互いを守る線
アネットにとって、不肖姫と呼ばれるリルメは得体の知れない人だった。あまり生徒が関わることもないと聞いていたから元より興味も然程なかった。それよりも優先すべきことは、たくさんあったから。
「今度ね、リルメをお茶に誘ってみようと思うの〜」
講義の終わった教室内。おっとりとメルセデスが零したそれに、アネットは思わずペンを取り落とした。
「メ、メーチェ?リルメさんって、…あのリルメさん?」
「そうよ〜。アンは会ったことないかしら〜?」
「うん…遠目から見たことはあるんだけど、」
近くにいた修道士がこれみよがしに彼女を悪く言っていたのを偶然にも聞いてしまったことがある。自分達生徒には良くしてくれる彼らが、ひとりの女の子に後ろ指をさして「堕落者が」「早くどこかへ行け」と口にするのだ。そしてそれをものともせず颯爽と歩く彼女は、カッコイイというよりも、
「……ちょっと、怖そう、」
そう言ったアネットにメルセデスは困ったように微笑んだ。そしてなぜかアッシュと顔を見合わせ、苦笑いのまま頷き合う。怖いということは否定しないのだろうか。
「怖いというより、リルメさんは強いんじゃないかな」
「そうかしら〜?意地っ張りなんじゃなくて〜?」
「あはは…それもありそう」
意地っ張り。堕落者。その言葉に人物像を掴みかねて首を捻ってしまう。
「ねえ、アッシュ。あの子は甘いものが好きかしら〜?」
「はい、甘すぎないお菓子なら何でも好きって言ってました!」
「あらあら、じゃあ何か作ったら声をかけてみましょう。ねえ、ディミトリはどう思う〜?」
「いいんじゃないか?問題は見つけられるかどうかだが…」
「殿下があれだけ探してるのに、なかなか見つけられませんからね…」
メルセデスとディミトリとアッシュ。三人が朗らかにそんな話をしていたことを思い出す。ディミトリが頻繁に彼女の所在を気にしていたり、そんなディミトリを諌めず助言までしているドゥドゥーがいたり、アッシュやメルセデスがいつの間にかその話に加わって「仕方のない人だ」と苦笑していたり。
知らない間に仲良くなっていたらしいことに、不安にもなるが羨ましいとも思った。セイロスの紋章がどうとか不肖姫であるだとか、それはアネットにとって重要なことではない。大事なのは、仲良く楽しく過ごせるかどうか、だ。
( メーチェがお茶をしたいって言ってるんだもの。きっと悪い人ではないし、私もいっしょにしたいから、どこかで会ったら話しかけてみようっと )
そう意気込んではいたが、実際の出会いはあんまりなものだった。まさかリルメが攫われる場面に遭遇するなんて。フェリクスがすぐに気付いて動かなければ、取り逃がすことになっていたかもしれない。
そう考えて、未だにドキドキといている胸を抑えた。
「それにしても、アネットがじょうろ持ったままでいてくれて助かったよ」
「えっあ、また持ってきちゃった!」
ちらりと流し目で微笑まれて再び胸がどきりとする。ジョウロを持ったままの恥ずかしさと、リルメの儚いのに妖艶な表情に顔が真っ赤になってしまった。
「今から返しに行ってくる?医務室くらい私ひとりで行けるよ?」
「そっそれはダメ!何かあっても放っておいたら医務室行かない人だって、メーチェも殿下も行ってたもの」
アネットが拳を握って言ったそれに、リルメは苦い顔をした。何か怒らせるようなこと言ってしまっただろうか。不安になったアネットに気付いたのか、眉を下げて微笑みかけられた。
「……さっきみたいなのをね、あまり大事にしたくなくて。だから、できるだけ人にも言わないでほしい」
「え、」
さらりと揺れる銀糸の髪に神秘的な白緑の瞳、白く透明感のある肌と人形のような四肢。少し引けばこの手に落ちてきそうな儚さと、相反する強気な言動。
アネットは同性を見てその美しさに胸が高鳴る経験など初めてだった。ジョウロから直接彼女の口に水を注ぐ時なんて、毒をどうにかしなければという緊張感が吹っ飛ぶくらいの何かで心臓がバクバクしていたのだ。要するに、それだけ魅力的な外見の人なのだ。
「ど、どうして?こんなことが、もし…また、あったら…」
アネットはそう口にしながら、もしかしたらこんなことは初めてではないのかもと考えた。
リルメ本人も何でもないよう振舞っているし、毒を盛られた割に足取りもしっかりしている。こんなことには慣れている、ようにも見えるのだ。
「警備上、報告はするけどね」
「け、警備上って…」
「あの男、わりと前から大修道院に入り込んでたみたいだから。最近は反乱だの暗殺だのと物騒でしょ?」
「それは、そうだけど…」
「今年は人が良すぎる生徒も多い。そういう子にも知られたくないんだ」
人に心配をかけたくないんだろうか。そういう考え方こそ心配になってしまい眉が下がるアネットに、リルメは小さく苦笑した。
「……生徒は預かり物で、生徒の本分は学業だよ。私のことに巻き込むわけにはいかないからね」
生徒である彼らには関係ないことだから、と。はっきり告げられたそれは、彼女なりの線引きなのだろうか。
「メーチェたちとは、友達じゃないの?」
「私のことに巻き込んで時間を使わせたり危険な目に合わせたりするのが友達たどいうなら……そういうものではないね」
「……」
何を言えばいいのかわからなかった。メルセデスやディミトリが気にかけて差し出している手を、取るか取らないかはもちろん相手の自由だ。けれどそれがもしこちらを慮っての拒絶ならば、どうすべきなのだろう。それでも仲良くなりたいと、自分は言えるだろうか?
