追う者と追いやる者






騎士棟の裏に回って周囲を見渡す。そこに目的の姿がないことを確認すると、諦めて墓地の方へと足を向けた。


「……いない」


墓地に降りる階段に腰掛けて猫を構っていた姿を何度か見たことがあった。今その階段にいるのは残念ながら猫だけだ。
彼女がよく足を運んでいた書庫にもいない。温室から出てくるところを見たことあるが今はいなかったし、食堂では見かけたことすらない。意外と当番制度はきっちり守る彼女ならと洗濯場や掃除場に当たったこともあるが、やはり姿がない。果ては通路脇の茂みの奥や建物と建物の隙間に柱の影。そんなところまで捜してみて、いやこんな所に隠れるならそもそも部屋から出てきやしないのではと漸く思い至った。


『気をつけるのだぞ』

先日のハンネマンの言葉が甦る。

『かの紋章を研究したい気持ちはよくわかる。フレスベルグ家に伝わるとされるセイロスの紋章が、道筋を外れたところに顕現し、そしてそれが手の届く所に存在しているのだ。紋章学を追究する者ならば、やはり見過ごせないものであろう』
『しかしそれ故に、一線を越えてしまう者も一定数いる。研究意欲に我慢ならなくなったり、……彼女を研究対象以外のものとして見始めたりした者が、拉致や監禁を企てたことがあった』


もう懲り懲りなんだと言っていたリルメを思い出して、なるほどとハンネマンの話に頷いた。紋章のせいで危険な目にあってきたのなら、自分のように紋章学を追う人間を警戒するのは当然だ、と。


( ……少し前までは、大修道院でもよく見かけていたのにな… )


カスパルから……いや、正確には説明下手なカスパルの話を、たどたどしく補足してくれたペトラから、前節の出来事については聞いていた。紋章学者によるリルメの誘拐未遂。カスパルいわく、彼女はあまり怖がってなかったそうだが、それは単に慣れているだけなのだろうと思う。


( 最近あまり見かけないのは、そういう事件に怖気づいたから…というわけではないはず )


リンハルトは、リルメの精神はかなり図太いと考えている。
大修道院を歩けば、散々な陰口が耳に届き、軽蔑や締感、怒り、思慕など様々な視線を集めるのだ。教団の生真面目で清廉な空気のなかでは、そんな言葉や視線がやけに目立つ。

その悪意を一身に受けながらも、それをものともせず颯爽と歩き、周囲の小言を聞き流して気儘に過ごす様は、大変ふてぶてしい。

( ……普通に考えれば、大修道院で見かけなくなるなんて、当然なのかもしれない )

愚かで怠惰。どこかでふらふら遊んでいたり、愚かにも悪事に手を染めていたりするのかもしれない。だからある程度の荒事には慣れているし、異様なほど疎まれているのかもしれない。

( いや…さすがに悪事はないか )

とはいえ、どういうわけか。
表に出ているのを見かけなくなった今では「どこかへ嫁ぐ努力もしなくなったのか」と謗られるようになった。彼女がどこかへ嫁ぐよう望まれているのは知っている。しかし、彼女が自発的にそんな思惑に乗っているとは思えない。

やはり周囲の声に傷付いて引きこもっている…?いやまさか。

そんな堂々巡りの思考にも飽きてきて、あくびを噛みしめる。


( ……歩き回って疲れたな )

いつものことだが、眠くもなってきた。その辺の木陰に座り込むと、あっという間にうつらうつらとしてくる。

( ……そういえば、ハンネマン先生に借りた本を…返さないと………、……、……、 )


『なに、久々にあの司祭の名を聞いたからか、また読みたくなってしまってね』

どこか遠くでハンネマンの声が響く。

『いやはや再びあのようなことをするとは、実に残念なことだ。本の趣味だけは良い男だったのだよ。いや、名著を探しだす才能があったと言うべきか』
『君も読んでみたまえ。古い書物だが、なかなかに興味深いものである』


( ………紋章によって、引き起こされる……悲劇と…奇跡…… )


先日のハンネマンの言葉が、夢のように思い浮かんでは遠退く。くらりと暗転しそうでしない、ゆらゆらとした微睡み。心地の良いそのなかで、瞼の裏にきらりと何かが光る。思わず薄く目を開けると、ぼんやりした視界で陽射しに白く透ける髪が揺れた。

( ……ああ、なんだ…こんなところに… )

そう伸ばした手は揺れる髪に触れかけて、するりと遠ざかる。

( …眠い……観察さえ…できれば……なあ… )


