35


ふと目が覚めた。
蝋燭の弱々しい光に照らされた天井が見える。アビスの子供に貰った絵が、ぼんやりと映った。

「……うーん…」

じっと目を凝らしては閉じて、目を見開いては閉じて……、そんなことを繰り返すうちに、絵がはっきりと写るようになってきた。
次に布団から手を取り出し、握って開く。少し指先が痺れたがそれはつまり感覚が鈍ってはいないということだ。その指先で耳元をトントンと叩けば、冷たさにひやりとする。耳の奥がカサカサとはしなかった。

( ……だいぶ回復したな )

ゆっくりと身体を起こして状態を確認してみる。残念ながら戦闘で役立つことはまだできそうにない。

( でも、現状くらいは把握しておきたいな )

宝杯を手に逃げた辺りから記憶が曖昧だ。ユーリスに後で覚えてろよと言われた記憶はあるが、それ以降は目も耳もあまり機能していなかった。アルファルドさんを助けなければ、と聞こえたような気はする。そして何故かベレトに昔話をしてしまった気も。

( ……まあ、それはいいや。そんなことより…今、何がどうなってるのか確認しないと )

ここでじっと寝ていても事態は知らぬ間に過ぎていくだけだ。重い体を叱咤して寝台から降りると、自分の足に躓いて膝を強かに打った。

「……何やってんだ、お前は」
「……こけた」
「見りゃわかるっての」

いつから部屋にいたのだろう。呆れたように息をついたユーリスの存在に内心ビビりながら、されるがままに助け起こされる。じんじんと痛む膝に力を入れようとすれば、ふらりとよろめいた。

「こんな有様でどこ行くつもりだ?大人しく寝てろよ」
「や、ちょっろ現状が気にゃっ……」
「……噛みすぎだろ」
「………むぅん…」

毒は治まったはずなのになあ、そんな呟きも呂律が回らず口の中でへちゃげた。こうして喋ると唇まで少し痺れてきた気がする。

「……今の状況は説明してやるから、とりあえず座れ」

唇をむぐむぐしていると、寝台に腰かけさせられた。そして正面に立ったユーリスがこちらに手を伸ばして、硬い掌で頬をがしっと覆った。

「冷てえな、お前の顔……顔周りが固まってんぞ」

ユーリスの硬い指先が頬やこめかみをほぐすようにぐりぐりと動く。ぎゅっと指圧したり優しく撫でたりするその手は、温かくて気持ちいい。……のだが、少し気恥しいので、眉を寄せて不服を訴えておく。

「こうすりゃさすがのお前もブサイクになるな」
「ぁんだと…」
「"枢機卿アルファルドの身柄は預かった"」
「…?」

突然の芝居がかった声。少し目線を伏せてユーリスは淡々と言葉を続けた。

「"今のところ身の安全は保障しよう。助けたければ、宝杯を持ってこい。明日の夕刻、旧市街の礼拝堂跡で待つ。ただし、騎士団を連れてきた時には枢機卿の命はないと思え"」
「……」
「俺たちが宝杯を取りに行ってる間に、賊が押し入ってきてアルファルドさんを攫ったらしい。街の連中に大した被害はなかったが、こんな置き手紙されて内容が広まっちまったせいでアビスは大混乱さ」

むにむにと私の頬を揉みながらユーリスが溜め息を吐く。

「お前は全く混乱してないな?」
「……うっしゅ…ええいやめろっ……薄らだけど、助けなきゃって聞こえたから」

ユーリスのマッサージが効いたのか、先程よりは噛まなくなった口に感心した。舌がもたつく感じがして威厳がなくなったので、その代わりにユーリスを睨み上げる。

「……ベレト先生達と、みんなで行くんだね?指定された時間に、指定された場所へ、宝杯を持ってのこのこと」
「拗ねてんのか?」
「べっつにい。教団には報告したの?」
「ああ、大司教にも掛け合ってきた。危うく至宝の封を暴いた罪に問われるとこだったぜ…」
「うわ、やっぱり言われたか……でも、アルファルドさんと引き換えにできるなら、教団にとっても手放していいものってことなのかな…」

バルタザールには「全部知ってる」などと大見え切ったものの、実際に全てが明らかになっているわけではない。ユーリスが先程告げた置き手紙の内容を思い返して、ふと首を捻る。

「場所は……礼拝堂跡、だっけ?」
「ああ、それがどうした?」
「……もし、そこで待ち構えてる賊が大人数なら…、教団の人間が手引きしてるかもね」

礼拝堂跡地は今は使われていない寂れた場所だが、それでもガルグ=マクの城郭内にある。西方教会の件もあって警備が強化されている現在、多数の不審者がほいほいと入れる場所ではないはずなのだ。
アビスは至る所に出入口があるので賊はほいほい入ってきてしまうが、それでもガルグ=マクの敷地内にある出入口から賊が入ってきたことはないので、警備に問題があるとも考えにくい。

