錆びた扉を押すような、あるいは重い鎖を引き摺るような、高く耳障りな空気の音。
こちらに向けられた暗い光が、きぃんっと耳鳴りを起こす。

( ……どうして… )

様々な感情は声にもならず、息だけがひゅうっと喉に詰まる。迫り来るその暗い光はやけにゆっくりと視界を埋めていき、次第に目眩がしては力が抜けた。全てを見失うかのような、そんな真っ白さに溺れていく。

「リルメ!」

自分を呼ぶ誰かの声は、水の中から聞く遠さだ。きぃんっと鳴る金属音だけが明瞭で、頭を鋭く締め付けた。
水に溺れたように視界は白く揺らいで、呼吸は息苦しい。ぐらりゆらりと畝る水面の上で、何か混沌とした渦のようなものが弾けて、その暗い光の残照に目の奥がチカチカと明滅する。
そのまま水底の深くに引き摺り込まれるかのように、じわじわと暗転した世界は、様々な一瞬を過ぎらせた。



( 一年で最も幸福で楽しい日になるはずだった )

片手で数える程も経験していないのに、その日が一番たのしいことを私は知っていた。美味しいものが食べられて、素敵なものが貰えて、いろんな人に「おめでとう」と頭を撫でてもらえる。その日ばかりはたくさん我儘を言っても怒られなくて、両親と手を繋いで大好きなケーキを受け取りに行くのだ。

( ……白いクリームのレモンケーキ… )


きぃん。

高く耳鳴りな音にひゅっと息を詰めた。次の瞬間には、可愛らしい箱に入ったケーキが落ちて溢れていた。
ぐしゃりと潰されたスポンジから蜂蜜が香って、思わず伸ばした手は、恐ろしく冷たい手に掴まれる。あの一瞬の、ひらりとケーキを覆い隠した黒衣と、命を摘み取られる悲鳴。唐突に幸福を奪ったあの暗い光は、耳障りな音をたてて告げた。

『 次はお前達の番だ 』





「おいっ、大丈夫か?」

不意に肩を掴まれて、身体が跳ね上がる。思わず振り払うように腕を上げると、無様にも尻餅をついた。

「…リルメ?」

僅かに残る耳鳴りの向こうから、案じるような声がした。そっと目を開けて見上げてみれば、鮮やかな木々の緑と、健やかな美しい翡翠の瞳があった。

「……クロード…?」
「どうした…、真っ青じゃないか」

心配そうに顰められた顔を見て思わず瞬くと、目の奥の明滅と耳鳴りが消えた。

( ……そうだ、今は模擬戦の最中だった… )

ふっと浅く息を吐いて緩く頭を振る。

( あれは過去で、幻想だ )

思い描いていたものを掻き消すべく周囲を見渡して、ここまでの流れをしっかりと思い返してみた。


緊張と高揚を感じながら、この模擬戦は始まった。
開始早々に仕掛けてきたのは黒鷲の学級アドラークラッセのフェルディナンドだ。級長の意図を汲まない身勝手な彼を補佐をするべくドロテアも遣わされた。それを皆が対処している間、私は青獅子の学級ルーヴェンクラッセのアッシュを付かず離れずの距離で足止めしてきた。そして黒鷲の二人が撤退すると同時に、アッシュに詰めて撤退へ追い込んだ。

しかしその際に深入りしてしまったのか、当初の予定では森を迂回して黒鷲の学級から片付けるはずだったが、中央から青獅子の学級を釣ってしまいこちらを先に対処しなければならなくなった。けれどベレトは、黒鷲は味方が減った以上、級長のエーデルガルトは好条件な現在地から離れないだろうと予測し、狼狽えることなく方針を切り替えた。私が森に待機し青獅子級長のディミトリと対峙すると、ディミトリ目掛けて弓がびゅんびゅん飛んできた。しかし暫くすると止んだので、恐らく弓兵の対処をするためにドゥドゥーとメルセデスはそちらへ行ってしまったのだろう。クロードとイグナーツが弓で援護しつつ、ローレンツと凄腕傭兵のベレトが相手となるのだ。単純な数の差もあってか二人は撤退となる。あとは私と皆に挟撃されたディミトリや、孤立していたマヌエラを囲むだけだった。

( …ディミトリ…青獅子の級長の攻撃は、受けたら骨が折れそうだった。それをひたすら避ける持久戦をしたことは、はっきり覚えてる )

けれど、残った黒鷲の学級の元へ向かった時。好条件な立ち位置からエーデルガルトとヒューベルトを引っ張り出す餌役となって……ベレトはエーデルガルトを、私はヒューベルトを釣ったはずなのだ。
釣ったのは、黒鷲の学級の…生徒のひとりのはずだった。