「リンハルト?」


一度まばたきをしたら、そこにいたのはベレトだった。ぼんやりした視界のなかに、あの色彩の薄い姿はない。


「……あれ…リルメは…?」
「リルメ?俺も捜しているんだが、ここにいたのか?」


目を擦って少し身を起こせば、肩からずるりと何かが落ちた。見慣れないひざ掛けだった。


「……これ、先生が?」
「いや。リンハルトのものじゃないんだな」
「女物でしょ、これ」


そう言いながら、もしかしてと淡い期待を抱く。
彼女はそんな性格じゃないだろうから、きっと勘違いだと思うが、それでもリルメであれば、


「こんな所で寝たら風邪ひくよ」
「…はいはい」
「ところで、リルメを見なかった?」


最近見かけなくって、と呟くベレトになぜか少し笑った。


「さっきまで、ここにいましたよ」








「リルメ」
「…アルファルドさん?」


机に向かって頭を抱える私に、ことりと紅茶が差し出される。アビスで飲む少々惨めな気持ちにもなりかねない出涸らしとは違い、大修道院で出されるお茶は立派な嗜好品だ。私は安物から異国のものまで何でもいける派で、最も好きなのはテフだ。だがやはり疲れている時は、甘い香りのものも良い。


「先日の話、聞きましたよ。貴女が無事で本当によかった」


眉を下げて微笑んだアルファルドに「おかげさまで」と微笑み返す。

昔こそ気遣われ守りをかためられていたが、今や教団内では私の誘拐事件など気に留めるものではなくなった。

しかしアルファルドはこういう事件がある度に、私を気遣い愚痴を聞いてくれる。コンスタンツェが防御魔法を考えてくれたり、バルタザールが鍛錬に付き合ってくれたり、ハピが気晴らしに星空を解説してくれたり、ユーリスが報復に手を貸してくれたりする。
ずっと、私の逃げ場で癒しだ。アビスは。


「以前も問題を起こした者だったそうですね」
「…はい。昔、私の髪を切り取った学者でした」


大修道院内に協力者がいるのではというウィリアムの推察を思い出す。
多くの買い物客で賑わう時間帯。たまたま市場で見かけたからつけてみただけかな、というほど周囲が見えてなさそうであった。しかし根回しはきちんとされていた。それも1ヶ月前から。


「今年は、多いですかね…こういうの」
「リルメ?どういうことですか?」
「だってしばらくは表を出歩かなきゃいけないんでしょう?」


私が人目につく所をうろついていれば、おつとめはどうしたのだと眉を顰める者もいるが、一方で私に責務うんぬん求めることを諦めた者は、それでよしと頷くのだ。今年は生徒と交流することを大多数から求められているのは、きっと本当のこと。


「だから、出歩かなきゃいけない今年は、何か企んでる奴にとっての好機です。大修道院内部にも、手を貸す人がいるでしょう」
「まさか…さすがにそれは、」


アルファルドは悲しげに目を瞠ったが、私は彼がそんな顔をしてくれるだけでいいのかもしれない。アルファルドはそんな仕打ちをしない、ということがわかればそれだけで。
しかしそんな顔をずっとさせたいわけじゃないので、今年はたくさん注意しますねと話を流す。


「……それよりも、私にはよくわかりません」
「…わからない?」
「今回、あの司祭…いえ、元司祭ですね。彼はレスターに送り返され、そこで5年間服役するそうです」


初犯から数年、まじめに司祭として生きてきただろうに。子供の髪を切るという悪戯のような罪も、きちんと贖って真っ当な学者になったはずだったのに。


「未遂とはいえ、妙齢の女性を誘拐しようとした者、という汚名は消えないそうですね。司祭という立場も生涯剥奪され、服役後は恐らく教会の下働きになる」
「……」
「たかだか紋章の研究のために、多くを失う。人生を棒に振るんです」


よくあるお金の問題ならまだわかる。生きていくために必要ならば、盗みもまだわかる。しかし学問の追究のために、となるとよくわからないのだ。


「……それだけの熱意、ということでしょう」
「熱意…あまりにも熱中しすぎて冷静な判断ができなくなる、ということですか?」
「人生を棒に振っても構わない、という熱意です」
「……」


その熱意が、私にはわからない。そんなにも何かに夢中になったことがないから。

……いや、もしかしたら女神を信奉しないと意地になっている私はそれと大差ないのだろうか。心からでなくても周囲の望むままに信者でいれば、こんなものに今ほど煩わされることもなかったはずだ。
いうなれば、私は意地のために穏やかな人生を棒に振っている?しかしそれは自分の本心を殺してまで得たい人生だろうか。

