見失うことは薄情だろうか


花冠の節。
王国小領主ロナートによる教会への謀反、という奇妙な一件が大修道院に報じられた。無謀かつ不自然なロナートの行いに関する噂で、大修道院内はそわそわしている。

それはさておき、雨季の到来だ。
アビスは誰の手によるものか不明だが、大変よくできた地下都市である。アビスに流れる用水路は、どれ程の荒天に見舞われても氾濫することは殆どない。とはいえ、それも絶対ではないので、本格的な雨季となる前にアビス各所の設備を点検をしなければならないのだ。

( 教室付近と食堂方面は問題なし、……あの橋は補強が必要になるかな )

そんなことを書き留めながら歩いていた時、不意に足が立ち止まった。


「だから、いらねぇっつってんだろ!」


薄暗い回廊に響く荒い声。

ここは決して治安がいいとは言えない場所だ。手癖の悪い人間がいたり、悪酔いして暴れる人間がいたり、他人を騙して搾取しようとする人間がいたりと、実に喧騒が似合う場所でもある。
けれど灰狼の学級が見回りのようなことをしたり騒動の仲裁に入ったり、アルファルドさんが出てくることで静まったりもするので、それも頻繁なことではないが。

泣きそうな顔をして胸元をぎゅっと掴んだ少女が見えた。彼女は俯いて早足で踵を返すと、こちらに気付かないまま擦れ違って行ってしまう。


「……チッ」


その彼女に怒鳴り声をあげてしまった当人は、ガシガシと頭を掻いて舌打ちをした。少女を追いかけて謝るでもなく、佇んで盛大に溜め息まで吐いている。


「……珍しいね」
「!」


大きく肩を跳ねさせてユーリスは振り返った。特に気配を消していたわけでもない人間の接近に彼が気付かないのもまた珍しい。


「お前、いつからいたんだよ…」
「たった今だけど、文句ある?」
「ねぇよ」


どこか吐き捨てるような言い方だ。たいそう機嫌が悪いらしい。
彼にとっては機嫌を取り繕うことなど造作もないはずだが、そんなこともできず小さな女の子に当たっているのは初めて見た。アビスでは取り繕うことも減ったと聞いていたが、それでも子供には優しく接していたはずなのに。


「用がねぇなら一人にしてくれるか」
「…伝言だよ。食堂のおじさんが、新鮮なの入ったから食いに来いってさ」
「……」
「気晴らしに行ってもいいし落ち着いてから行ってもいいだろうけど、足が早いから今日中にしろって言ってた」


じゃ、伝えたからね。
自分が悪いわけではないので、こういう相手には毅然と対応するに限る。
けれどユーリスは友人だし、こんなに荒れているのは珍しいことなので、擦れ違いざまに肩にポンと手を置いた。どこか頼りないその肩の上で、くしゃりと包装紙が鳴いた。







「リルメ」


その声に読んでいた本から顔を上げる。すると視界を覆うように細長い指が伸びてきて、そっと目元をなぞるように触れた。


「……さすがに泣いてはねえか」
「…何の話?」
「女をひとり泣かせちまったからな。その流れ弾喰らったお前まで泣いちゃいねえかと心配したんだよ」


茶化すような声音だが、目元に触れた指先はそのまま瞼に覆い被さった。なぜ視界を塞がれたのだろうと首を傾げても、その細長く節くれだった手は一緒についてくる。


「……あの子は、もう泣いてなかった?」
「ああ。お前のくれた飴が役に立った」
「そう…まあ、ちょっと口調がきつくなっちゃうことくらい誰にでもあるからね、あの子が許してくれたんなら、もういいんじゃない?」


私は気にしてないよと口元を緩めると「そりゃ、ありがたいね」と乾いた声が返ってくる。けど、


「この手は何なの?」
「……ちょっと、今は見せられない顔をしてるんだ」
「……」


先程から茶化すような、何かを誤魔化すかのような虚しい明るさの声が聞こえてくる。この温度感はよくないものなのだろうと、そこそこに付き合いも長いのだからわかる。
その理由をユーリスが語ることはないだろう、ということも。


