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夥しい数の死体が転がっている。前線部隊はかなりの死闘を強いられたらしい。

( ……でも、みんな無事だ )

誰もが疲労困憊のなか、ひとり涼しい顔をして指示を出すベレトを見る。しかし誰よりも血を浴びている姿に、少し息を吐いて目を閉じた。

( ……しばらく私は動けないし、後は先生に…なぁんて、思ってもいいのかな…… )

これまでは任せるしかないと、もう後戻りではできないのだと、なし崩し的に妥協するしかなかった。
けれど、今は不思議と安堵さえしている。



ふと目を開けた。水の中で目を開いた時のような視界に、アビスの薄暗い景色と慌ただしく動く人影のようなものが映る。
しかし、何も聞こえない。

( ……"無理をすれば五感が閉ざされる"…シェン爺の言ってた通りなのかな… )

ぼんやりした視界と、カサカサと鼓膜が揺らされているだけの耳。手足の感覚も鈍く、温かさも冷たさも感じない。

( …でも、何かしら事件が起きていることはわかる。そういう空気な気がする )

薄らと聞き取れたのは「アルファルドさんを助けなければ」ということのみ。それ以外は何も聞こえなかった。
もしかしたらそれは、自分の声だったのかもしれない。







「リルメ」

落ち着いた、柔らかい声だった。

「リルメ……まだ寝てる?」

そっと目を開くとベレトがこちらを覗き込んでいた。視界は先程より明瞭になっているらしい。自分が目を開いたことにベレトはホッと顔を緩めた。

「ユーリスから魔力が枯渇したと聞いた」

さらりと、冷たい手が額を撫でる。慈しみを感じるそれはどこか懐かしいような、胸が痛くなるような……しかし更に奥深くのどこかでは喜びのようなものが沸く。それは恐らく自分のものではないけれど。

「初めて聞く症状だし自分にはよくわからないけれど、今は」
「…レ、ト先生」
「……どうした?」

彼の言葉を遮って名を呼べば掠れた声が出た。自分のものとは思えない弱々しさにうんざりしたが、ベレトの指先が頬にかかる髪を払ってくれると何故か安堵もする。
この人は相も変わらず無表情なのに、その目にはどうしてか気を緩めてしまうものがあった。だからだろうか、ぼんやりした頭のまま口ばかりが先走ってしまった。

「……少しだけ…その……昔の話を、聞いてくれますか?」

僅かに目を瞬いて直ぐ「もちろん、いくらでも」と頷いたベレトの、その表情に何故かやはり安堵した。



自分の持つ"リルメ"としての記憶の中で一番古いものは何だろう。他人から聞かされた昔話ではなく、明確に覚えているものは確か三歳頃のこと。

「初めての誘拐の時…だったかな。知らない人に、大修道院の外に連れ出されて、その時にいろんなものを見ました。後から思えば、このアビスのような……貧しく苦しい場所も、人間の醜悪な部分もあったと思います」
「……」
「どうせ教団には救えやしない世界だ、と言われました。だからお前を売った金で自分が彼等を救うんだ…って」

美しく整えられた大修道院の中で、聖職者に囲まれ大事に育てられてきた子供だった。それが初めて大修道院の外に出て、まず目にしたものが貧しさだった。ボロボロの服に薄汚れた体、髪も顔も痩せ細りただ地面に横たわるだけの人々。自分や周囲とはやたら違うものだ、ということに気付いた。

「……当時はほとんど理解できませんでした。彼等が怒っていたのだけはわかったけれど、彼等の苦しみはわからなかった」

そして、一日も経たないうちに私は騎士団に保護された。私は無事に怪我もないまま助けられたけど、誘拐犯は目の前で騎士団に殺された。それを見て泣いていた人もいた。
つられて泣く私を「よしよし怖い思いをしましたね、もう大丈夫ですよ」とあやす騎士に「ちがう」としか言えなかった。その時は何が悲しいのかもわからなかったが、怖かったわけではなかったことは、今でもはっきりと覚えている。

「……大修道院に連れ戻されて、身綺麗にしてもらって、暖かいご飯と寝床を与えられた私は、とても恵まれているのだと…幼いながらに理解しました」

少し転べば誰かが駆けつけて来て治療してくれるし、お腹が空いたと訴えれば食事の時間でなくてもこっそり甘やかしてくれる人がいた。擦り切れた服を着て汚れた場所で横たわる彼等と違い、清潔な服を来て清潔な場所で生きている。
こうして安定した衣食住を得ることが、どれだけ幸福なことなのか。それは教団の戒律を学ぶなかでも教えこまれた。世の中どれだけ学びたくとも学べない子供はたくさんいるのだから、学まで得られるあなたは幸運だ、と。

