煤闇に煙る救い


翠雨の節。
今節も各学級に課題が言い渡された。西方教会の件でセイロス騎士団が出払っている今、賊の討伐や捜索、大修道院の警備の手伝いなどが課題となっている。金鹿の学級だけは毛色が違い、ゴーティエ家から盗まれた英雄の遺産の回収だという。


それはさておき、私は今節、できるだけアビスで"休養"するよう、大司教から通達された。
ここ最近、私はマヌエラの世話になりすぎている。大司教もセテスもマヌエラも、私が"セイ"という騎士に扮していることは知っているし、先日の誘拐未遂についても報告が上がっている。大司教とは、他にも様々なことを最近は話し合っているのだ。

( ……今節は、アビスで"休養"する )

休息日前夜、こっそりとアビスに降りる。灰狼の学級のみんなに顔を出すのは後回しにして、真っ先に書庫へ向かう。

( とりあえず、今日は休む。何もしない。動かない。したいことしかしない )

そう心に決めて書庫の空気をめいっぱい吸い込む。先日の毒で痛めた鼻の奥がツンとして少し噎せた。

アビスの書庫は中央が吹き抜けのようになっている。上階と下階に何層も重ねられた本棚は圧巻の一言に尽きるだろう。地上の書庫など比べ物にならない、ここはこの世の天国だ…と今だけは思う。
二階へ続く階段の手摺に腰掛け、何気なく手にした本を開く。読む気になれば椅子に座ればいいのだからと頁を捲るが、こういう時はだいたい没頭してしまうことが多い。この次の本は椅子で、その次は回廊の手摺で、気の赴くままに本を開いて一日を過ごす。
そこまで読書好きではないはずなのだが、不思議と疲れは出なかった。……と思い込んだのが間違いだったらしい。


「…リルメ…?」

ここで聞くはずのない声が聞こえた。幻聴かと思いつつ振り返れば、やはりあるはずのない姿がある。急に頭を上げたせいでぐらりと身体がふらついた。

「あっ」

手摺に腰掛けていただけの不安定な身体がずり落ちた。読書に没頭して凝り固まってしまったのか、受身もとれそうにない。もう痛いのは仕方ないか、と思った瞬間。

「…っ…、よかった」

ぐっと衝撃があったがベレトが受け止めてくれていた。さすが傭兵、なんという身体能力と安心感。間近にある綺麗な顔を見上げれば「すごい、ありがとう」と、するっとお礼の言葉が出てきた。
ふうっと息を吐いたベレトが近くの椅子に座らせてくれる。

「リルメ、階段の手摺りで本を読むのは危ない」
「…あ、はい…すみません」
「さすが先生。あんなの僕にはとても真似できないや」
「リンハルトも本気になれば…」
「無理ですね。それより君、最近全く見かけないと思ってたけど、こんな所にいたんだね」

ずっとここにいたのかなあ羨ましいなあ。なんてリンハルトは呟いているが、そんなわけがない。さすがにずっといたらカビが生えてしまう。

「そっちこそ、なんでここにいるの?アビスはそう簡単に来れるような所じゃないはずだけど」
「……偶然?」
「ただの偶然なら門番とかに追い返されてるはずですよ、先生」

首を傾げたままのベレトからリンハルトに視線を移す。彼はすでにアビスの書庫に張り付いていた。

「うわ…これって禁書の類じゃない?」
「ああ待て待て、リンハルト。先に説明して」
「えええ…面倒臭」
「つまみだしてやろうか」
「僕らは客人として歓迎されたんだよ」
「…客人?」

リンハルトの話では、本当に全て偶然なのだという。クロードが偶然アビスの入口である怪しい穴を見つけ、偶然居合わせた数人で降りてみたところ、ユーリス達に遭遇して一悶着あった、らしい。そこでユーリス達に勝ったベレト達は、時々来る敵の対処の助力を請われたのだ、と。

( 時々来る敵ってあれだよね…宝はどこだとか言ってた奴ら、 )

「え、これ全部読んでもいいの?」

リンハルトが高揚した声で再び本棚に張り付いた。まあ研究熱心な人にとっては面白い場所なのだろうとは思うけど、

「その本がここにある意味を理解できるなら、構わないよ」

地上の書庫ではなく、人目につかない地下の書庫にある理由。そんなものは容易に想像つくだろうが、それを正しく理解してもらわなければならない。

「……それとも、私達の敵になる?」

私の浮かべた薄い笑みに、リンハルトは目を瞬いた。彼の返答は特に求めてないので背を向けて書庫を出ると、ふらりとベレトがついてくる。

「…?」

そして、リンハルトもついてきた。振り返って首を傾げると、リンハルトも鏡のように首を傾けて微笑んだ。

「勘違いしないでよ。君の言い分は理解できるし、本当はあそこの書物を今すぐ読みたいんだ」
「じゃあ読めばいいのに」
「いや、今は君の方に興味があるし……何そのしょっぱい顔」
「…別に、なんでもないよ」

