「ここが水汲み場だ。南北の通路脇や別の居住区にもあるから都合のいい場所を使え。」
「雨が降った時と雪解け水が流れてくる春先は、増水するので気をつけたほうがいいですわよ。」
ユーリスとコンスタンツェに案内された居住区の端には、天井の高いドーム状の水汲み場があった。絶え間なく水音が響いて、僅かに外界の清廉な木々の香りがする。天井にはカビかコケか判別し難いものが蔓延っていて非常に興味深い。
「この水路はどこから引かれてるんですか?」
「さてな。地上の湧き水を引っ張ってると言う奴もいれば、地下の水脈と繋げてると言う奴もいる。」
「このアビスがいつ、どのようにして作られたのか、誰も知らないのですわ。ただ、ここが上流域には違いありませんから、比較的綺麗な水であることは保証します。」
「毒や汚水が流れてくる心配はないのですね。」
「そこはまあ大丈夫だろ。……しかし、この場に来てそんな心配をするとは…いかにもアビスに相応しい女なのかもしれねぇな。」
ユーリスが情感ある目元で探るように、こちらへ視線を流す。生活に欠かせない水源を脅かされることなんて、確かに卑怯で下衆な発想だ。普通はそんなこと思いもよらないのかもしれない。余計なことを言ってしまったと後悔すべきなのか、それとも些細なことを見逃さないユーリスに慄くべきなのか。
「……私の生家は医者でした。衛生観念はそれなりに凝り固まっていますし、水に対する危機管理も徹底しているつもりです。」
「潔癖だとか言わねぇよな?知ってるだろうがアビスは決して清潔な所じゃねぇぞ。」
「それはそれですね。この環境を変えようとは思ってませんし、生きていければそれでいいのでしょう。」
「…貴女、お医者様でしたの?」
「いえ、私は後継となるための見習いでした。父が治療専門で、母が薬作り専門でしたので。」
「そういや高位の信仰魔法を会得したっつってたな。回復魔法は使えるのか?」
「ええ、ある程度は。」
「それは助かりますわ!」
「助かる?」
手を叩いて喜んだコンスタンツェによれば、このアビスは弱者の吹き溜まりのようなものだという。力ない者や一人で生きられない病人が多くいるわりに、それを支える人手は不足がちだそうだ。
…というのも、病気や怪我の治療を助ける回復魔法を使える人間がアビスには少ないから。そのような者は地上での需要もあるので、それこそ信心深ければ修道士になったり孤児院についたり、人格等に問題なければ、多少難はあるものの職を斡旋してもらうこともできるらしい。
「一応、俺やバルタザールも回復魔法は会得したんだがな。どうにもその力が伸びる気配はねぇし、酷い怪我や病気となればお手上げだ。」
「わたくしも学ぼうとしたことはあるのですが…どうにも、こう、上手くいかなくてすぐに止めてしまいました。わたくしは魔導の才能に溢れていますし、女神様を信奉していれば大丈夫だと思ったのですが…。」
「そうだったのですか…。」
魔法というのは元々の素養によって、できる範囲や系統が限られてくるものだ。もちろん得手・不得手もあるだろう。読み書きできることや真っ当な師も必要だ。…けれど回復魔法に女神信奉は必要はない。これ以上ここで余計なことを言いはしないが。いつかコンスタンツェには教えてあげよう。
「この通路の端の部屋には、医者代わりのじいさんが住んでるんだがな……ケチな偏屈でなかなか出てこねぇんだ。死ぬようなもんじゃねえ限り手が借りれないうえ金もきっちり巻き上げるんで、なかなか世話になれねぇのさ。」
「その点、灰狼の学級に所属する貴女ならば、遠慮なく使えるのですね!」
「ふふ、お手柔らかにお願いしますね。」
水汲み場から市場へ向かう途中、木桶を持った子供と擦れ違った。
「ユーリスさん、コンスタンツェさん、こんにちは!」
そう笑顔を浮かべた少年は七歳だそうだが、小さくか細い彼はもっと幼く見えた。ここで生まれた子だそうだが、母は病で寝たきりになり、父親は知らないらしい。治安が良いとは言えないアビスでは、性暴力も珍しくなく、あの少年は望まれない子供だった。今は母の看病をしながら内職に励む彼を、灰狼の学級含め何人かが見守っているようだ。