「おい、本当に大丈夫か?」

ザッと、冷水を被ったかのように青ざめた自分に気付いて首を小さく振る。
今は模擬戦の最中で、それはまだ終わっていないのだ。

「……ごめん、立ち眩みしただけっぽい。大丈夫だよ」
「…さすがに無理させたか?」

現状では肯定も否定もできず曖昧に微笑む。翡翠色の目を微かに眇めたクロードは、しかし窺うように顔を傾けてこちらに手を差し出した。

「お前のおかげで俺たちの勝利は確定したようなもんだ。…当然、決着にも立ち会えるよな?」
「……みんなの、強いて言えば指揮をとった先生のおかげだよ」

クロードの手を取り力強くぎゅっと掴めば、少し不安げな笑みが向けられる。そういえばリシテアもどこかで見ているはずなのだと思い出し、ぎゅっと口角を持ち上げた。



「え、なにこれ膝痛い」
「あの時、膝から落ちてたみたいだからな。打ち身になってるんじゃないか?」
「それまではすごい活躍してたのに、急に蹲ったので心配しました。大丈夫だったんですか?」
「心配かけてごめんね、ただの立ち眩みだったみたい」
「ああ、ヒヤリとしたよ。しかし先生の采配もさることながら、彼の期待に応えてみせた君の働きも素晴らしいものだった」
「ローレンツも、マヌエラ先生相手に善戦していたし、特にフェルディナンドとは良い打ち合いをしていたよ」
「当然、僕は格が違うからね」
「はー…勝利を噛み締める一服がしたいなあ」
「ふむ、確かに。こんな日は琥珀色の薔薇園と名高い銘茶で一日を終えたいものだ…」
「……その惜しそうな顔は何かな?」

どうせ君はテフなのだろうなという訝し気な目で僅かに肩を竦めたローレンツをひと睨みし、金鹿の学級の皆が見学していた場所に戻る。ジェラルトと話していたベレトもちょうど合流すれば、「おつかれさま」「すごかったね」と温かな労いの言葉がたくさんかけられた。

「リシテア!見ててくれた?」

真っ先に駆け寄って顔を覗き込むと、珍しくじっと見つめ返された。退紅色の少し吊り上がった猫目に、可愛いなあとにっこり笑ってみせると、ふいっと目を逸らされる。

「……視界には入ってたけど、」
「ねえ、すごかった?かっこよかった?アッシュとの戦いでは、なかなか綺麗に技が決めれたと思うんだけどな!」
「…別に、あんたならあれくらいやると知ってましたし」
「えっ、元から評価は良かったみたいな言い方…!」
「ち、ちがっ、」
「だよねだよね!だって昔は剣を振る私を窓からずっと見てたもの、あの目はきっとあこが」
「ちがあぁう!変なこと言うんじゃない!」

小さな拳を握って全力で否定する妹の可愛いさにはくらくらしてしまう。ここで妹の否定にめげる程度の姉ではないのだ。

ふんっと顔を背けて「今日は早く寝台に入りなさいよ!」と告げた妹に思わず笑う。それは、寝台に入ったところで簡単に眠れるばかりではないコーデリア家の人々が日常的に使う言い回しで、夜更かししがちなリシテアも再三言われてきたものだ。部屋を暗くして寝台に入り目を閉じるという儀式は、人間である以上は必要なもので。苦痛や悲嘆に暮れて眠れない夜も、悪夢で目が覚めてしまった夜も、必ず一度は儀式を行う。
早く寝台に入りなさいというのは、眠れなくても身体は休めておきなさいという意味もあるから、きっとリシテアなりの労いなのだろう。

( リシテアの場合は魔導書を棚に仕舞って、目隠しのカーテンを引いてから寝てるんだよね……背表紙が見えると気になって仕方ない時もあるらしいから )

そんな可愛い妹は、魔導の天才だ。
幼い頃から剣を振る私を、リシテアは遠くから見ていて、それがどういう感情だったのか実際には知らない。煩くしたり大怪我したりすれば何かしらものを言われるが、どうしてやってるのか聞かれたり、憧れられたり褒められたりすることは残念ながらなかった。
けれどある日、魔導について問われたのだ。それはどういうものかのか、と。

「……魔導かあ…難しい術式とか理論が多くて、私はさっぱりわからないんだよねえ……ただ、怪我をする可能性が物理職よりは低くて、攻撃手段としては強力なものだから……とても、力になるよ」

私には素養がないんだよなあと無念な声音でそう返せば、リシテアは何か得心したように頷いた。その時から魔導の猛勉強を始めたリシテアは、いわゆる天才というやつで。あっという間に魔導のあれこれを理解してしまうと、あの暗い光をあっさりと放ってのけたのだ。

( けれど、リシテアは知らない )

放たれた魔法を血の気の引く思いで絶賛しあれこれ質問を重ねた私を鬱陶しそうに追い払った彼女は知らない。一生、知らないでいてほしいと願う。そのまま力を磨いて、自分の望みを叶える一助としてくれれば、それが一番良い。
闇魔法と呼ばれたあの暗い光との出会いが私に齎したものなんて、死んでも知らなくていい。