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アビスの番人や住民達に「書庫へ籠る」と告げて、書庫の上階へと登っていく。

既に日が暮れてきたらしく、アビスの食堂では「今日も酒が不味い」と言いながらも懲りずに晩酌を始める者達がいた。彼等と不味い酒を分け合いつつユーリス達の健闘を祈り、アルファルドさんが心配だと涙する者の肩を叩き、不穏な現状から目を逸らすように喧嘩を始める破落戸を制裁…仲裁し、アルファルドが攫われた際に怪我を負った者達を見舞う。こんなものは全部、アルファルドが当然のように行ってきた他者への気遣いだ。
優しく微笑んで「もう大丈夫ですよ」と、全てを受け入れてくれた神様のような人は、それでもやはり人間でしかなかった。

ヴゥン

コンスタンツェお手製、不完全な傑作を通路に起動しそこから先を封鎖する。本棚の横にあるタペストリーを捲り、転移陣を薄暗い宙に描いた。




「大司教」

執務室に一礼して踏み入り、眉を顰める。いつもは穏やかな笑みで悠然と振り返るのに、今の大司教はどこか落ち着きがない。

「……ああ…リルメ。身体はもう良いのですか?ベレト達から魔力枯渇を起こしたと聞きました」
「問題ありません。それより、あまり良い状況ではなさそうですね?今は礼拝堂でアルファルドさんと宝杯を交換しているはずですが…」
「それは……」

口篭る大司教の表情に、これはまだ口を割りそうにないと察する。ベレトを教師に任命した時はでっちあげのような理由を偉そうに述べていたくせ、こういう時はやたらと慎重になるのだ。

「……ところで、宝杯はよかったのですか?正直、あの封印を解いたら罰せられるかと思っていました」
「その件については不問にします。所在が掴めたことで、こちらにも得られるものが多くありますから……それにアルファルドが"戻る"なら、惜しくはありません」
「……」

アルファルドは枢機卿だ。大司教にとっては血を分けた子供のようなものだと理解している。

「…それと、例の婦人から報せが」
「……婦人は何と?」
「いつでも制圧可能だ、と」
「では、夜中に奇襲をかけてもらいましょう。今夜、全てが片付くそうなので」
「!わかりました。では、そのように」

アビスでの"休養"を言い渡される前、大司教と打ち合わせた内容を思い出す。アビスの現状や様々な者達の思惑を、大司教とだけは擦り合わせてきた。
決して仲のいい養母と養子ではないし、考え方も気も全く合わないが、だからといって今回だけは「仕方がない」と妥協することも放置することもできなかった。アビスは大事な場所なのだ。だからこそ、どちらかと言えば苦手な相手である大司教と交渉して、多くの推測や仮定を述べて計画を立ててきた。宝杯を得ることについてはコンスタンツェの望みもあって計画が狂ったが、最優先は彼女の夢なのだからそこはまあいい。

( 大事な彼等の願いのためだ。自分の我儘なんて取るに足らないもの、いくらでも飲み込もう )

今回の件は、着地の仕方にもよるが、無事に片付けば報酬もある。既に交渉済みだ。
それを得るためだと割り切って、その後もいくらか決着までの策について大司教と議論を重ねた。

「猊下!」

どれだけ話し合っただろう。こんなに中身のある話を長時間したのは初めてかもしれないと感心するような一時だった。

慌てたように執務室へ駆け入ってきた司祭の報告に、思わずガタッと音をたてて立ち上がる。大司教とパッと視線が合いどちらからともなく外へと踏み出す、その連動に場違いながら不思議な感慨を覚えた。




何も知らない生徒や修道士達の手前、上品にかつ足早に大司教は歩く。そこに護衛の騎士と私が続く一団は威圧感でも放っているのか、誰も大司教に手を振ったり声をかけたりすることなく遠巻きに見ていた。

そうして体裁を気にして歩いてきたせいか、礼拝堂跡に着いた時には既にアルファルドやユーリス達の姿がなかった。ベレト達は皆無事なようだからそこだけは安心だが。

「ベレト……!ああ……間に合いませんでしたか……」
「大司教殿にリルメ?どうしてここへ?」

エーデルガルトの問いかけに、重たく口を開こうとする大司教を手で制した。

「大司教、ここは私が説明します。私の口にすることは全て…アビスで知れる内容だと思ってお聞きください」

これを機にアビスの書庫管理についても話し合うべきだと大司教に感じてもらおう。大司教が小さく頷いたのを確認して、ベレト達を見渡した。

「ベレト先生、ユーリス達から四使徒の紋章については聞いたんですよね?」
「…四使徒の…その、失われた紋章を彼等が持ってるという…?」
「そう。あの4人は、かつて宝杯の儀を執り行った四使徒と同じ大紋章をそれぞれが持っています」

これは私もついさっき知ったことだ。士官学校に入学する際に紋章が判明したバルタザールはさておき、他の3人は綺麗に改竄されていた。

「ただ失われたはずの紋章が発見された、というだけなら良かったんですけどね……宝杯の儀は、始原の宝杯に四使徒の血を受けることから始まるものなんです」

その血は失われたものとして歴史から消えたはずだった。だから宝杯など誰が手にしても真価を発揮することはないと決めつけていたのだ。どこへ行こうと構わない無用の長物だ、と。ここが私の第一の誤算。

