか?」


対する大司教の声も、少しばかり硬い。普段の柔らかな口調ではなく、どこか圧のある声だ。


「ロナート卿は王国の小領主です。であれば今回の件は、王国と、敵意を向けられている教団の問題です。他国の生徒を関わらせるのは…感情的にも国際的にも問題があるかと」
「そのようなことは承知していますが……あなたは、どんな問題があると考えますか?」

( ……他人行儀な言葉の応酬って感じだな。仮にも養母と養子だろうに… )
頭の片隅で二人の温度感を察しながら、その内容についても思考する。

教団の指示の元とはいえ、王国の問題に同盟領の人間が介入するのは確かに不自然だろう。責任が教団にある以上、他国への干渉によって失うものなど、少なくとも自分達にはない。だが、責任を持つ側である教団はどうなのかと言えば……まあ、普通に考えれば今回のような判断はしないはずだ。


「後詰の部隊…生徒達がすることといえば、せいぜい戦闘によって荒れた場所の整地と片付けくらいでしょう。けれど、綺麗に解決してからの後始末をするわけではないので、残党だとか民衆の蜂起だとか、危険なこともあるかもしれません」
「ええ。ロナート卿は領民に慕われているそうですから、その可能性はあります。しかし、生徒達は士官学校の誓約を交わしていますから危険は承知の上でしょう」
「もちろん、何の覚悟もなく無責任に武器を取る生徒達ではない…という前提があることは理解しています」

( 前提、ね… )
士官学校の入学時に保護者を含めて交わされた誓約には、生徒がどのような損失を被っても基本的には教団は責任を取らないという旨があった。手足を落とそうがどこかが機能しなくなろうが、はたまた命を失うことになろうが、それは自己責任でお願いしますということだ。
それをリルメが"前提"と称したのは、無責任に武器を取って自身を損失し、教団に責任を取らせようとした生徒がいたということだろう。


「とはいえ、これは王国小領主と教団の諍いです」

( ……そう、今回の件は前回の課題であった盗賊退治とは違う。あれは自分達生徒を襲った盗賊への報復でもあったが… )

「そこに何の関係もない他国の生徒が巻き込まれた結果、その将来に傷を付けてしまったら?生徒自身がよしとしても、その保護者はどうです?……紙切れ一枚で交わした誓約も多額の入学金も、激しい感情の前では何の役にも立たないと、あなたはご存知でしょう?」


やはり、かつてそういった問題があったらしい。
リルメの口ぶりは、まるで当事者であったかのように辟易していたが、不肖姫と呼ばれる彼女がその問題に頭を悩まされる理由はあるのだろうか。教団の問題なんて気にせず猫と戯れているのがお似合いで、だからこそ愚かで怠惰だと言われているのだと勝手に思っていたが。


「……かの生徒の件では、リルメにも心労をかけました。あなたの懸念するところは、私にも理解できます。ですが彼らの不理解も無責任さも、彼らの問題だったでしょう?」
「全てが彼らの問題のせいではなかったし、例えそうであったとしても、あれは教団の迂闊さが出た件だったと思います」


にべもなく告げたリルメの声音は強さがあって、その内容はまるで教団の中枢にいる人間のよう。愚かで怠惰な不肖姫が、そのようなことを断言できるものだろうか。


「大司教は最終責任者ですから、後始末に至るまでのあれこれを存じ無くてもいいんですけどね、だけど、ひとつだけ」
「……」
「教団は生徒の命を預かっているのです。彼らに教育を施すことで各所からの支援を受けてもいる。だからあなたは、対生徒のことに関しては決して間違ってはならないし、付け入る隙を与えてもいけない」
( …… )


その思想も言葉も、他人が「こうであるべき」と押し付ける色合いではない。教団のことをきちんと自分事として捉えた者の言葉であり、けれど大司教に寄り添うわけではない第三者のような言葉でもあった。


「……ええ、当然わかっています。采配には注意を払っているつもりですから、今回の件も騎士団だけでなく聖騎士であるカトリーヌを付けているでしょう?」
「カトリーヌさん、ねえ……私はアロイスさんを付けて青獅子の学級に行かせるべきだと思いますよ。王国に王がいないからこそクリストフの件から教団は関わってきたのでしょうが、けれど今は、ディミトリがいるでしょう」
( クリストフ…? )
「当時の彼は幼かったですし、クリストフの罪状さえ詳しくは知らないでしょう」
「それが何か問題ありますか?」
「この件は最後まで教団で解決してから彼に共有すべきなのです。ロナート卿は王国の臣民ですが、それ以前に、主の治めるこの地…フォドラに生かされた人間。主に刃を向けるというのなら、相応の罰を我々が与えねばなりません」
「……」
「それに、金鹿の学級にはベレトもいるので問題ありません」
「…彼には荷が重いのでは?」
「あの子なら大丈夫ですよ。ジェラルトの子でもあるのですから」


宥めるような大司教の声にリルメと自身の溜め息が思いがけず重なった。

「……これだから年寄りは大雑把でいけない」

大司教が咎めるような声で彼女を諌めた。


「あなたがベレト先生の何を知っているのかは、もうこの際どうでもいい。けどね、あなた以外の多くが私と同じように心配してるんです。どうにもきな臭いガスパール領に、同盟領の生徒を遣わすことも、新任教師を起用することも」
「…そうですか……ですがこれは決定事項です。彼には主の加護もあります。ベレトを信じましょう?」


あなたは納得するしかないのだと柔らかく諭す大司教の声に、リルメは溜め息をもって返した。あなたはいつもそれだ、と。