欺く殺意
「………では、この件に関してはまた後日」
書類の端を整えて仕舞いながら、大司教がそう告げた。大司教との相性はよくなく、養母と養子という関係は希薄そのものだが、それでも少し前からこうして話し合うことが増えた。大司教のことは信用しがたいし理解もできないのだが、少しだけ、気安くなってきたかもしれない。
「大司教。これとは別件で、ひとつ」
「…珍しいですね。何でしょう」
「西方教会に騎士団を派遣する際、司祭も数名派遣してはどうですか?」
「司祭、を?」
「騎士団による粗探しをしに行くだけ、というのはあまりにも遠征費がもったいない。再教育も兼ねて司祭を派遣し、あちらの信仰活動を正してもらっては?」
西方教会と拗れてしまった以上、再教育にも問題が伴うだろう。騎士団がいれば少なくとも荒事は防げるだろうし、反発があれば武力による鎮圧も可能。あちらの一般教徒を守るためにも必要な処置であると説けば、大司教はあっさり頷いてセテスに一任しましょうと丸投げした。セテスの裁量になるなら派遣される司祭の中にウィリアムを捩じ込ませることも可能だろう。そう内心ほくそ笑み、大司教の執務室を後にした。
◇
「……鈍い…」
訓練場に私の喘鳴とイエリッツァの溜め息が響く。ハッとして視線をあげれば槍を振り上げる影が見えた。
「っ、」
振り下ろされたそれを寸前で避けて後退する。すかさず大きく横薙ぎにされた槍は、先日の仮面の騎士の大鎌を彷彿とさせる勢いだ。相変わらずその攻め立てに情け容赦はなく、息を整える暇も与えられない。
「う!?……こ、怖っ」
「……なんだ」
「腕!吹っ飛ぶとこでしたよ今!」
「それがどうした…」
「……」
ブォンっと竜巻のような風が起こって、訓練場の埃が散った。訓練槍は木の棒に潰した刃物がついているだけの殺傷能力の低い武器だ。だというのに木の棒にあるまじき音をたてているし、潰れた刃は硝子片のように鋭利に煌めいて、私の腕を薄く裂いた。
( ……久しぶりだな、リッツァ先生の"実践ぽい訓練"… )
時々、イエリッツァは殺意に満ちた別人のようになる。いつものように手加減もしてくれなければ注意点や改善点を指摘してくれることもない。無言でこちらを叩き伏せるのみの人形と化すのだ。
( どうしてこんな風になるのか知らないけど、これもリッツァ先生の一面なのだろう。猫好きで愛想がないわりに面倒見がいい…、だけの人間ではない )
そんなイエリッツァにこうして指導してもらうようになったのは半年程前のことだ。ちょうど、こんな風に殺気立っているイエリッツァに訓練場で遭遇したのがきっかけだった。
( ……あの時は盛大にぶん投げられて足を折ったっけ… )
シャミアやカトリーヌに「あいつとの手合わせはやめとけ」と宥められたが、私は遭遇したその瞬間から決めていたのだ。
研ぎ澄まされた殺気に触れ、"純粋な殺意"を思い知らされた、あの瞬間から。
「……」
ふっと短く息を吐いて魔法剣を奮う。魔力が全身を駆け巡っていて身体は酷く熱い。筋肉という筋肉が悲鳴をあげていて、関節も削れるように痛くて、息も絶え絶え。まるで水に溺れているかのように身体は重く、五感の明敏さが薄れている。
今もしも力を抜けば、うっかり殺されそうだ。イエリッツァ自身にどこかで制御がかかるのか、致命傷を負わされたことはないが、それも絶対ではない。
( だからこそ、これがいい )
ここに絶望はないのだ。
私が望んで、今のイエリッツァと対峙している。その結果うっかり死んでしまったとしても、頭のおかしな奴らに殺されるよりはマシだ、と心から、強く思っているから。
「…っ…ツァ、せんせ、」
「……」
「……てかげっん、しないでよ…!」
