近くとも他人である



冷たい水にぶるりと身を震わせた。
ひんやりと濡れた布巾で首元を拭えば、全身に鳥肌がたつ。気温の上がる季節とはいえ、ガルグ=マクは山間にあるのだから、夜は冷え込むことも多い。

( ……あれは、何なのだろう )

服を整えながら宙に向かって息を吐き出す。先程の戦闘でよく働いた心臓は、未だにわかりやすくドクドクと脈打っていた。
不安定なままの魔法剣は、夜空で明滅する星のようにぱちぱちと熱を宿したまま。まだ敵を排除し足りないのだと訴えているようだった。

( 午前中に一小隊…先程は小隊未満にしろ、たぶん、同じ一派 )


ここ最近、アビスに不穏な影がある。
気付いたのは数日前の休息日明け、忘れ物に気付いてこっそりアビスへ行った時だった。見慣れない人間が、武装してアビスの地下を闊歩していた。地下の薄暗がりの中で明確にはわからなかったが、たぶんアビスの人間ではなく地上の傭兵か何かだろう。
それが突然攻撃してきて「宝はどこだ」とか「いっそこいつを売ってしまえ」とか抜かすのだ。アビスについて何か勘違いしているらしいと思って何度も来る奴らを、何度も追い払ってきた、が。

( ……得体が知れない。正体や目的を吐かせる前に逃げてしまうし、ひとりじゃ対処することで精一杯だ )

その賊を相手にした際に足を挫いて、ちょっと転けただけで悪化するような痛め方をしてしまった。魔法剣の暴走もあったのだろう。
結果としてメルセデス達やディミトリに手間をかけさせてしまったし、ディミトリは数日経った今でも心配していたようだ。実際にまだ完治したわけではないし、先程の戦闘でまた痛めたかもしれない。足が痛かったからむしゃくしゃしていたのではとも思えてきた。

けれど、それでも誰かの手を借りようとはとても思わないのだ。
アビスでのことなのだからアルファルドやユーリス達に話すべきだけれど、二人はここのところどうにも忙しそうで。私と同じく不審者退治に忙しいのなら協力しあえるだろうが、二人は恐らく違う。
そして地上の誰かに話すあてもない。ウィリアム司祭は彼自身に戦闘力やその伝手があるわけではないので、知恵くらいは貸してくれるかもという程度。きっと困らせるだろうと思うと言い出せはしなかった。



「……ユーリス、」


アルファルドやユーリスに言えない理由のひとつは、彼等のおかしな様子にある。
たとえば、こんな夜更けに重い溜息を吐いてその綺麗な顔を歪ませていたり、陰鬱な目で暗闇を睨みつけていたり。どこか張り詰めたような緊張感があって、精神的な疲弊とそれを凌駕する凄味のような圧を纏っていたりもする。


「…あ?リルメ?」


声をかけるまで気付かないなんて、先日もあったことだが、とても鈍っているとしか思えない。
疲れているのか、考え事でもしていたのか、私にはわからないが、少なくとも以前までのユーリスは人の気配に敏感だった。最近のユーリスはやはり変だ。


「…夜中に地上で会うのは久しぶりだね」
「…そうだな。お前はまた夜遊びか?」
「ふふ、夜遊びとはひどいな。ユーリスこそ、また悪さでもしてたの?」
「ま、そんなとこだ」


本当のことを言わないで茶化し合うのはいつものことだ。なのに、今はなんとなくもどかしい。ユーリスの様子がおかしいのを、知らないふりしたままでいてもいいのだろうか。いや、本当はいろいろ聞きたいのだけれど、私達は互いに干渉し合うような仲ではない。

( 付き合いは長いけど、たぶん深くはないんだよなあ… )

なんて、ひとり憂いだところでユーリスが本心を話すことはないと、わかっている。
……と、訳知り顔で悟った時。

ぐううう。


「……あら、何だろう。虫の声かな?」
「お前の腹の?」
「…もう!」


腹を抑えて軽くユーリスの肩を叩けば、気が抜けたかのように再び虫が鳴いた。
ぐうきゅうう。

「ははっ、元気な虫を飼ってるみてえだな」

ユーリスが口元に手を当てて小さく笑った。それだけで空気が和らいでしまうし、揶揄いも許してしまうのだから、美人とは本当にお得なものだ。
緩みそうになる頬を無理矢理引き締めて「うるさいよ」と怒って見せる私に、ユーリスは小さな紙包みを差し出した。


「…こ、これは!」
「昼間にロック婦人が来ててよ、今日も頼むってんで張り切ってやったら褒美にくれたんだ」


アビスに出入りする物好きな商人・ロック婦人。アルファルドや私が懇意にしている彼女は、ガルグ=マクの闇と呼ばれるアビスを嫌煙することなく、親切すぎる格安取引をしてくれる希少な商人だ。


「…なんか、ユーリスのそういう言い方いかがわしいね」
「なんでだよ。ただの化粧と身繕いだぞ」


ロック婦人は商人ながら飾り気のない不器用な老婦人でもある。憧れていたシェンを失って以降お洒落に目覚め、ユーリスがたまに化粧などの仕方を教えてあげているのだ。ユーリスはその報酬として化粧品を受け取ったりもしているらしい。


