悪いのは運だけではない
講義の終わった夕暮れ。淡く霞がかった陽が僅かに残る空は薄暗く、大修道院内の人影も疎らになっていた。
「ベレト先生……あ、」
「おおっ…これはこれは、噂の姫君!」
廊下の角に消えた背中を追うと、お目当てのベレトではなく、赤毛の生徒と鉢合わせた。彼は確か青獅子の学級の男子生徒だったはずだ。
ぱっと笑顔になった彼はその長身をかがめてこちらを覗き込んでくる。いやあ本当に目の覚めるような美人ですねえ、と賞賛する軽薄な声に思わず硬直した。
「シルヴァン、近付きすぎだ」
「おっと、すみません。殿下が夢中になる程の女性なので、つい見蕩れちまいました」
間に入ってくれたベレトの背中にホッと息をついた途端、嫌な話が聞こえてきた。
「殿下…ディミトリが?」
「ええ、なにやら数日前から姫を捜してるようでしてね。リルメを見なかったかって、いろんやつに聞いて回ってましたよ」
「何か用事があったのか?」
「それが、よくわからないんですよねえ……アンタ、何か知りません?」
ベレトの肩越しにひょいっと見下ろされて、ぐっと身構えた。なんだかシルヴァンとやらの目はとても嫌な感じがする。
「……あなたには関係ないよね」
「…まあまあ、そんなこと言わずに〜。俺はこれでも女の子が困ってるなら手助けする方ですよ?」
「へえ、それは素敵な心がけだね。……それより、ベレト先生。セテスさんが探してましたよ」
「セテスが?」
「私はそれを伝えに来ただけなので、失礼します。……あなたも、お気遣いどうもありがとう」
「え、ちょっと」
まだ何か言われるのが面倒で、振り切るように一礼して背を向けた。足早に立ち去ったが態々追ってくる気配はなさそうで安堵する。
( 青獅子のシルヴァンか…あれは嫌だ、関わりたくない )
軽い口調と笑みだけで親しげにするわりに、棘も隠し切れていない。警戒心とか嫌悪感とか、そういうものに敏感な私にとってあれは剥き身の毒の刃みたいなものだ。私を正面から覗き込んだ時のあの冷え冷えした目、なんでこんなやつがと言わんばかりの攻撃的なものだった。
「気が立っておりますな」
「……何か用?」
カツカツと余裕のない足取りで歩く私に、ヒューベルトが長い足で余裕を持って並び歩いた。それだけで腹が立ってくる。
「先日のお話について、少々」
「私は話すことなんてないけど」
「私は知りたいことがあるのですよ」
なんだか今は誰とも話したくない、イライラする。今でなければヒューベルトと楽しく話せるのかと言われれば、そうとも言えないけれど。それを口にしたところで遠慮してくれる相手ではなさそうだ。むしろ好機と言わんばかりにあれこれ吐かされそうな気さえする。
「ヒューベルト、ここにいたか……っリルメ姫…?」
( ……エーギル家の面倒なやつ、)
フェルディナントと言ったか、これも嫌いだ。会いたくなかった。むしゃくしゃした気分で顔を逸らし一段と足を早めた。
「君はまた…ヒューベルトと一体何を…、」
「私が何かしたように見えるの」
この間抜け、そう言いかけてさすがにダメだと口を噤んだ。私のイライラした様子に目を丸くして立ち尽くすフェルディナントを通り過ぎ、大広間も抜けていく。今は夕飯時、食堂が賑わう脇の玄関口へ向かった。
( 外に出よう。門番は、私はさておき生徒のヒューベルトは止めるはずだ。そしたら今度こそ撒けるはず )
そう考えた時、
「ひぃえええぇぇっ!」
薄暗い玄関の脇から奇声があがった。思わず立ち止まって見渡せば小柄な女子生徒がわなわなと震えていた。
「ひゅひゅひゅヒューベルトさんが…っ怖いお顔で笑って…!」
「…ベルナデッタ殿」
「ひぃぃっ!べ、ベルは何も見ていませ…っっ」
「……?」
ぶんぶんと首を振った彼女が、不自然に固まった。どうしたのだろうと恐る恐る近付いて、思わず「えぇ?」と裏返った声が出た。
「嘘でしょ…白目向いてない?立ったまま…?」
「…まさか、気絶したのでしょうか…」
「えー…?ていうかこれ息してる?」
イライラしていたことも忘れて、つんっと頬をつついてみれば息はしっかりしていた。けれど意識はないのか、その目は裏側を向いたまま見開かれている。
「……何をしているのです?」
「医務室に運ぶんだよ。放っておけないでしょ」
立ったまま固まっている女子生徒を横抱きにすると、ヒューベルトから溜め息が聞こえてきた。けれどこれならもう先程のように何かを聞き出そうとはしないだろう。この女子生徒がいつ目覚めるかわからないし、今だって何を耳にしているかもわからないのだから。
「お待ちなさい。彼女は私が運びますよ」
「…あなたが?」
「ベルナデッタ殿は我が黒鷲の学級の生徒です」
「……」
「今日のところはこちらを優先するのでね、見逃してさしあげますよ」
( なんで譲歩してもらったような感じになってる? )