我ながら情けない声だった。へとへとでボロボロで顔も情けなかったかもしれない。
そんな私にイエリッツァは情け容赦なく腕を振り下ろして、視界は暗転した。
◇
その夜、イングリットは皿洗い当番だった。共に取り組んだアネットが躓いて積み上げていた樽を転がしてしまったので、こんな時間になってしまったが、明日も講義があるのだから早く休まなくてはならない。
( それに明日の朝食のパンにはとっておきのジャムが添えられるって料理長が言っていたわね…とれたて果実ごろごろの甘酸っぱいベリージャム… )
アネットは自分のドジに付き合わせて申し訳なかったからと、お裾分けを提案してくれた。だがとても美味しいジャムらしいので是非ともアネットにも食べてもらいたい。
「この時期と冬支度をする頃に孤児院で作られるジャムだそうですよ。甘いものが苦手な方はスパイスをかけて楽しむようです」
「そうなのか……シルヴァンは、スパイスをかけそうだな」
「…ええ。後でシルヴァンに聞いてみましょう。部屋で大人しくしていればいいのですが…」
隣を歩くディミトリが苦笑混じりに頷いた。
当番を終え部屋に戻ろうとした時、少し不安気な顔をしたディミトリと鉢合わせた。シルヴァンが部屋にいないのだ、と。
元々シルヴァンは真面目に消灯時間を守る人間ではないのだろうが、今は彼の兄のこともある。心配になって探しに出てみれば、すぐ担任のハンネマンに出会して、シルヴァンと面談していたことを教えてくれた。そしてたった今、寮に送ったのだとも。
入れ違いにはなったものの、部屋に戻って所在が確認できればそれでいいのだ。不真面目にへらへらしているようで、胸の内を簡単には明かさない男なのだ。突然ふらりとどこかに行くような不安定さのままでいないなら、それでいい。
心配していても、今の自分には見守ることしかできないのだとわかっている。イングリットはシルヴァンやフェリクス、ディミトリと幼馴染だが、けれど所詮は他人だ。
「……ん?あれは、フェリクスではありませんか?」
イングリットは不意に見知った姿を見つけた。
「…走り込みをしていたのだろうか」
「そのようですね……まさか、これから訓練まで…?」
見知った姿が訓練場に入っていくのを見て、思わず駆け出した。明日も講義があるのだからフェリクスとて訓練などせず早く休まなくてならない。
後ろでディミトリの呼び止める声が聞こえたが、足はもう訓練場へと踏み入っていた。
( ……フェリクスの声?…誰かと話しているのかしら )
「…イングリット」
追ってきたディミトリが小さく名を呼ぶ。そして潜めた声で「お前は先に戻っていろ」と。
「殿下?」
「フェリクスには俺が声をかえておく。もうこんな時間だし、当番で疲れただろうから、お前はもう休め」
どこか焦ったような小声で捲し立てるディミトリは、まるでフェリクスに自分達のことを悟らせたくないようではないか。イングリットが訝しむように口を噤むと、不思議な程に周囲が静まり返って、その声は響いてきた。
「……体調はどうだ」
フェリクスの声だった。彼が率直に誰かを気遣うのは珍しいのではないだろうか。
「見ての通りだよ。身体が鈍りまくってる」
「病み上がりに無茶をするな」
「いやいや、寝込んだ時に身体を散々甘やかしたんだから、これからは叩き上げていかないと」
「立てなくなる程になって腹を出したまま転がるのが鍛錬か?馬鹿か、お前は。あんなことがあった後でよくもそこまで能天気でいられるものだな」
苛立った声と舌打ち。誰と話しているのでしょうと呟いたイングリットに、ディミトリが困ったような顔をした。自分達が身を隠している扉の影から顔を出せばすむのだが、ディミトリはイングリットを留めるように手で制している。
