あ
芽吹きの季節を迎えたガルグ=マク大修道院を、少しひんやりとした空気が吹き抜けていく。瑞々しい草木の匂いを乗せた風が、釣り池の水面をすっと撫でていった。
「…おおっ、きたのか!?」
「……ん?風で揺れただけじゃない?」
「ウキがふらついてますが引っ張られてる感じはないですね…」
「なんだぁ…うめぇ魚が釣れるかと思ったのによぉ」
ラファエルが悄気たように「腹減ったなあ」と呟いて空を仰いだ。頭上に広がる空は霞んだように青い。空気が芽吹きと共に水分を含むからそう見えるのだと昔に聞いたことを思い出し、瑞々しく清涼な香りを鼻から吸い込み、深く吐き出した。
「リルメさん?どうしたんですか?」
隣に腰掛けるイグナーツが首を傾げて覗き込んでくる。頼りなさげというか柔和な面立ちは、唐突に深呼吸をしたおかしな同級生を気遣っているように見えた。
「……やっぱりここは魚臭いね」
「?なに当たり前のこと言ってんだ?」
イグナーツを挟んだ向う側から、ラファエルの心底不思議そうな声が聞こえてきて苦笑する。風情を理解しないとは言わないが、ラファエルは言動から見るにその手の繊細さはなさそうだ。しかしイグナーツは何かを感じ取ったのだろう、ふと温室の方を見遣った。
「……そういえば、この前はすごく雑多なにおいがしてたような…」
「雑多?」
「今みたいな魚のにおいと、花のような香りと、おいしい食事のにおいが…」
「ああ、天気がいい日は温室も食堂も窓と扉を開けるらしいから…風向きによっては、混ざるのかもね」
「食堂からのにおいが今はなくてよかったですね、ラファエル君」
「おう…腹ぁ減ったなあ」
「ラファエル君…昼食のスープを三杯おかわりしてましたよね…?」
「食べ盛りなんだろうねえ」
力なく項垂れて釣り糸の先を見つめるラファエルは、今にも痺れを切らしてしまいそうに見える。食卓にあがる魚の為という名目がなければ、ずっと座ってるなんて無理かもしれないと申告していたくらいだ。動かずに獲物を待つ釣りよりも、自ら動いて獲物を仕留める狩りの方が好きなのかもしれない。
平日の穏やかな昼下がり。
本格的な講義は来週からとなっているため、生徒は各々が気侭に過ごしている。午前中は全員共通で課せられた体力作りや座学があるものの、午後は鍛錬なり人脈作りなりお好きにどうぞと、生徒達は大修道院内に放畜されていた。
先日の課外活動で起きた賊の襲撃の後始末や、教師変更の手続きなどがあるため、今週末の休息日まで生徒達は自由である。それならばと可愛い妹を構おうとして袖にされた私は、傷心を癒すため釣り糸を垂らしていたのだが、いつの間にか隣で同級生が同じく釣り糸を垂らしていた。一人は恐らく交流の為、もう一人は夕食が待ちきれない為であると思われる。
「……あ、」
風に揺れているだけだのウキをぼうっと眺めていると、手の中の釣竿がぴくりと反応した。
「おっ、きたのか?魚!」
「うん…たぶん引いて……いやっめっちゃ引いてる!」
いきなりぐんっと強く引っ張られ思わず立ち上がると、腰掛けていた椅子がカタンと倒れた。しかしそんなことに構っていられないほど獲物は大きいらしい。その影はまだ見えないが、この力強さはきっと大物だ。
「…んぐぐ…っ」
「だ、大丈夫ですか?」
「う、うんんんぅ!」
大きくたわんだ竿がじりじりと震えている。
なぜかラファエルも立ち上がって「頑張れ!」と声援を送ってくれているが釣竿から手を離してはならないと彼に言う余裕も今はない。
「っも、持ってかれそ…!」
「あっあわわわ…!」
「リルメさん、手伝うか!?」
「い…いやっ、私はここでっ、大物を釣り上げてみせる!!」
( そしてリシテアに美味しい魚のバター焼きを! )
偏食が激しく魚も特定の調理法でしか食べない妹のため、渾身の力で踏ん張り獣のように唸りながら竿を引く。
ラファエルの「かっこいいぞ、リルメさん!」というヤジを、リシテアの「お姉ちゃんかっこいい!」に置き換えた。
( ……よし、いける! )
やはり手伝った方がいいのではというイグナーツとラファエルの会話の傍ら、脳内の妹の「お姉ちゃんがんばって!」に力を貰う。湧き上がるような力を振り絞って糸を巻けば、水面がバシャバシャと激しく弾け出した。
「…ぁ、っと少し!」
勝利は近いと感じた瞬間、獲物がじたばたと大暴れな旋回をし、ズザザッと足が地面を滑った。
「…あ…」
そして全力で踏み締めていたはずの爪先が何かに躓いて、踵ががくんっと浮いた。
「リルメさん!!」
( 落ちる…! )
所詮、釣り池。落ちてもラファエル達が助けてくれるだろうし泳げないわけでもないから死ぬことはない。しかし魚臭い池に落ちた私を前にしたリシテアは、一体何と言うのだろう…。
そう考えて泣きそうになるまでは、一瞬だったと思う。
ガシッと脇を掴まれて、誰かに後ろから引っ張るように抱え込まれた。
「っ先生!?」
「おおおおっ先生!」
私を抱き留めて落下を阻止してくれたのは、ベレトだったらしい。背後でふうっと安堵の息を吐いたのが聞こえる。
「っさ、さかな!」
ハッとして手元を見れば、何の執念か、釣竿は手放さずにしっかり握り込んでいたようだ。相変わらず獲物は暴れ回っているが、二度と足を取られてなるものかと再び身体に力を入れる。
「……リルメ、」
「先生ごめん、そのまま持ってて!」
背後で頷いたベレトは私の腰に腕を回し、震えながら釣竿を持つ片腕を掴んで、しっかりと身体を支えてくれた。さすがは凄腕の傭兵だと思える抜群の安定感だ。
「で、でかそうだぞ!」
「リルメさん、頑張ってください!」
激しい水飛沫の中には大きな影が見える。
( あと少し…もうひと踏ん張り!)
