闇の一端
「失礼しますね。」
未だ人の声を聞いていないであろう母親に声をかけ、祈るために組まれた手を容赦なく引き剥がす。痩せ細った手を身体の脇においたが、それでも特に反応はしない。
「…ウテナ…となりに住んでるおばさんが、ときどき母さんの面倒を見にきてくれるんだ。からだを起こして拭いてくれるんだけど、……もう、何をしても変わらなくなっちゃった。」
「……何をしても?」
「昔は、ほっぺたを叩いたり、耳もとで大声を出したりすれば、反応があったんだ。少ししゃべって、首だって振ってたんだよ。」
しかしだんだんと反応が鈍くなっていき、今では派手に叩いても彼女が昔苦手にしていた虫を手に乗せても反応しなくなってしまったそうだ。
その言葉に苦い気分になりながらも、どうにか笑って「だったら遠慮なく診察できそうですね。」と努めて気軽な声を出した。魔導の光を掌に創り、冷たく乾燥した肌を照らす。手足の爪先、浮き上がった血管、目蓋をこじ開けて瞳孔や目蓋の裏を、口内から舌裏まで、服は剥がさないままくまなく観察する。
「……ダリス、彼女はいつから病だったのですか?」
「…知らないんだ。ほとんど、となりのおばさんとか、まわりの人に育てられてて…母さんはずっと寝たきりだった。いつからここまで悪くなったのかも、よくわからない。」
「…食事はどのように?」
「食堂のひとが、いつもパン粥をつくってくれるよ。」
「今日の食事はまだですか?」
「うん……食べるものを変えたほうがいいの?」
「それは確かですが…ここでどれくらいのものが用意できるかわからりませんからね。少し出て準備してきます。その間は、ダリルが母親の治療をしておいてほしいのです。」
「治療?ぼくが?」
「はい。人間は体温が低いと病気になりやすいんです。彼女はとても身体が冷えているから、手や首元を優しく、根気強く撫でて温めてあげてくれますか?」
反応のない母親の冷たい手に触れるのは怖いのだろう、少し顔を強ばらせたダリスは、それでもゆっくりと頷いた。
ダリスに手の温め方を伝授して天幕を出ると、ちょうど女性と鉢合わせた。中年頃だろうか、こけた頬をしているが目元の皺が優しげな人だ。
「アンタかい?ユーリスが寄越した医者ってのは。」
「え、ええ。見習いのようなものですが、リルメと申します。」
そう頭を下げた私にウテナと名乗った女性は「堅苦しくしないでくれ」と苦笑いした。ウテナは赤子の頃からダリスの面倒を見てきたひとりで、その母・ジュリアを甲斐甲斐しく世話している"隣のおばさん"であるらしい。
「ジュリアの病は殆ど気鬱のもんだろうさ。」
「……詳しくご存知なのですか?」
「ああ。私はここで生まれ育ったんだが、あの子に出会ったのは十にも満たない子供の頃だ。事情は知らんが元貴族なんだろうね、母親と共に利発で綺麗な子が来た日のことを今でも覚えてるよ。」
ジュリアは少しばかり身体が弱かったが、貴族だったため大変自尊心が高く、ここでの生活を心底嫌がっていた。
「私は貴族教育を受けていたのよ。あなた達と違って、読み書きもできるし、マナーも完璧なの。だから、どこぞの下働き以外の、もっといい仕事が回ってくるわ。そして私は絶対、絶対にここを出て、幸せになるの。」
そう信じ周囲に公言していたジュリアは
、商人に交渉を重ね自分の能力を売り込んだ。本当は華やかな貴族生活に戻りたかったのだろうが、しかし、商人は大修道院の孤児院での世話役を紹介した。彼女は苦悩したが、大修道院にいられるならば母親とはまた会えるだろうし、何よりも貴族も訪れる場所だ。自分の美貌をもって貴族の男に見初められれば、再び貴族生活を送れるかもしれない。
「そんな風に夢見て、地上へ出ていく日を待っていたんだけどね…、」
「……。」
「本当、運がなかったんだろう。…ある日、こことは違う居住区に見慣れないゴロツキ共が入り込んで来て、アビスを引っ掻き回しやがってさ、」
「…それ、は…。」
「高価なモンも食糧もまともにない場所さ。だから奴らは女を襲い、子供を攫って、暴れ散らかして出て行った。……そして身篭っちまったあげく母親を亡くしたジュリアは心を病んだ。」
あの日から、綺麗だったあの子は壊れていく一方さ。
助かりはしないのだと、諦観を浮かべた表情で肩を竦めたウテナは、天幕の中に入っていった。
華やかな貴族から一転、日の当たらない地下に落とされ、それでも再び明るい場所で生きることを夢見たジュリア。彼女は本当なら今頃、孤児院の世話係をして、きっと子供達に読み書きやマナーを教えることもできたりして、そんな彼女を誰かが見初め、幸せな家庭を明るい地上で築くはずだったのかもしれない。
しかし、愛する家族を奪われ、尊厳も体も傷つけられ、身重になってしまった彼女は、与えられていた地上への希望すらも取り上げられた。
「……しかたない、のかな。」
死にたいと望むのは。
しかし彼女のことを母親と慕い、その生を望む子供がいるのだ。しかたない、で済ませてはいけないだろう。
(死にたい、生きていたくない。)
(家族を失いたくない。)
どちらにも俄に共感してしまう私では、ろくなことにならないような気がした。