あまりここでの自分を知られたくないのだが、ユーリス達が賊対策にと留めてしまった以上、勝手に追い返すわけにはいかないだろう。先にユーリスに話を聞かなくては。

( …アビスは、いつもと変わらないかな… )

アビスの居住区に異変らしい異変はない。住人達は私についてくるベレトや生徒であるリンハルトを見て訝しげにしているが、突っかかってきたり不安そうにしたりはしていないのでユーリス達がすでに話を通しているのかもしれない。

「リルメはどうしてここに?」

隣を歩くベレトが首を傾げる。リンハルトのような貴族はさておき、こういう場所にいても違和感のない人だ。

「アルファルドさんって司祭と一緒に、ここの管理に手を出してまして。週に一度は降りてきて……うわ、本当にクロードいるよ」
「…は?リルメ!?」
「どうしたもんかなあ…ねえ、クロード。ユーリスはどこにいるか知らない?」
「それなら教室に…って、いやいや、なんでアンタがここにいるんだよ…」
「私は教団で暮らしてきたんだから何もおかしいことはないでしょ」

すれ違いざまにそう返すと「ああ…まあ、そりゃそうか」とクロードは納得した。そしてそのまま何故かついてくる。

「……意外だなぁ。リルメがこんな所の管理に関わってるなんて」

リンハルトがきょろきょろと居住区を眺めながら呟いた。

「…そう?」
「だって君は、教団の人間らしいお務めもしない怠惰な不精姫なんでしょ?」
「らしいね」
「だったらこんな所に近付きも……あ、もしかして厄介事押し付けられてるとか?それで、怠惰に管理した結果がこの現状、とか?」
「どうだろうね」
「……うーん…やっぱり一筋縄じゃいかないか」
「ふふ、単直すぎるんだよ、あなたは」

あまりにも思惑がわかりやすいリンハルトに振り返って思わず笑う。なぜかリンハルトとクロードには目を丸くされた。


灰狼の教室の入口にはいつも座り込んで駄弁っている破落戸…もといユーリスの部下がいる。心做しかそわそわしている彼等は、私を見てあからさまにホッとした。何を不安に感じているのかわからないが、彼等の話は後で聞くことにして教室に入る。
お目当てのユーリスだけでなく、コンスタンツェと黒鷲の級長エーデルガルトもいた。

「…は?」
「リルメ!?な、なぜここに…」
「今日は休息日じゃねえよな?」
「はっ…そういえば明日は休息日ですわ!」
「なあに?私がいて都合悪いことでもあるの?」

私の笑みにユーリスはよくわからない溜め息を吐いていて、コンスタンツェは目を泳がせている。私に言えないようなことがあるらしいその様子に少しもやもやしてきた。

「……そいつらとここに来たってことは、あらかた話も聞いてんだろ」
「あらかた、ね。私はあなた達の口から聞きたいんだけど?」

ユーリスに歩み寄ってその綺麗な顔を覗き込んだ。
最近の彼がおかしかった理由は、あの賊のせいなのだろうか。どこか違うような気がしていたのは勘違いだったのだろうか。コンスタンツェ達やアルファルドが私に賊の話を何もしなかったのはどうしてだろうか。
偶然とはいえ、ベレトや生徒達を巻き込んで私が何を言うかわからないはずもないだろうに。

「……まあ、そう疑うな。口を割らなきゃなんねえのはお互い様だろ?」
「んむ」

口を割れと言いながら、私の口にはクッキーが差し込まれた。何時どこから取り出したのかわからないが、先日の高級クッキーの香りが口いっぱいに広がる。突然の幸福に肩が跳ねて、もやもやしていた気分が一瞬だけ手品のように吹き飛ぶ。

( でも、はぐらかされたよね、これ… )

今はベレト達がいるから詳しく話せない、ということなのか。それともベレト達はいいけど私には話せない、ということなのか。

( ……味がしなくなってきた )