「……教団の人間?」
「宝杯の存在を知ってて、アビスにネズミを送り込める敵だよ?教団関係者と考える方が自然な気がしてきたな」

そう思わない?顔を覗き込む私を視界に入れないような角度でユーリスが目を伏せる。考え込むような表情も長い睫毛も綺麗だけれど、とても気に食わない。

「……心当たりはあるのか?」
「んー……嫌いな人ならいっぱいいるけど、こんなことができそうな人間は正直あんまり、ねえ……とりあえず上で情報探ってくるよ」

そう言って立ち上がろうとすれば、眼前のユーリスにさっと肩を抑えられた。

「……後で覚えてろよって言ったよな?」
「……うん?」
「とぼけんな。お前…魔力枯渇がどんだけ危ねえ状態なのかわかってんのか?シェン爺が散々言ってだろうが。下手すりゃ五感が戻らねぇ可能性もあるって」
「…えっと…」
「そのうえあんな狭い地下で馬鹿げた魔法を使いやがって…地下が崩落したらどうしてくれんだ、ああ?」
「……あー、ごめん。その反省は後で、」
「今、寝ながらしろ馬鹿!」
「嫌だ!反省は歩きながらでもできるでしょ!」
「誰が歩かせるか!どうせ毒も治りきってねえんだろうが!」
「…治った!」
「嘘つけ」

とんっと肩を押されて視界がくらりとする。咄嗟に寝台に着こうとした肘を取られると呆気なく転がってしまった。

「……ちょっとお…」
「こんな状態のお前を出すわけにはいかねえな」
「別に戦う予定はないけど…」
「お前にその気がなくても敵は勝手に寄ってくんだよ」
「……敵?」

ぐっと腹が重くなったかと思えば、ユーリスの顔が眼前に降りてきた。鋭い藤色の瞳に目を瞬いていると、首にするりと圧がかかる。

「何、を……っ」

先程まで私の顔を揉みほぐしていた指先が、今は私の首を掴んでいた。

「言えよ。お前が知ってること、全部」
「………ユーリス?」

何だ、急にどうしたのだろう。まるで刃物を手にしていそうな低い声で、射抜くような強い目で、腹に乗りかかっている。首を絞められてはいないが緩く圧もかかっていた。

( ……真剣なのは、わかるけど… )

瞳と同じ藤色の髪と白粉が香って、そんな場合ではないはずなのに「ほう…」と感嘆の息が零れる。

「……やっぱり綺麗だよね、ユーリス」
「そんなことを聞いてるんじゃねえ」
「でも、ずるくない?ユーリスだって何も言わないし嘘つきなのに」
「……俺様がろくでなしなのは否定しねえよ。だが、嘘ってのは何のことだ?」
「さて、何のことだろうね」
「この状況でその態度が通用すると思ってんのか?」

首を掴む指先に力が込められる。じわじわと締め付けられて少し苦しくなってきた。

「……もう時間がねえからな、手荒くしちまう前に話した方がいい」
「話すって言っても…だいたいのことは話してると思うけど」
「全部知ってるって言ってただろ」
「それは、ちょっと盛ったかな」
「盛った?何の為に」
「皆の反応を見るためだよ」

眼前にある藤色の瞳が冷たく細まる。こちらを探ろうとしているのか、ただ私の返答が不快なのか。よくわからないし、どうして首を絞められているのかも正直よくわからない。ユーリスは今、私の"敵"なのだろうか。

「今の状況、本当にわかってんのか?」

さっきまで私の顔を揉みほぐしてくれていた指先は、温かいままなのに。どうして私は苦しいのだろう。

「……話さないと…殺す?」
「さあ?こっちもいろんなモンがかかってるんでね、最悪そうなるかもしれねえ」
「………そう」

じわりと更に圧をかけられて首が痛む。
殺すという言葉を否定されなかったことが酷く悲しい。胸が重くなるまま溜め息を吐こうとして、うまく空気が通らずにまた悲しくなった。

( ……ユーリスは何も悪くないと、それだけはわかっている )

今ユーリスがこんなことをしているのは、お互いの思惑も動きも把握できてないからこその摩擦だと、ちゃんとわかっている。
けれど、どこで敵に情報が漏れるかわからない以上、灰狼の学級の皆と協力し合うわけにはいかなかった。アビスや教団に内通者がいる可能性はずっと考えていたから、私は誰にも行動を掴ませない第三者でなければいけなかったのだ。
ユーリスにこうして脅されることくらいは想定内…のはずなんだから、いちいち悲しんでいる場合ではない。