「可哀想な人の多い世の中で、私はいろんなものを持っている幸せな子供なのだ、と教えられました。とても"良い子"だったと思いますよ、教団にとっては」
「……あんな噂があるのはどうして?」
「簡単なことです。私が教団にとっての"良い子"ではなくなったから」

教団のことだけでなく、フォドラの歴史や文化、作法など、様々なことを学ぶ日々だった。遊ぶことなどはほとんどなかったように思う。

「様々なことを学んで、人に救済を齎しなさいと言われていました。……けれど、短慮な私は、戒律を暗記する時間があるならもっと実践的なものを学びたいと反発したのです」
「実践的なもの?戦い?」
「それは護身程度のものを教えられていたのでいいのですが…たとえば、貧しい土地の耕し方とか、植物の毒の有無の見分け方とか、……要は食べ物に困る人々が食べ物を真っ当に得る方法、とかですね」

住む場所に困っているのなら金を得る方法を、害獣に悩まされているのなら害獣避けの作り方を。そういった生活に密着した知識は、温室の管理人や食堂の料理長が時々教えてくれた。それらを、もっと学びたいと思ったのだ。

「女神に祈っても金は降ってこない、人を救うのは人だ、…と言う私を、教育係は酷く叱りました。これまで私を持て囃していた周囲にも怒られました。それで不貞腐れた私が逃げ出し、偶然にも辿り着いたのが、ここ…"アビス"なんです」

小綺麗な格好をした子供が迷い込むべき場所ではない。手癖の悪い人間に身ぐるみを剥がれる可能性もあったし、喧嘩に巻き込まれて怪我をする可能性もあった。けれどアビスには以前より"灰狼の学級"があって、アルファルドがここを支援していたのだ。

「……当時の灰狼の学級に保護され、アルファルドさんも私の滞在を了承してくれました。ここは貧しく苦しい場所だったけれど、アルファルドさんが管理するようになって変わったのだ、と…住人から聞きました」
「……」
「素晴らしいことだと思ったのです。信徒の前で偉そうに教えを説くよりも、住人同士の喧嘩を治め、住人に笑顔で語りかけるアルファルドさんの方が、よっぽど」

教団は救いを齎すだの何だのと言っていたのに、地下にこんなものを隠していたとは…という幼さゆえの怒りもあった。実際にアビスの住人は「教団ではなくアルファルドさんに救われたのだ」とも言っていた。各地から逃げ場を求めてアビスに辿り着いた者も多く、ここならば教団が教えてくれないこともたくさん学べた。

「自分の望みに従え…と、ここの住人に教わりました。ただし考え続けろ、とも」
「……」
「その結果が不精姫ですよ。何も後悔していないんで、いいですけどね」

教団の言いなりにはなりたくなかった。教団の望み通りに育っていれば、私は陽の当たる場所しか知らないままだっただろう。

( ……やば、眠くなってきた )

思わず目を閉じると急に意識が遠のきかけた。どうにか目をこじ開けてベレトを見ると、再びその輪郭がぼやけてくる。

「……話が逸れました…本当に言いたいのはね、不信心な私であってもアルファルドさんが受け入れてくれたから、私にはアビスがある…ということ」

私が望むなら庇護するからと大司教にも掛け合ってくれた。教団の人間なんてと煙たがるアビスの住人達を説得してくれた。
だからこそ私は、アビスでたくさんの知識と経験と…友人を得られた。

「私には、ここしかない」
「……」
「…だから、アルファルドさんを…絶対に、」

ああ、そうだ。幼い頃、倒れた私の額を撫でてくれたのはアルファルドさんだった。それを思い出し、あれはもう二度と訪れない安寧だったのだと感じた瞬間、ふっと視界が暗転した。



「……………リルメ?」

言葉が途切れ、瞼を下ろした彼女に首を捻る。口元に手を翳せば呼吸は安定していた。

「……先生、リルメは寝たのか?」

息を潜めて待機していたクロードが呟く。それに「たぶん」と告げて振り返れば、クロードだけでなくエーデルガルトとディミトリも詰めていた息を抜くように吐き出した。

「……今の話、俺たちが聞いてもよかったんだろうか」
「私たちの存在に気付いてなさそうだったものね……クロードが引き止めなければ、出ていてもよかったのだけれど」
「まあ、そう言うなよ。機密らしきものはさすがに喋ってなかったから大丈夫だろ」
「また貴方はいい加減なことを…」