口いっぱいに広がるバターの香りが急に薄まってきた。もぐもぐと口の水分を吸い取る何かを咀嚼して飲み込むと、二枚目が目の前に差し出されてきた。

「……どうした?」
「…いらない」

首を振ってユーリスに背を向ける。
入口で駄弁ってる彼等に話を聞こう。クロードからも話を聞けたらと思った時、入口からひょこっと場違いに豪奢な金髪が現れた。

「先生、ここに…ん?」
「……え…ディミトリまでいんの?」
「どうしてリルメが…」

その問答は面倒になってきたので「私は教団の人間だから」と雑にディミトリに返す。クロードもエーデルガルトもいるならディミトリがいるのも不思議じゃないと無理矢理切り替えて、ベレトに視線を移した。

「それより、ベレト先生に用事?」
「あ、ああ…その、街を見回りしていて気付いたんだが……ここの住人達はあまり敵のことを知らないのだな、と思って」
「そういえば、あんまり不安そうな奴はいなかったな」
「…ふぁ…アビスの出入口から、居住区までは結構入り組んでたからね……今までは、ここに辿り着くまでに対処できてたんじゃない?」

クロードがディミトリに同調すると、やはりちゃんと観察していたらしいリンハルトがそう呟いた。欠伸なんかしているが侮れない人だ。

( リンハルトのこの推察も、賊退治の手助けを頼まれたことも、本当のことだとしたら )

ユーリス達はユーリス達で賊の始末をしていたのだろう。私が彼等の知らない所でそうしていたように、彼等も私の知らないところでそうしていて、ずっと互いに何も言わずにいただけ、という話。

( それをずっと続けて、いつか解決できれば、それはそれでよかったけど… )

しかし正直アビスの戦力は底が知れている。対する敵は正体もわからなければその底も知れないのだ。いつ住人に被害が及ぶかわからないし、それよりも先に、……数少ない友人がいなくなるかもしれない。

( それは嫌だな。……でも、彼等を巻き込むのも嫌 )

生徒は各国からの預かり物。ガルグ=マクの闇と呼ばれるアビスで浪費していいものではない。

「……ベレト先生、ちょっとついてきてくれます?」
「?わかった」
「どこに行くんだ?」
「気になるなら着いてこれば」

教室から出る際にエーデルガルトをちらりと見る。どこか困惑したようなコンスタンツェと、じっとこちらを見るエーデルガルトと目が合った。できれば彼女とも話したいのだが、コンスタンツェにとっては念願のお相手だから横取りするのはよそう。



「ベレト先生、アビスが地上で何て呼ばれてるか知ってます?」

居住区を歩きながら隣のベレトに問いかける。なぜかクロードとディミトリもついてきているが、ちょうどいいかもしれない。

「……汚ぇ地下街?」
「……バルタザールめ…」
「ガルグ=マクの闇とか何とか…」
「ま、そんなところです」

今日にいたるまでアビスの存在など知らず、ここに来てユーリス達と話して初めて認知したはずだ。ふらっと街を見て、地上の人間を警戒する住人と少し話したくらいでは、このアビスの姿は見えてこない。

「地上と地下は不干渉という取り決めもあって、普通の人はここを嫌煙します。一掃してしまえと言う人もいます」
「……」
「それに対して生徒は、各国からの大事な預かり物なんです。こんなところで何かあっちゃ、教団的にもアビス的にも非常によろしくない」

ここで次代を担う大事な生徒が損なわれればどうなるか。あなた方の大事なご子息が汚い地下街での諍いに巻き込まれて死にました、などと言えばどうなるか。少なくとも士官学校の評価は下がる。そして教団の面目が潰れたとしてアビスが本当に一掃される可能性は高くなる。

「一応、教えときますね。ここがアビスの出口です。生徒が危険だと思えば、すぐにここから出てください。アビスのことは口外せず、忘れてもらえると助かります」

そこのふたりもね、そう付け足してついてきたクロードとディミトリにも笑みを貼り付ける。

「待ってくれ、アビスは敵に襲われてるんだろう?」
「そうだよ。でもあなた方の手を借りなければ滅びる、というわけではないから大丈夫」
「だが、お前は困ってるんじゃないのか」
「困ってるよ。生徒を巻き込みかねない現状にね」

ディミトリが顔を顰めて口を噤んだ。彼は友人だからと気にかけてくれるのかもしれないし、弱者に優しいみたいだからアビスのような場所を放っておけないのかもしれない。

「……どうするつもりなんだ?」

じっと話を聞いていたクロードが、こちらを見定めている。

「…まだ、できることはあるんだよ」

睨むようにクロードを見返して答えると、クロードだけでなくベレトまでもが顔を顰めた。
どうか気分を害して、そのままここから出て行ってくれればいいのに。