「……ひとつ、確実に言えるのは、」
「……」
「ロック婦人はユーリスを気に入ってるってこと」
「…は?」
「"ユーリスが死ぬかも知れないから助けて"って報せたら、すぐに"任せておきなさい"って返ってきたの」
「おい待て、その報せはいつ…」
「ロナート卿の反乱があった頃かな。その後はロック婦人から報告来てないけど、でも、大丈夫だって伝言はされた」

ユーリスの異変を嗅ぎ取りロック婦人に報せたのは一節以上前のこと。アビスに賊が入り込んでいることを報せたのは最近だが、婦人は恐らく私が知る以上のことを把握しているはずだ。
そのことはユーリスも想像がついたのだろう。僅かに動揺しているのか、ユーリスが私の首を掴む力も弱まっていた。

「ユーリス」

少しだるい腕を持ち上げてその顔に手を伸ばすと、びくりとユーリスの肩が震えた。それに構わず指先だけでその白い頬に触れる。
先程のような鋭い目も非情な顔も別に嫌いではない。だけど、こうして素直に目を丸くしているユーリスの方が可愛らしくて、

「……好きだよ」
「!?」

ビシッと顔の固まったユーリスに少し笑う。

「ロック婦人だけじゃない。バルタザールやコンスタンツェやハピだって、みんなユーリスが好きだし大事だよ」
「……」
「私も、アビスのみんなが大事だ。私ができることは多くないけど、どんな無謀なものでも、夢や願いがあるなら何だって手伝いたい。……みんなだけじゃなくて、みんなが大事にしてるものごと守りきりたいんだよ」

知っていること全ては話せない。けれどそろそろ、本当に思っていることくらいは言ってもいいだろう。
そんな気持ちでユーリスの頬を撫でて「もっと慈しむことができたら」などと、らしくないことを思った。堂々と諸手を挙げて守ることはできない人達だから、私自身そんなに器用なわけでもないから。だからこんな風にしかできないけれど、私は彼等を大事にしたいのだ。

「……ユーリスは、私達のこと、好きじゃない?」

撓垂れた藤色の髪を耳にかけてやりながら問えば、ユーリスはぐっと顔を歪ませて溜め息を吐いた。

「う!?」

仰向けに転がる私にユーリスがぐしゃりと落ちてきた。片腕で支えているようだが、ほぼほぼ全体重をかけられている気がする。

「お、重…いん、だけど…」
「……うるせえよ」

耳元で掠れた反論が聞こえた。髪に顔を埋められているので首元がくすぐったい。
私の質問には答えないまま体重をかけてくるユーリスは、やはり私を苦しめる敵には見えない。首を絞めて脅してこようとも、ユーリスは結局絆されやすかったりするのかも。

( ……大型犬…いや、一匹狼が懐いてきたみたい、な… )

そう考えてみるとそれはそれで違うような気もしたが、なんだか笑えた。仕方ないから私が大人になってやろう。

「大丈夫だよ、ユーリス」
「……何が」
「何もかも、かな」
「大雑把すぎるだろ」
「そうとしか言いようがないもの。とにかくユーリスは、自分達のことだけ考えてればいいよ」
「……」
「コンスタンツェも、バルタザールも、ハピもみんなまとめて守ってくれるなら……ユーリスのものは全部、私達が守るかりゃっぁ!?」
「この馬鹿」
「え、ちょ、耳噛んだ?」
「お望みなら歯型でもつけてやろうか?」
「は?なに急に怒ってんの?」

ゆったりと顔を上げたユーリスは、至近距離からこちらを睨みつけてきた。ユーリスはどんな角度から見ても美しい顔をしているけれど、その冷ややかな目には戦かざるをえない。困惑したまま見ていれば、ゴンッと額をぶつけられた。

「ったあ……もう、何なのさっきから」
「リルメ」

額を合わせたまま呼びかけるユーリスに思わず口を噤む。互いの息がかかるような距離は、もはや目の輪郭すらはっきりしない。少し視線を下げればスっと通った細い鼻梁と薄く紅の引かれた唇が見えた。

「………………………」

薄紅の唇が象るそれを目で追い、言葉の予測をつける。当たっているかどうかはわからないが、ひゅっと喉を鳴らした私に、薄紅の唇が弧を描いた。
そして顔を離したユーリスは私の手を絡め取ると、寝台に押し付け睦言のように囁く。

「続きは、今夜……聖廟でどうだ?」
「………………罰当たりにも程があるよ」
「はは、罰が当たらねえように、ここで祈っててくれ。……そうだな、夕刻くらいまでは」

ユーリスがたいそう艶かしい笑みでカッコつけた途端、ガチャリと戸の開く音がした。
ヒルダの絶叫とコンスタンツェの怒声が響いたのは、数秒後のことだった。