僅かに振り返したイラつきを飲み込んで、ベルナデッタという女子生徒をヒューベルトに手渡した。
「……気を失った人間を平然と抱えられるとは…やはり、あなたは底知れない」
とても人のことを言えないはずの顔を見返した。怖いお顔で笑っていると慄いて倒れた女子生徒の気持ちもわかる。やはり底知れないのはこのヒューベルトのほうだろう。
「……どちらへ?」
「ちょっと散歩に」
ベルナデッタを抱えたヒューベルトにそう返して背を向けた途端。
「散歩?リルメ、足はもう治ったのか?」
「……」
……本当に、次から次へと何なのか。この数分だけでやけにむしゃくしゃしているし午前中には面倒なことがあったばかりだし、今日は厄日なのだろうか。
「マヌエラ先生に数日は安静にしているよう言われなかっただろうか?」
ディミトリの言葉にふいっと目を背けると、ヒューベルトが喉で笑うような声をあげた。
「……おやおや、怪我をされておいででしたか。先程の強歩といいベルナデッタ殿を抱えたことといい、安静とは程遠い動き方をされているようでしたが」
「あなたには関係ないよね。それより、はやく彼女を運んだ方がいいんじゃない?」
「……正直、こちらの方が興味深いのですが、仕方ありません」
ヒューベルトは一歩だけこちらに近付くと、ベルナデッタを抱えたまま高い背を器用に捻じ曲げて、私の耳元に顔を落とした。こめかみに触れた吐息が冷たい。
「愉快なことですな」
何が?と首を傾げた私の耳元で、ヒューベルトが何かに気付いたのか、愉快そうに口を寄せて低く笑う。
「……貴殿を取り巻くもの、全てが」
顔をあげたヒューベルトを睨み見ると、頭上から観察されているような気がした。見世物じゃないと言い返そうとして、溜め息と共にごくんと飲み込む。こんなくだらないことに腹を立てたり張り合ったりする必要はないのだと言い聞かせた。
「…こんばんは、ディミトリ」
振り返ってにこりと笑いかけると、ディミトリはハッとしたように目を瞬いた。
よくわからないが足の怪我の追及をかわす好機な気がする。今日はドゥドゥーが一緒じゃないんだねなどと適当に振れば、ディミトリは小さく頷いた。
「…ああ。ドゥドゥーは皿洗い当番なんだ」
「へえ…そういえば、ディミトリは皿洗い当番したことある?」
「もちろん、俺もここではひとりの生徒だからな。当番が回ってきて一度だけしたことがあるんだが、その……俺は皿を何枚も割ってしまって、」
「…あら、割ったの…」
「細かい作業や力加減の必要なことが苦手で…つい力んで皿を強く握ったり滑らせたりしてしまうんだ」
僅かに項垂れて首を緩く振ったディミトリが、なんだか意外な気がした。優れた王子様のように見えて、力加減が苦手などという不得手がある。そしてそれを素直に晒してしまっている。
「皿洗いは禁止されたんだ…」
「…禁止……そんなことあるんだ……いや、そっか…うん、でも、皿洗いが禁止されちゃうのもディミトリの魅力だよね」
「なっ、ど、どういう意味だ?」
「顔が良くて優しくて礼儀正しくて強い王子様とか完璧すぎるじゃない。皿割って怒られるくらい愛嬌だよ、愛嬌」
「そ、そうだろうか」
長い睫毛を伏せて、口元を大きな手で覆って。目に見えて狼狽えているのも、今のところは愛嬌だと思える範囲だ。照れているわけじゃなさそうなところも好ましい。
( ……よし、今のうちだな )
「じゃ、私は用事あるから。またね」
「ああ…って、待て!」
「あ、ディミトリ、誰か食堂で呼んでるみたい」
後ろの食堂に手を向けると、つられたようにディミトリが食堂へ振り向く。こういう、疑いなく動くところも愛嬌、というべきなのだろう。
その隙に距離をとって玄関口へ向かった。
「あっ、待てリルメ!お前、エーデルガルトの従者とは何を…」
( エーデルガルトのって…ヒューベルト?なんでそんなこと )
「…いや、それより足の怪我は!?」
「……もう大丈夫!この前はありがとうね!」
仄暗い廊下に声を響かせて軽く手を振り、さっさと階段を降りて行く。ディミトリの声は返ってこなかったので、漸く自由の身になれたのだろう。
( 少し、視線を集めちゃったな )
私とディミトリの声に振り返った修道士達の視線は、相変わらず居心地の悪いものだ。気のせいでも自意識過剰でもなく、確実に私を見て、声を潜めて話している。妙な邪推をされなければいいのだが、たぶん、それは期待できないだろう。
そういえばシルヴァンが言っていた、ディミトリが私を探しているとかいうやつは怪我のことだったのだろうか。だとしたらもう用は済んだということでいい、はず。
( ……それにしても、生徒がうろつく時間に出てくると、やっぱりろくなことがないな )
「………」
大修道院の外。市場も既に閉まり静けさに満ちた夜闇の中で、ふうううっと長く息を吐き出した。
これも日頃の行いが悪いせいだとは思いたくないが、残念ながらそうでしかなかった。