「美しい俺様の顔が損なわれてんのを、お前には見られたくないんだよ」
「……私のような美人に見られたら恥ずかしくなるような有様、ということかな?さては、あの女の子に仕返しで落書きでもされた?」
「お、よくわかったな」
「ふふ、今日は勘が冴えてるみたいだ」


目隠しをされたまま笑うと、ユーリスの空笑いが返ってくる。
どうしたの、何かあったの。そう問いかけるべきなのかもしれない。彼の手を引き剥がして、あの綺麗な顔を覗き込んで、その心情に触れようとすべきなのかもしれない。

( ……けど、どうしても踏み込めない )

きっとユーリスの不機嫌の理由は解決していない。それ以上の問題を重ねたいために、こうして俄に八つ当たりをしてしまった私に謝りに来ただけなのだろうと思う。律儀なことだ。
あの子にはどんな顔で謝ったのか気になったが、まあ聞かないでおこう。ユーリスは先程から半分くらい嘘を吐いているはずなので、何を聞いたって仕方ないのだ。……と、思い込んでしまおう。


「……ねえ、ユーリス」


けれど未だ私の目元から手を離していないのだから、きっと彼自身も戸惑っているのかもしれない。何も話すことはないかもしれないけど、それじゃあと離れることもできないでいるようだから。


「…なんだ?」
「読んでた本なんだけどね、改編して孤児院の子に聞かせてあげたいんだ。ちょっと付き合ってくれる?」


そう言いながら隣の椅子を引いて、ユーリスを強引に座らせた。目元を隠されたままでは困るので、座らせたユーリスの頭をそのまま机に押し付ける。


「はい、損なわれたお顔は見ないでいてあげるから、」
「おい…なんでいきなり、」
「いいから、ほら。顔伏せて、手離して」


目元からユーリスの手を引き剥がすと、彼は観念したかのように机に突っ伏した。


「じゃあ、読み聞かせるね」



──── それは雨の降る日のこと。アルミという青色のカエルと、ルカリという桃色のカエルが言い争いをしておりました。

アルミは青色の脚をダシダシと踏み鳴らして大きな声をあげます。
"ルカリが僕の家の青色の花を奪った!"

しかしルカリは桃色の身体をわなわなと震わせて言い返します。
"とんだ言いがかりだわ!アルミが私の家を青くして乗っ取ろうとしているのよ、私は奪ってなんかいない!"

アルミの家には代々青色の花が、ルカリの家には代々桃色の花が咲いていました。小さな花が寄り集まって咲く紫陽花というその花は、カエルたち家族が住処とする立派な家でした。アルミとルカリの家は細い川をひとつ挟んで向かい合っています。両親が生きていた頃は、互いが住処とする花の美しさを、互いに褒め合っていました。

"薄暗い空の下で、なんと冴えた青色だろう。晴れた日の空よりも美しい"
"そちらこそ、なんと愛らしくも儚い桃色だろう。夢心地になってしまう"

自分の家の紫陽花を誇りに思い、そして向かい合う別の色の紫陽花のことも尊重していたのです。 ──────


「……けれど、ルカリの家の桃色の紫陽花は、端から段々と青くなっていった」
「……土壌の変質か」
「さすがユーリス、よく知ってるね」


突っ伏したままのユーリスから聞こえてきたくぐもった声に肯定する。


「この話では雨そのものが別の性質を帯びたことや、周囲の環境が変わったことで土壌も変質したとある。けれど、カエル達はそんなの知る由もない」
「……その話、どうなるんだよ」
「紫陽花の季節が終わって、川の水の味も土の暖かさも例年とは変わっていった。……翌年にまた紫陽花の季節が来た時には、ルカリの桃色の紫陽花は、とうとう青紫色になった」
「……」
「桃色の紫陽花を失ったのはアルミのせい、アルミの青に乗っ取られたのだ…と言って、ルカリはアルミの青色の紫陽花とアルミを川に沈めて殺してしまう」
「…そりゃあ、」
「その翌年も桃色の紫陽花が咲かないどころか、完全に青くなってしまった紫陽花を見て、ルカリはその住処を手放すんだ。桃色の紫陽花を探す旅に出ようと川を泳ぎ出した所で、予期せぬ鉄砲水に呑まれて青くなってしまった紫陽花もろとも溺れ死ぬ」
「悲劇だな…」