「…うわ」
不意にリルメが吐息のように呟いた。なぜか嫌そうに聞こえて顔を上げれば、正面からシルヴァンが歩み寄って来ている。
「やあ、アネットにリルメ姫。いやあ、可愛らしいアネットと美しい姫が並ぶと目が喜ぶなあ」
「シルヴァン、」
「ん?どうした?いつもの元気なアネットらしくないな」
そうシルヴァンが優しい笑みを浮かべて覗き込んでくる。何を考えているのかわからないし、本当はシルヴァンこそ今は落ち込んでいるのではないかとも思うけど、それを決して彼は悟らせない。
「……私の問題に巻き込んでしまってね、たぶん気が動転してるんだ」
「え、ち、ちが」
「アネット、今日は本当にありがとう。助かったよ」
訝しそうにするシルヴァンを放置して、リルメはアネットの手を取った。美しく白い手が、見た目に反して随分と固い。そして、酷く冷たい。
「ジョウロを返しに行かなきゃいけないし、ついでに花でも眺めて一息つくといい」
温室の管理人に渡せばよくしてくれるから、と何かカードのようなものを渡された。そして小さく「ごめんね」と。
じゃあよろしくとシルヴァンに微笑み背を向けたリルメは、すぐに角を曲がっていった。肝心の医務室はもう目と鼻の先だ。ついていく必要はないかもしれない。
今、明確にはっきりと、線も引かれたのだ。あなた達は生徒だから、友達とかそういうものでもないのだ、と。……ごめんね、と。
そう言われてまで友達になりたいのかと問われればそれは違うかもしれない。けれど、
「〜〜っ」
「おい、アネット?」
……あの時、アネットとフェリクスの姿を見たリルメは涙を浮かべたのだ。それはアネット自身はもちろん、時々血も涙もないようなことを言うフェリクスでさえ突き動かした。
『あんなの、顔が良いだけじゃない』
いつかの修道士の陰口を思い出す。そうだ、特別良いのは顔だけかもしれない。もしかしたら裏で悪いことをしてるかもしれないし、そういえば愚かで怠惰な不肖姫なんて噂もあるのだから、きっとろくでもない人なのだ。
( メーチェの言う通り、意地っ張りなのも本当なんだわ… )
それでも、
「リルメさん!」
ジョウロを持って走り、ばたんっと音を立てて医務室の扉を開けた。
そして中の光景に全身が固まった。
「アネット、どうし…っ」
追ってきたシルヴァンが背後で息を飲む気配がした。
「っし、シルヴァンはダメ!!」
「……見たわね…」
「きゃああ!」
慌ててシルヴァンを追いやり背を向けさせると、医務室からマヌエラの低い声がした。
「しーっ」
「っあ、」
「ごめんなさいね、リルメは今、」
「あ、あの…っ」
先程のことはマヌエラに言うべきだろうか、もう既にリルメから聞いているだろうか、あまり人に言わないで言われたけれど…。そう逡巡するアネットに、マヌエラは柔らかく微笑みかけた。
「また、今度聞かせてくれる?」
所在なさげに背を向けたままのシルヴァンを見てマヌエラはウインクをした。彼がいない時に、ということだろう。
「リルメは私がきちんと見ておくから大丈夫よ。あなたはジョウロを返してらっしゃい」
マヌエラにそう言われてしまえば、しゅんとしながらも頷くしかない。
「……」
医務室の中でのリルメはまるで先程とは別人だった。先程までは、普通に歩き普通に話し微笑んでいたのに。
椅子にしどけなく腰掛けて、肘掛に肘をついて頭を抱えていた。蒼白な頬と首筋には汗が浮かんでいたように思う。アネットが扉を開けたことにも気付いていなさそうだったので、朦朧としていたのかもしれない。
( ……それに、身体が… )
上半身の服を惜しげも無く広げていた彼女の身体は、決して人形のような美しいものではなかった。はっきりと見えたわけではないが、いくつもの傷跡があったのだ。
( いつからだろう、どれだけのことがあったのだろう。あんなの、痛くなかったわけがないのに )
じわりと涙が勝手に浮かび上がる。それを振り払うように、メルセデスを探しに走り出した。
( いや、まずは私もお菓子を作れるようになろう。クッキー…は今は食べれないかもしれないから、何か消化にいい甘いもの考えて、練習して…、 )
お茶に誘うのは、それからでもいいだろう。
メルセデスにお菓子作りを教えてくれと頼みに行き、手にしたままのジョウロを指摘されて、アネットはそこで漸くシルヴァンを置いてきたことに気付いたのだった。