…なんて、こんなことを考えている私も、周囲から見れば理解し難い人間なんだろう。きっと大司教の養女という立場であり、裁きやすい大罪を犯していないから、罰せられないだけで。


「……どうか、気をつけなさい、リルメ。どこにどんな狂気を持つ者が潜んでいるかわかりません。貴女は…、その、貴女の在り方を含め、狙われやすい」


私は教団内で孤立しがちで、この容姿は嫉妬や執着などの悪意を集めやすいらしい。アルファルドが濁したそれは、理解している。


「貴女がいないアビスは、やはり、苦しいのです。情けないことですが…」
「いえ、私も同じです。あそこに行けないのが…みんなに会えないのが、こんなにも堪えるなんて思ってなかった」


アルファルドは大変なのだろうかと心配になったが、それと同時に、私はアビスに必要だとアルファルドが認めてくれただけで嬉しい。嬉しくて、少し素直にもなってしまう。


「アルファルドさん、苦しいことがあるなら、やっぱり私…」
「いえ、心配には及びませんよ。どうにもならないわけではない。それに、貴女の将来に幸福な変化があれば…と願ってもいるのです」
「幸福な変化……結婚して家族をつくる、ということですか?」


それは幸福のひとつかもしれないが、自分自身は望んではいないものだ。私は、アルファルドが少なからず思ってくれているように、これまで通りの不変を望んでいる。
やはり自分が子供だから、そんな風にしか考えられないのだろうか…と考えていると、アルファルドが浅い息を吐いてカップを戻した。


「……仕事や私生活…安定した日常を繰り返し、大きな変化がないまま過ごすようになるとわかると思うのですが、」

そう前置きしてアルファルドは独身男性の苦悩を語りはじめた。

「若いうちは初めてのことも多く、日々のなかで様々なものを取り込むことができるでしょう。感情も溌剌としていて、何かを行う活力にも満ちている」

そういうものなのだろうか。そのあたりは歳を重ねて理解していく部分なのかもしれない。

「しかし、歳を重ねて安定した生活を手に入れ落ち着いた頃、ふと思うのです。衣食住に困らない現状はとても恵まれているものですが、それをこの先何十年も続けていけるのだろうか、と」
「……」
「同じことをひたすら繰り返す日常に意義を見出すのは苦しいこともある。何の為、誰の為…などと考えて考えて考え過ぎて、遠くへ旅立つ者もいれば、道を踏み外す者もいます」


無為な時間を過ごしているのでは…と考えてしまうのは恐ろしい。世界中の誰もが何かに一生懸命で、必死に生きている!なのに自分は何をしているのだろう!なんて思い込んで焦ることもある。


「その点、家族を持つということは、人間の営みにおいてとても建設的なことです。……そして、大事にできる他人を得るということでもあります」
「大事にできる他人…」
「ええ。私はこうだから、あなたはこうだから、と線引きをしなくていい相手なのです。相手の重荷に手を差し出してもいいし、自分に差し出された手は遠慮なくとってもいい。仕事で何かあっても、その相手を優先して誰よりも大事にしていいのです」


理想論ですけれどね。そう付け足してアルファルドが苦笑した。壮年の独身男性が言うとなかなかに重みがある話だ。


「人生の彩りは人それぞれですが、結婚は一般的で有用なものではあり、子供を育てるだけで、ある意味、大人の役目を果たしたことにもなるのです。もちろん他人同士が共に生きていくのですから、様々な問題が起こるでしょう」


夫婦間の問題は様々なものがあると聞く。一生お互いだけを愛していられることなどきっと奇跡に近い。

「それでも、あなただけはと手を繋いでいられる存在がいることは、幸せなことのはずですよ」
「……そんな存在、いるんですかね…」
「貴女の手に触れたい者は大勢いるでしょうね。ただ、その中から何があろうとも貴女を手放さない存在を探すのは大変かもしれません」
「……」



"手を離さなければよかった"

死に際した最期の時、そう遺した老人がいる。
シェンという異国からの流民だ。

7つかそこらの幼い頃。教団からの教育に辟易していた時に逃げ込むのがこのアビスだった。
その頃から灰狼の学級はあって、アルファルドは狼狽しながらも、教団からの叱責に不貞腐れた私をアビスに受け入れてくれていた。