「ダリスの母親も随分弱っちまった。重篤ではないし急ぐ必要はないが、また機会ができれば見にいってやってくれるか?」
顔を覗き込んでそう窺ったユーリスに、少しばかり目を瞠る。灰狼の学級の級長として住人達だけでなく
それから。なにやら魔導の研究の時間らしく、コンスタンツェはお嬢様然とした高笑いをこちらへくれてどこかへと離れていった。
そしてユーリスが連れて来てくれたのは、食堂の脇にある子供達の溜まり場だ。そこでは元教師だという男が子供達に読み書きを教えていた。五十音が彫り込まれた木板をなぞったり、砂を敷き詰めた板で何度も字を練習していたりする。
「ああして読み書きを覚えられる環境ができたのは、つい最近のことなんだ。望めば職を得てアビスから出られるだろうって、アルファルドさんは言ってたな。」
「そういえば、人格等に問題がなければ職を斡旋していると言ってましたね。それはどなたが?」
「話を持ってくんのは商人だ。経歴に問題がない子供なら、それなりの話を持ってきてくれるらしい。」
実際、あいつらがどうなるかはわからねぇけどな。ユーリスが思案深い声音でそうボヤいた。アビスの住人に慕われるだけあって、人情味があるのだなと薄ら感じる。
ここで生まれた子供、もしくは親共々ここに逃げてきた子供。大修道院の孤児院に入ることもできず、外で生きていくこともできず、一生をここで過ごしてきた者もいるだろう。それを哀れに思う心くらいは、私にもある。
「その、斡旋される職は…どのようなものなんでしょう。」
職を斡旋するらしい商人、と聞いて思い浮かべたのは、時折アビスに来て内職を依頼し報酬として食糧等を置いていく存在だ。一度だけ見かけた怪しげなフード男を思い出して思わず唸る。
「ここでは危なげな商人も時々来るが、ディオは教団も出入りを許可している真っ当な商人だよ。ディオの人脈がどうなってんのかは知らねえが、傭兵稼業だったり貴族や教会の下働きだったり職人だったりと、いたって普通の職を持ってくるらしい。」
「業種を問わずに人材派遣ができるとは…、その、ディオって何者なんでしょう。」
「大商会の役人らしいだとか、パルミラやアルビネとも取引してるとか、いろいろ噂は聞く。……ま、非合法なことはしちゃいないし、ああいう手合いは余計な詮索をしないほうが身のためだぜ。」
「……。」
ユーリスの言っていることはもっともだ。ディオとやらはフォドラ中に手広く力を振るえる商人なのかもしれない。
「……ヴィット商会の者ではありませんよね?」
「ヴィットだと?…確か、ファーガス北方では有名な商会だったかな。」
「ご存知でしたか。」
「ああ。以前、貴族の養子だった時にな。香辛料はヴィット商会から仕入れるのが一流だとか言われてたこともあったっけ。」
「酒と香辛料は極寒のファーガス北方では必需品です。その大部分の流通と利権を牛耳っているそうですよ。」
ヴィット商会ではないという確信が欲しかっただけなのに、思いがけず掘り下げてしまってから、少し困った。ユーリスが貴族の養子だったということを聞き直してもよかったが、なんとなくそれは無遠慮だと躊躇ってしまうのだからまた困る。案の定ユーリスは意地悪くもそれを見逃すことなく、目を細めて艶っぽくこちらを見据えてきた。
「…で、その商会だと何か困ることでもあんのか?」
「……以前少しご縁があったのです。」
「、てことはファーガス北方出身かい。」
「ええ、そうですよ。コンスタンツェ…は、ヌーヴェル家ということは帝国ですよね。そしてバルタザールはレスターかな。」
初対面時にヌーヴェル家再興を宣言していたコンスタンツェと、レスターの格闘王だと名乗ったバルタザールの出身地はなんとなくわかる。
「ハピやユーリスの生まれって…聞いてもいいものですか?」
「さあな。ハピなら直接聞きゃいいだろ。」
なるほど、と頷く。やはりユーリスは自分のことを語る気はないらしい。私自身もボロボロと口を滑らせてしまわないように気を引き締めたほうがよさそうだ。