死にたい母と望まれない子供


アビスには異教の女神を奉る祭壇がある。
壁には瓦礫が雑多に寄せてあり、空間の割に広さはない。その部屋の中央に大きな翼を広げた女性の像があり、像の下には僅かな供物がある。それはどこから詰んできたのかわからない草花だったり、綺麗な小石だったり、拙い織物だったりと、どことなく幼い。

「…あ、こんにちは。」

子供の声に振り返れば、ユーリス達が寝たきりの母を看病していると教えてくれた少年がいた。

「えっと…ダリス、でしたかね?」
「え!う、うん。」
「私はリルメ。灰狼の学級の新参者ですが、よろしくお願いします。もしかしてこの供物はダリスが?」
「うん。母さんが女神さまを信じてたから。ぼくはよくわからないんだけど、でも、母さんは女神さまに助けてほしいみたい。」

そう言って少し俯いたダリスは、力なく笑って供物の織物に触れた。カサカサの小さな指先で、そっと織物を供えている。

「…病気だからかな。いっつも手を合わせて、わたしにすくいを、じひを、って言ってるんだ。」
「……。」

救いも、慈悲も、天から降ってくるものではないことを、私は知っている。確かに女神はフォドラを育んだのかもしれないが、この地に生きていない女神には何の力もないのだ。

「…私、ユーリスに頼まれたんです。ダリスの母の病を見てくれないか、と。」
「ユーリスが?あなたに?」
「私は女神なんかじゃないですが、医者になるはずの者でしたから、少しはお役にたてるかもしれません。」
「ほんとう?母さん、元気になるかな?」
「それは、何とも言えません。けど、できる限りのことはします。」
「っありがとう!」

力ない笑みをぱっと明るくしたダリスは、しかし次の瞬間には「…あっ、」と悲壮に眉を下げた。

「どうしました?」
「で、でも…ぼく、おかね持ってない…。」
「あら、そんなものいりませんよ?」
「その通り!お前みたいなガキから巻き上げる程、俺達は腐っちゃいねえ!」

たまたま通りかかったのか、バルタザールが部屋の出入口に凭れている。

「たとえ借金にまみれ、追われ、地下に逃げ込むことになろうと…、母親を助けたいという幼気なガキから毟りとることなんざ決してしない!」
「バルタザール…?」
「そういうわけで、ダリス!こいつと俺を母親んとこに連れて行け。」
「わ、わかった!」
「あなたも来るのですか?」
「お前の働きぶりを見てやろうと思ってな。……決して懐が寒くて気を紛らわせたいわけじゃねえ。」
「何の話をしてるんです…まさか、」
「おっと、それ以上は口に出すんじゃねぇぞ。」

バルタザールは今朝、なにやら臨時収入が入ったと浮かれていたはずだ。そしてこれを増やすと意気込んで、ユーリスには「どうせすぐ一文無しになるだろうな」と予言されていた気がする。

「…バルタザール…、」
「……いや、おい、…そんな目で見るな…。」
「私はどんな目をしているのでしょう…。」
「傷口を抉る悲しい目だよ…。」

そうして泣く泣く口を割ったバルタザールいわく、彼は先程賭けに負けて臨時収入すべてを巻き上げられたらしい。
アビスには時々おかしな商人がやってきて悪どい商売をしようとする者がいるようで、それらしき見慣れない男をバルタザールはアビスから叩き出そうとした。しかし相手の巧妙な話術に流され、気付けば男のアビス出入りと互いの持ち金を賭けた勝負が始まり、

「そして見事にカモられた、と…。」
「言うな…。」

なんと哀れみを誘う横顔だろう。せっかくの男前が台無しだ。慰めるようにその背を軽く叩くと、バルタザールは盛大な溜め息を吐いて、私の頭をくしゃくしゃに撫でた。なぜ撫でられたのだろう、理由のない襲撃で髪の毛がボサボサにされるのは腑に落ちない。が、これでバルタザールの気が晴れるのなら、まあ、良しとしよう。


ダリスに連れてこられたのは、市場から近い居住区の中程にある天幕だ。アビスの住人の住まいは、元より建造されている部屋か、その合間にある天幕のいずれかだ。ダリスの天幕は家と呼ぶには質素過ぎるが、周囲の手を借りることも多いダリスと母親にはちょうどいいそうだ。

しかし、そこで待っていたのは、想像以上に胸糞悪い事態だった。


「母さん、ただいま。お医者さまを連れてきたよ。」

ダリスに続いて入った天幕は、蝋燭明かりがひとつだけの薄暗い空間だった。湿った臭いが籠り、病人を置くにしては粗悪な環境なのは間違いない。奥の薄い布団には女性が横たわっていて、声をあげたダリスには見向きもしなかった。

「あ?寝てんのか?」

後ろでバルタザールが首を傾げているが、女性は祈るように胸の前で手を組み何かを呟いている。

「……主よ、…御許へ、」

ぽそぽそとそんな声が聞こえてきて眉を顰めると、ダリスは細く息を吐いて私の手を引いた。そして母親の近くへ行くと、目を閉じた母親へ、もう一度声をかける。

「…母さん、お医者さまつれてきたよ。たすけてって言ってた、女神さまじゃないけど、」
「……。」
「少しは…変わるかもしれないから、……母さん、」

祈るようなか細い声で母さんと呼ばれた彼女は目を閉じたまま。きっと我が子の声を聞くための耳も閉じている。ひたすらに、主よ、御許へ、はやく、すくいを…と口にしている。

「……これは、」

手に負えないかもしれないな。
そう思いかけて、私の手を引く小さな冷たい手を感じた。それは、手に入らない温もりを慈しむ健気さと、その温もりが失われかけている恐怖に震えた、子供の無力な手だった。

こちらを見ず、声も届かない母親。もしかしたら彼女が死を望んでいることを、ダリスは薄々察しているかもしれない。けれど、たったひとり、温もりを求めた母親を手放すことなど到底できない子供だ。知らない、気付かないふりをして、どうにか状況を変えようとする、懸命な子供。

ぎゅっと、縋るように握られた手からその冷たさが伝わる。死にたがっている女を生かせる自信などない私は、その冷たい手をとる度胸がない。しかしその手の振り払い方もわからない。
なればダリスに宣言した通り、できる限りのことをすべきなのだろう。

「……バルタザール、いつまでそこにいるのですか?」
「…は?いつまでって、」
「私は彼女の様子を見ようと思います。ついでに少し脱がせて肌や手足の状態も見るのですが…もしや、」
「わ、わかった。誰か女を連れて来てやる!」

ちなみに俺の好みは健康的で闊達な女だ、勘違いすんじゃねえぞ!と要らない情報を投げてバルタザールが出ていった。
不安そうにバルタザールを見送って、次にこちらを見たダリスへ、なるべく柔らかく微笑みかける。

「……ダリスは、女神ではなく、母親に祈っていたのですね。」

彼女の布団の傍には、どこで拾ったのかわからない光る小石や、先日食堂で配られた香りの良い茶葉、子供が編んだような歪な織物が置いてある。供物のよう、というよりは、母親の心をどうにか呼び戻そうと苦心して用意された、薄暗い空間のなかの、僅かな煌めきと彩りだった。