その時に出会った老人がシェンだ。異国の名はやたら長いからとシェンとしか名乗らない人だった。その代わりに様々なことを教えてくれた人だった。

( アビスのような無法地帯の管理方法、ここを支援するための資金作りの方法、戦い方に魔法剣、異国のこと… )

温室や孤児院、食堂に書庫…それらの大修道院施設を利用して資金作りをする方法はシェンと共に考えた。彼らに協力させるための交渉方法まで伝授してくれた。

( これまで私を生かしてきたのは教団だけど、教育をしてくれたのは主にシェン爺とアルファルドさんだった )

私が使っている魔法剣をくれたのはシェンだ。大事な人の形見なのだと言っていた。
シェンの大事な人、もとい魔法剣の元の持ち主は、危うい立場に置かれた姫だったらしい。

( この特殊な魔法剣を自分のものにするために、魔力を注ぎ続けた。そのときに、姫とシェン爺の過去が見えた…というか夢に見た )


かつて、シェンはフォドラから遠く離れた大国に住んでいた。彼は偏屈で権力に傅かない、周囲に遠巻きにされるようなはぐれ者だったが、優秀な魔導師でもあった。
大国の下位の姫であった魔法剣の持ち主は、危うい立場の自身の護衛にちょうどいいとシェンを自身の騎士へと任命するのだ。姫は唯一の護身武器でもある魔法剣を美しく輝かせて、シェンがその光に魅了されている間にさっさと承認儀式を執り行った。偏屈で地位に興味などないのに魔導騎士にされてしまったシェンと、彼を自身の力としたい積極的な姫とで紆余曲折あったが、二人は大国の権力争いのなかで次第に仲を深めていく。
しかし、ある時、姫に縁談がきた。姫はその話を受けて嫁ぐことになった。

"これからは旦那様に守ってもらうから、あなたはいらないわ"

姫は千々に乱れる心を隠して笑顔でシェンに告げた。彼は憮然としながらも、あっさりと承諾して離れていった。心が端から崩れていくような絶望のなか「ああ、でもシェンは生きて逃してやれるのだ」と僅かに安堵して、姫は婚姻式の日に殺された。

( 縁談の裏にある陰謀に姫は気付いていた。死から逃れられないことも )

そして誰にも守られないまま姫は死に、その話にシェンが駆けつけた時には、主を失った魔法剣の微かな輝きだけが遺されていた。姫の魔力と心の声の残響。
その輝きは魔法剣が私のものになった瞬間に消え失せた。


"手を離さなければよかった"

シェンの最期のあの言葉が蘇ると、何があろうとも手を離さないでいてくれる存在なんて奇跡だとしか思えなくなるのだ。
魔法剣に見せられた過去の姫は、シェンを愛していた。シェンも姫を愛していたように見えた。互いが互いを、何よりも大事に思っていたはずだった。

( ……それでも、手を離してしまった )

相手を想うからこそ、幸福へと押し上げるつもりで離してしまう手もある。そうしてシェンは大切な姫を失った。その時にシェンは、自分の望みも大切にすべきだったと気付いたそうだ。

( でも、自分の望みも相手も、どっちも手に取ろうなんて欲深いこと……できるなら苦労しないでしょう )


「……私の周りには、面倒なことがたくさんあります。それに振り回されてくれる人なんて、いるんでしょうか…?」
「……ええ、きっと。だから、あなたも望んでいいのです」
「私は我が身が一番で、できるだけ自分のことだけ考えていたい。誰かが私の問題に振り回されることについて、あれこれ考えたくないんです」
「ならば、どんなに振り回されても笑って立っていられるような、強い人を選ばなければなりませんね」


そんな良い男がいたとしても、それは良い女を選ぶだろう。私が望んでも手に入れられる気がしない。
そんな思いが顔に出ていたのか、アルファルドは柔らかく苦笑して甘い茶に口をつけた。


「……そのような存在が得られないうちは、これまで通りアビスを隠れ蓑にしていればいいのです」


いつもの優しい言葉と優しい笑み。幼い頃からここに逃げ込む私を受け入れてくれていたアルファルドのそれはずっと変わらなかった。


「私は貴女に何もしてあげられませんが、祈っていますよ」
「……ありがとうございます」


あなたに祈る。
主に祈るよりも相手に寄り添っているように思えるから、私も主には祈らず誰かに祈ることはある。けれどアルファルドの口から聞こえてきたそれが、なんだか突き放すようなものに思えてしまった。
そのような意味でアルファルドを望むことはないけれど、やはり彼は、私の存在を受け入れてはくれても、この手を取ってはくれない人なのだ。