エーデルガルトの呆れた声がピタリと止まる。リルメが身動ぎしたようだ。

「………」

少しすれば静かな寝息が聞こえてきた。
三人に目配せをすれば頷き返されたので、ベレトは一度だけ振り返ってリルメの部屋から出た。

アビスにはリルメの使う部屋がいくつかあるらしい。休息用と執務用、あとは用途不明の立入禁止部屋が複数、ということだった。幼い頃から出入りしていたのなら、まあそれも可笑しなことではないのだろうと思う。

「……結局、聞きそびれてしまったけれど…」
「だが、あの賊はリルメと何ら関係はないと思う」

封印の谷から帰還する際に現れた賊。まるで自分達が宝杯を手に戻るのを待ち構えていたように思えたことから、クロード達は内通者の存在を探っていた。コンスタンツェの推測もあったためだが、灰狼の学級の者達とは違う、ある種客観的な目線で考えることも必要だろう…と三人はベレトと話し合っていたのだ。
そして思い浮かんだのが、封印の谷に向かう前にリルメが言っていた存在 "ロック婦人"だった。リルメは彼女自身の考えた策の為、ロック婦人に傭兵を手配したと言っていた。

「……わかってはいたが、リルメが宝杯を狙う理由はなさそうだったな。話を聞くにアルファルドさんのことも、どうこうするわけがない」
「ええ、彼女にとっても恩人…のようなものなのでしょうね。それで、ロック婦人とやらはどうなのかしら?」
「アビスの住人は変わり者の商人だと言っていたな。アルファルド殿とは別の意味で神様のような人だ、ともな。クロードも聞いただろ?」
「ああ。こう言っちゃ悪いが…アビスは金払いがいいとも言えないうえ、不浄とされる街だ。そんな所と格安で取引してくれるらしいからな。物好きだ何だと言ってはいたが、みんな感謝しているようだったぜ?」

商人というのは損得勘定に厳しい世界で生きていく者だ。対等な取引を望み、何かを与えたからには相応な何かを得なければ気が済まない者達。善意で何かしらを施すことなどしない。そして体裁も気にするため自身の評判を下げそうな場所には近付かない。

「ロック婦人は何故ここに肩入れするんだろう」
「それはな、どうもアビスに惚れた男がいたらしい。そいつはもう死んじまったが、晩年を過ごしたアビスを見放せないんじゃないかって門番は推測していた」
「貴方……そういう聞き込みは得意なのね」
「お褒めに預かり光栄だ。だが、ロック婦人も商人だからな。高額になりそうな宝物を狙ってないとも言い切れない」
「リルメの思惑とは別で動いてる可能性もあるということね……」
「……手詰まりだな。後は大司教殿とどういう話になるかによって、俺たちの動き方も決まるだろう」

ディミトリの言葉に頷いた時、ふとエーデルガルトがアビスを見渡した。どうしたのだろうかと見ていれば、エーデルガルトは少し思案して口を開いた。

「………このアビスは、様々な可能性を秘めているのね。病や貧困に喘ぐ者だけでなく罪人や元貴族、果ては異郷の者までいる…つまりそれだけ多様な人間達の人生がここにある」
「教団では得られない多くの知識を、リルメは彼等から学んだんだろうな」
「彼女の思想もここて育ったのかもしれないわ。女神の救いを否定し続けるのも、大修道院ではきっと大変なことよ」

人を救うのは人…とリルメが言っていたことを思い出す。教団と関わらず信仰というものを理解していない自分にとっては、当然の思想……なのだが、大修道院では違うらしい。その思想を責められる窮屈さを思えば、アビスの寛容さは確かに得難いものだろう。

「あの馬鹿げた威力の魔法も、ここで教わったのか…」
「クロード、そんなに凄かったのか?確かに物凄い音がしたが…」
「ああ、先生は見てなかったな」
「あれはもはや天災よ。あんなものを放っておいて……腰が抜けたなんて嘘、よく言えたものだわ。力尽きていただけじゃない」

少し苛ついているエーデルガルトと「まあ、あんなこと…もうさせるわけにはいかないよな」と呟くクロードは何を見たのだろう。

( ……リルメの大事なものは全部守ると言ったのに )

肝心のリルメがあの状態だと自分が情けなくなる。クロードによると想定の難しい人形の動きに備えて、彼女は魔法を使ったらしい。あれを居住区に連れて行かないため、そしてアビスの造りを崩壊させないためだったのだと。
コンスタンツェは危険な魔法だと言っていた。魔力を一気に練り上げて放つそれは、身体にも相当な負担がかかるようだ。

( そのうえアルファルドまで……彼は絶対に取り戻さなければ )

無事に彼を取り戻し、ユーリス達もアビスも守りきれば、リルメは安心してくれるだろうか。

( ……ここしかない、なんて…言わせずにすむだろうか )