少し古い字も使われているが、どちらかと言えば話そのものも短いしカエルが喋るのだから子供向けの文学だろう。


「それ、子供に読み聞かせんのかよ…」
「……まあ、川に沈めて殺したくだりをぼかしちゃえば…」
「ぼかす?どんなふうに?」
「…食べちゃった、とか?」
「猟奇的になっただけじゃねえか」


確かにと頷いて、いや、この話でそもそも何が伝わるのだろうかと首を捻る。

「……この話って結局なにが言いたのかな」
「知るかよ。そんなこともわからず読み聞かせたいとか言ってたのか?」
「まあ、これ魔法と道徳の教材らしいからね」
「その不毛な争いのどこに道徳が?」
「……筋違いな恨みゆえの殺しはいけません、みたいな?」


魔法の要素は後半に解説があるからわかる。土壌の変質も栽培に関わればいずれは学べることだし、教材そのものに間違いはない。
しかし道徳の要素は…と唸っていると、ユーリスは突っ伏したまま呆れたような溜め息を吐いた。
 

「……そのカエルは、紫陽花が変わっちまった理由も知らず、その変化も受け入れられないまま…、その不快さを誰かのせいにした。そして、無知ゆえに滅んだ」


それまで変わることなく大事にし続けてきた花だ。互いに尊重していたからこその誇りもあっただろう。
きっと大事なものを失って悲しかったはずだ。疑われた怒りと悔しさもあったかもしれない。そして、何もわからなくなってしまった。


「大事なものを失って、正しいことはよくわからないけど、何かに感情をぶつけなければやっていけなくて…」


誇るべき美しさのまま変わらないものだと信じていたカエルは、きっと変化そのものを忌避したわけではない。自分達がオタマジャクシからカエルへと成長したように、美しい紫陽花が一度は枯れることを受け入れている。けれど花開いた紫陽花は、待ち望んだ自分だけの色でなければならなかった。


「……子供の癇癪みたい」
「無知は罪だな。登場してんのはカエルだが、知性と理性があれば起きなかった悲劇だ」
「そう、そういうことだよね!何か問題が起きた時は、きちんと落ち着いて話し合いましょうってことだよ、たぶん」
「…どうだかな」


突っ伏したままハッと鼻で笑ったユーリスの声はくぐもっている。
こんなつまらない結論に、少しでも耳が痛めばいい、なんて考えてしまう。問題があるなら、話してくれればいいのに…なんて。

(……人のこと言えないくせに)

そう浅く溜め息を吐く。
停滞しかけた空気は、ユーリスの少し上がった声色が変えた。


「……そういえば、あんたの日常も、最近すっかり変わっちまったんじゃねえのか?」
「日常…?」


ユーリスの言う通り、今年の士官学校が始まってから私の日常は変わった。こうしてアビスに出入りする毎日がなくなっただけで、穏やかな彩りは薄れたように思う。


「……まあ、そうだね。この変化には慣れないよ」
「普通の人間は喜ぶんだがな、こんな黴臭いとこに来なくてすむなら。上の連中だって、お前が地上を歩くようになって満足してんだろ?」
「そりゃどうせなら教団にとって有用な人付き合いをしろってことだろうからね」


生徒達との付き合いは有益だとわかっている。それは教団にとってもだし、恐らく自分自身にとっても。
ただ、付き合いそのものは受け入れられるが、その先のことを考えたくないのだ。アビスでの日々を手放したくもなかった。


「周りの言い分もその理由もわかるけど、私は以前の状態を変えたくなかった……これって、桃色カエルと一緒になるのかなあ」
「それで逆上して暴れたら、一緒になっちまうだろうなあ。まったくもって現実的じゃねえが」
「うーん、まあ考える頭も理性もある人間だからねえ」
「どんな悲劇であれ不愉快な顛末であれ、何かしらの変化が成長や進歩になるかどうかは己次第だったか……ロック婦人も言ってたよな」