「まあ、ユーリス自身がいかがわしいものね…」
「ほう?そんな可愛いこと言うお口には高級焼き菓子をくれてやろうか」
「ありが、……ん?」


可愛らしい紙包みから芳しいクッキーを取り出したユーリスは、それを私に寄せたかと思うとひょいっと遠ざけて自身の唇に挟んだ。


「ほらよ」


そしてあろうことかクッキーを口に浅く挟んだままこちらに差し出してきた。


「……」
「食わねえのか?ん?」


器用に喋る口元といかがわしい目をひと睨みして、一転、にっこりと微笑んだ。


「いただきまぁす」


遠慮なくクッキーに噛み付いてサクッと割ってやった。鼻先が当たって、一瞬ユーリスの白粉が香る。けれどそれも口に広がった甘さで掻き消えた。
砕いたナッツが乗せられた、甘いバタークッキーだった。


「……お前な、」
「うわ、なにこれおいしい」

サクサクと噛み砕けばナッツがガリリッと音をたてる。ふくよかなバターの風味とナッツの塩気も合わさって、飲み込んだそばから、ふぅぅと幸福な溜め息が零れた。
半分じゃ足りないからまだ欲しいなとユーリスに顔を向けて口を開けば、彼は何とも言えない顔で残された半分のクッキーを噛み砕いていた。


「もう一個ちょうだい」


唇をぱくぱくする私の口に、今度は普通にクッキーが運ばれてくる。

「っ、こ、紅茶…!」
「……うわ、うめえな、紅茶」
「ほんのりスパイスあるね…引き立つ…」

口で味わうと馨しい紅茶、深く息をすれば僅かにジンジャーのようなスパイスの香りが鼻を通る一枚で二度おいしいクッキーだ。さすが高級焼き菓子。喉を通った後の余韻まで素晴らしい。

「お、キャラメルもいけるぞ」

次いで口へ運び込まれたクッキーは、ほろ苦いキャラメル風味で柔らかいものだった。濃厚な香りのミルクシュガーが混ざっていてクセになる甘さだ。しっとりしたクッキーと、カリカリしたミルクシュガーの按配もちょうどいい。


「……おいしい、ね」
「ああ、うまい」


すぐ返ってきた恐らく本心であろう肯定に、なぜだか泣きたくなった。
唸って悶えるようなものではないが、ふうっと鼻から安堵の息が溢れるような"甘さ"。それが見える微笑みをユーリスが浮かべただけで、胸は締め付けられた。


( ……どうしてだろう )


弱味を見せたくなくて化かし合ったり、何事もなかったかのように平静を装ったりするのはいつものことだ。愚痴や泣き言を漏らすことはあっても、本当に追い詰められたり苦しかったりした時には口を噤んでしまうのだ。それはきっと、お互いに。

けれど、これまで通りに装えているはずの今、胸が締め付けられている気がするのは、私だけだろう。おいしい、なんて心からの感想を聞いただけで、こんなにも歯痒くなるなんて。


「……なんか、」
「ん?」
「私、今日は厄日かと思ってたんだけど……ユーリスとおいしいもの食べて、少しチャラになった気がする」


それは弱音を交えた本心だった。
クッキーを食べておいしいねと心から言ったのと同じで、茶化してもはぐらかしてもいない。今日が厄日だったなんて言う気はなかったのに。
疲れているからか、甘いものを食べたから、どうしても何かが緩む。


( ……互いに踏み込まないのが、心地よかったはずなのにな )


どうしてか、何か少しだけでも話して欲しい、聞いて欲しい、などと思ってしまっている。
先程までむしゃくしゃしていたことも足が痛かったことも忘れてしまえるような甘さと安らぎのせいで、ほんの少しだけ、もどかしいのだ。


「……俺もだよ」
「……」


すっと伸びてきた綺麗な指先が口元に触れた。ゆったりと下唇をなぞられて、「粉ついてんぞ」と笑われる。
なんだ、まるで子供扱いだ、恥ずかしい。というか、やはり何も話してはくれないのだろうか。面倒見のいいお兄さんのように優しく目を細めて、私の口元を拭うだけなのだろうか。

( ……何も言わないつもり? )

ユーリスに対していかがわしいとは言ったものの、その藤色の瞳は気高い色だと思っていた。夜の暗い中でも鋭利な刃物のように光を取り込んでいるし、夜露を纏った紫陽花の色にも見える。冴え冴えとした冷たい色なのに熱を帯びているようにも見える。

そして今はどこか、不穏な色にも見えるのだ。
……ユーリスが変。それは、ずっとわかっている。




「……クッキー、」


小さく呟くと、弾かれたように唇からユーリスの指先が離れた。


「おいしかった。ありがとう」
「…おう」


おつかれさまと手を振れば、おつかれさんと柔らかく返された。おやすみと言えばおやすみと返されるだろうし、茶化したり揶揄ったりすれば同じように返される。
けれど、こちらが少し弱音を吐いたところで、同じように何かを吐いてくれるわけではないらしい。

( ……いや、それ以前の問題だな )

互いに踏み込まないのが心地良い距離感なのだと思っていた。その無関心さがあるから寛いで過ごせる。何でもないときも、何かあったときも、こんな風に穏やかやり過ごせる安心感。それがユーリスとの正しい距離感なのだと思っていた。

けれど、そうではなくて……何かおかしいと気付いていてなおこの有様なのは、ここにきて一人歯痒くなっているのは、ただ私に踏み込む勇気がないだけなのだ。