「四使徒はもうこの世に存在しませんが、それと同じ紋章を持つ4人の血は今ここに揃ってしまっています」
「まさか…アルファルド殿が、彼等の血を使って宝杯の儀を再現できる可能性があると……?そもそも宝杯の儀とは、一体、何の儀式なんだ?」
「あれ?ディミトリ達はアルファルドさんから聞いてないの?」
「命を呼び戻す儀とは聞いているんだが、荒唐無稽な話だとも言われてな。実際に何が起こるかはさっぱりだ」
「荒唐無稽、ね…」

なるほど、アビスで神様のように人をたらしこんでいただけある。人心操作に長けた者の言い方だ。
アビスで彼の行いを少し真似てみただけでも憂鬱になったのに、その言い分を聞けば渇いた笑みまで零れた。

「……宝杯は、女神が創り出した神器らしい。傷つき、失われた肉体を癒やすため…と書物にはあったけど……、それは恐らく死者を甦らせるものではない」
「どういうこと?人間が肉体を失うのは死ぬこと同義だよね?その肉体を癒せるなら、死者を蘇生するってことじゃないの?」
「これはそもそも人間のためのものじゃないんだよ、リンハルト」
「……それって、」
「始原の宝杯は心と魂を残す、滅んだ肉体にのみ有用な神器。元々は女神を呼び戻すためのものなんだよ」

私の言葉に全員が目を丸くして静まり返った。女神を呼び戻すなんて信じ難いことだろうが……と思いかけて、クロードの「意外だな」という呟きに首を傾げる。

「……悪い、不信心者と呼ばれるリルメの口からそういう言葉が出るとは思わなくてな」
「ちょっと、クロードくん!」
「あー…なるほどね。私は女神が存在したことは信じてるよ。信仰心がないだけで」
「えええ…レア様の前でそれ言っちゃうの、リルメちゃん…」
「今更だからいいんだよ。女神はね、肉体こそ朽ちて存在しなくなったけど、空から見守っているという信仰は残したでしょう?その信仰とフォドラにあるいろんなあれこれは、女神が心と魂をこの世に残しているという証拠でもある」
「あれこれって何よ」
「フォドラにはあってフォドラの外にはないもの、とかね。ブリギッドと親交のあるエーデルガルトならわかるんじゃないかなあ」

私の言葉にエーデルガルトがじっとこちらを見返した。探るようなその視線には見て見ぬふりをしておく。

「……ま、つまりね、宝杯の儀は死者を蘇生させる儀式ではなく、女神を呼び戻すための儀式なんた。けれど、かつて四使徒が執り行った宝杯の儀は失敗に終わり……始原の宝杯を封印した四使徒は、その紋章を誰かに与えることなく姿を消した」

…と、書物には書いてあった。
私の説明にそれぞれが首を捻ったり頷いたりしているなか、アッシュが遠慮がちに「…ひとつ聞いてもいいですか?」と手を上げた。

「その…四使徒は、宝杯の儀をやり直さなかったんでしょうか?自分達の血を使ってでも女神様を呼び戻したかったんでしょう?」

アッシュの声はどこか切実だ。先日討たれたロナート卿は彼の養父だったと聞いているので、思うことがあったのかもしれない。

「確かにな……女神様がせっかく作ってくれた神器なんだろ?一度使って失敗したからって、封印までする必要があったのか?」
「しかも、あんな怖い仕掛けまで作って……やだ、思い出したら鳥肌立っちゃった」
「……まあ、その疑問を持つってことは薄々気付いてるんだろうけどね」

書物には簡単に「失敗した」としか書かれていなかった。けれど失敗というのは、ただ望んだ成果が得られなかったということだけではないだろう。

「明確な表記はなかったから予想に過ぎないんだけど、たぶん失敗というより……」
「リルメ」

私の言葉を遮るように、大司教が圧のある声で私を呼んだ。……どうやら喋りすぎているらしい。

「……憶測でものを言うなとお叱りを受けそうなんで、かつての失敗については聞かないでね。……で、えっと…大司教がここに来た理由だったか。それは、ユーリス達を利用して儀式が行われる可能性に気付いたからだ」

正確に言えば、その儀式の危険性を察したから。

「……今回の件は、宝杯を彼らに託してしまった私の落ち度です」
「断じるのはまだ早いですよ、大司教。そういうのは決着がついたあと、一人で女神に懺悔でも何でもなさってください」
「……何か策があるのか?」

ずっと黙っていたベレトのその問に、少し思案して薄く微笑む。ここまできたのだから、もう彼等には全て話してもいいだろう。

( ……こうなった今でも本当ほ生徒を巻き込みたくない、なんて頑なに思ってしまう… )

だけど、もう彼等がいなければ勝てないだろうと……大事な友人達を取り戻せないだろうとも気付いているのだ。