ロック婦人。彼女はアビスに出入りする少し変わった商人だ。商人でありながら全く化粧気のない老婦人であったが、彼女はシェンという密かに憧ていた男性が亡くなってから変わった。憧れの人の死という受け入れ難い事実に、蹲り腐ることはしなかった人だ。


「……婦人、あの年でますます綺麗になってきたよね」
「そりゃあ俺様が肌の手入れから化粧まで一から手解きしてやってんだ。当然だろ」
「口紅も化粧水もつけたことなくてドレスさえ着こなせなかった人が、今じゃアビスの老人を侍らせる美熟女だものね」
「しかも、どんな口説き文句にも靡かねえ、シェン爺一筋の貞淑さだ」
「いいなあ…そんな風に誰かを想えるのは羨ましいよ」


シェンは故郷で失った姫を想い続ける流民の老人だった。死に際にさえ「手を離さなければよかった」と姫への後悔を口にしていたシェンを、ロック婦人は密かに想い続けている。シェンが死んだ今でもなお。
彼への憧れも想いが届かない寂しさも、子供じみた感情だ、いい年こいた自分ならば御せるのだ…と、どこか冷めた気持ちで己を俯瞰していた。けれど決してその子供じみた感情を捨て去れはしなかった。

『苦しいし、悲しいし、悔しいわ』

シェンのささやかな葬儀の後、自身の商会から振る舞った酒で送り酒をする者達を眺めながら、ロック婦人は呟いた。

『さて、どうしてやろうかしら』

強かに笑った彼女は、失恋の痛みを酒で流すようなことはしなかった。最期まで自分を見なかったシェンへの感情は、憧れだけではなかったのだろう。
濃く淹れたテフの苦い香りと、意地のようなものが滲む嗄れた目元を、今でも覚えている。


「……たぶん、何かを想い続けるのには、強さがいるんだろうな。強い想いがなければ、あの歳からあんな風には変われない。強くなきゃ、失ったときに立ってもいられない」
「ああ、強え人だよ。あの人は。普通の商人なら近寄らねえアビスでロック婦人が商売してたのは、シェンの為だったんだろ?それを失くしても、だからこそと、機と捉えて動いてくれてる……今は、このアビスの為に」


ロック婦人はシェン亡き後、綺麗になってあの世で驚かせてやるのだと笑っていた。死後に憧れの人に再会するだなんて夢は見ていないはずなのに、そんな建前を作ってでも喪失を飲み込んだのだ。


「些細なことであれ、人生を左右するようなことであれ、望まぬ変化ってのはあるもんなんだよな……ロック婦人みてえに自分を宥めて先を見据えられりゃいいが、そこで変化が受け入れられないまま癇癪を起こしたら…」


それは、変化を受け入れられず青色カエルを排除した桃色カエルのように。望んだものも手に入れられないまま、自滅することになるのだろうか。
なんてぼんやり考えた矢先、ユーリスの口から想像だにしていなかった名前が出てきた。


「クリストフみてえになるぞ」
「……え…」


クリストフ。
その名に思わずユーリスを凝視したが、彼は変わらず俯せて顔は見せないままだった。


「なんでその名前……あっ、そうか。ローべ伯の養子だったんだっけ」
「ああ、よく覚えてたな」
「……まあ」
「気を付けろよ」
「ん?」

何に?とユーリスを横目で見れば、彼は相変わらず突っ伏したまま呟いた。 


「お前も、何かと大変なんだから」


大変、とは何だろう。
私が不肖姫だと呼ばれていることも、アビス含めいろんなことに首を突っ込んでいることも、それで勝手に痛い目をみたり苦しんだりしていることも、全部、自分で決めたことなのだ。誰かに強要されたことではない。それはユーリスも知っている。そりゃ大変だなと揶揄って笑うことはあっても、しみじみと同情するような言い方をすることはなかった。


( たぶん、"大変"なのは、私じゃない )


薄らと漂う不穏な気配を、私はここで漸く嗅ぎ取った。