「……先日の男のような奴が、ここにいたらどうするつもりだ」
「……」
「今のお前なんざ、どうにでも…」
途切れた言葉に何か不穏なものを感じたのか、ディミトリが扉をバタンと開け放った。普段は王子らしく丁寧に扉を開閉している彼がわざと音をたてた。驚いている間にもディミトリが中に踏み入って行ったので、慌てて追いかけた瞬間、
「で、殿下?…っ」
ピリッとした静電気のようなものが肌に走った。思わず息を詰めて、目を丸くする。
そこには押し倒され首を抑えられたフェリクスと、彼に乗りかかる女性がいた。
「……リルメ…?」
リルメ。ディミトリが呆然と呼んだその名は、大司教の養女のものではなかっただろうか。ひとつにまとめあげられた銀糸の髪が揺れて、白緑の目がちらりとこちらを見据える。鋭く尾を引くようなその煌めきに為す術もなく身が震えた。
「……なんだ…ディミトリか…」
力のない声で呟いた彼女は、そのまま力尽きたかのようにべしゃりとフェリクスの上に倒れた。ぎょっとしたフェリクスが何かを言う前に、ごろんと地面に転がり落ちる。
「ど、どうしたリルメ!大丈夫なのか?」
「…ま、魔力が…ぅ…ぐらぐらする…」
横倒れのまま頭を抱える彼女に、ディミトリが右往左往している。そちらも心配だが…とフェリクスを見れば、彼は首に触れて顔を顰めていた。
「…一体何が…フェリクス、首を痛めたのですか?」
「いや、全く」
「では…あの方に何をしたのです?」
先程の光景と空気。押し倒されたフェリクスに銀糸の髪が降りかかる様は、全く甘さも優しさもなかった。
ピリッと肌に触れたのは、恐ろしい感覚。言い様もなくゾッとする、心臓を掴むようなあの感覚、…あれはきっと殺気と呼ばれるものだろう。
フェリクスが余程怒らせるようなことをしたに違いない。
「……お前には関係ない」
どこかで予想していた返答だった。フェリクスはぶっきらぼうにそう言い放つと、立ち上がって少し離れた。そして水差しとタオル等を持ってリルメに歩み寄る。
「…おい」
具合の悪そうな彼女に水をあげるのかと思いきや、フェリクスはあろうことか、倒れた彼女の顔に水をそのまま注いだ。
「フェリクス!?」
「お前、何を…っ」
「ごほっ…いいよ、気にしないで」
水で顔や髪をびしゃびしゃに濡らされたリルメが淡く微笑む。フェリクスは彼女の顔にばさっと雑にタオルを乗せ、身体にはこれまた雑に外套をかけた。
「魔力暴走だか魔力酔いだかを起こした時の対処法らしい」
言葉の出ないイングリット達にフェリクスはフンと鼻を鳴らす。
「気を遣うな、だとよ」
「……にしても雑すぎない?」
「知らんな」
「うわ、機嫌悪そう」
傍目には仲悪くはなさそうだ。リルメも殺気立つほど怒っているようには見えない。けれどならば、先程の殺気は何だったのだろう。
「ねえ」
鋭さのない力の抜けた声。見下ろせばリルメがタオルの隙間からイングリットを見上げていた。
「わ、私ですか?」
「そう、あなた。あなたは甘いもの、好き?」
「え…?」
「そいつは食い物なら何でも好む」
「ちょっと、フェリクス!」
「何でも…?」
「え、ええ…その…食べることが、好きなので…」
「ふふ、そんな顔しなくたっていいのに。食事が好きなのは美点だよ」
ゆったりと顔を拭いながら目を細める。倒れたままの無防備な姿、なぜだか居た堪れなくなって目をそらした。
「魔力がどうしたんだ?何故そんなことに…?」
「フェリクスを安心させようと思ったのと、あと、隠れて見てる誰かを威嚇しようと…」
「……おい、」
「」
「……あの時は迷惑かけたね」
「」
彼を思いやりのない人だとは思っていないが、素直に相手を慮れるような人
「」