脳内の可愛い妹が、美味しいお魚が食べたいと珍しくせがんでいる。この大きな獲物を釣り上げて「お姉ちゃんすごい!」と言ってもらうのだ。
「……自分と呼吸を合わせて」
「え?」
「せーので一気に釣り上げよう」
背後で時機を見計らっていたらしいベレトが囁く。耳元で聞かせてくれている呼吸を意識して聞いてみれば、歯を食い縛っていた自分の呼吸が浅く乱れていたことに気付いた。
「…ぅ…ぐぐぐ…!」
全身に力を入れながら呼吸を整えるのは難しい。それでも胸を震わせながら、どうにか息を深く吐き出し、整えていく。
「……うん、上手だ」
「……」
「…いけるか?」
「…うん」
「せーのっ」
ベレトと呼吸を合わせ、ふっと息を吸うのと同時に両腕を大きく引き上げる。バシャンッと、水面から跳ね上がった獲物が、水を散らしながら太陽の光に反射した。
その大きさといい、活きのよさといい、どこからか歓声まで聞こえてきそうな輝かしさではないか。
「や…やっときた!…リシテアのごは……んん!?」
糸の先にぶら下がった輝かしい獲物に目を凝らせば、そこにいたのは美味しいバター焼きになる予定の魚…ではなかった。
「これは…アミッドゴビー…?」
「でっけえザリガニだなぁ!」
「そ、そんな…っ」
やたら重たい釣竿を持つ腕がガタガタと震える。釣り上げられてなお暴れ回る獲物に力が抜け、釣竿はぶんっと地面に叩きつけられた。
「ぎゃあっザリガニが!!」
「リルメさん!殻がくだけちまったぞ!」
「リルメ…大丈夫?」
腕の力どころか腰の力まで抜けて、思わずベレトに凭れかかった。
脳内では可愛い妹のガッカリした顔が…!
「……は…っ、」
「え?」
「…リシテアは…っザリガニなんて食べれないんだよ…!!」
「……リシテア?」
「…う、い、いや…」
本当ならリシテアの偏食ぶりを語ってこの悲しみを訴えたかったのだが、新任教師の彼には荷が重いかもしれない。できることなら食事を矯正させたいのだが、それはさすがに専門外かつ業務外だろう。
「リルメさん、どうすんだ、このザリガニ」
私のただならぬ様子を窺っているのか、おずおずと告げたラファエルを振り返る。その足元には殻が割れて少し中身の溢れたザリガニがぴくぴくしていた。あまり見たい光景ではないのでサッと目を逸らす。
「……そのまま釣り池に戻して、お仲間の餌にしようか」
「……これだけ大きく育ったのですから、魚にとってはご馳走かもしれませんね…」
イグナーツは私の悲しみを汲み取って同意してくれたが、ラファエルはザリガニをじっと見下ろして難しい顔をした。
「…戻すのはいいけどよぉ…これ、どうやって釣り糸を外すんだ?」
「……」
見るも無惨な有様になったザリガニの、どこにあるのかわからない釣り針が発掘しなければならないと悟って、今度こそ膝から力が抜け落ちた。
「リルメ、」
凭れかかっていたベレトが咄嗟に支えて座らせてくれたが、お礼の言葉ではなく絶望の吐息が零れていく。
可愛い妹を構おうとして袖にされ、傷心を癒すため…そして偏食の妹が唯一好む魚料理を提供するために釣り糸を垂らし、全力で挑んだ大物だったのだ。脳内で描いていた妹の笑顔も賞賛も、ザリガニの甲殻と共に割れ砕けてしまった。
「……リルメ、戻していい?」
「…へ…っええ!?」
ベレトの声に顔を上げると、そこには砕けたザリガニのハサミ部分を摘んで首を傾げる凄腕の傭兵がいた。手にしている生き物の有様など認知していないかのようにぷらぷらさせており、そこに釣り糸はもう繋がっていないので取ってくれたのだろう。
ずっと持たせておくわけにもいかないので慌てて頷けば、凄腕の傭兵はぽいっとザリガニを釣り池に放り投げて手拭きで男前に指先を拭った。
( な、なんて頼もしい…!)
記憶に新しい昨日のこと、この新任教師が我が金鹿の学級の担任になるのだと挨拶に来た時のことを思い出す。各々の個性を主張する生徒達を見回してきょとんとし、私と目が合うなり「半人前同士、頑張ろう」と妙な親近感を醸し出してきた、どこか不安を覚える様子だった彼は何だったのだろう。
「自分も手伝うから、次こそはおいしい魚を釣ろう」
「先生…ありがとう…」
心を抉る生物を排除し次回へ向けて鼓舞してくれるだけでなく、この騒動の中でも自分の釣竿を離さずいつの間にか小さな魚を釣り上げていたイグナーツを褒めている。そして魚に釣られたらしい釣竿が池に浮いているのを何とも言えない目で見つめたベレトは、ラファエルに「糸を垂らしている時はできるだけ釣竿を手放してはならない」と指導していた。思ってもみなかった、なかなかの先生ぶりを見られたのは、収穫だったかもしれない。