私
カーンと鐘が鳴る。
ふと見上げた頭上には美しい夕焼けの雲が広がっていた。空は昼盛りの紺碧色を僅かに深め、朱に柔らかく色付いた雲が薄くたなびいている。
( ……春宵の悪夢…か… )
ある時から見るようになった夢がある。
それは、こんなにも美しい空を血涙のなかで眺めるような、そんな鈍く錆れた彩度で映してきた夢だ。風情も何も無い、穏やかさも優しさもない、ただ地獄のようだと慟哭する誰かの絶望が浸るだけの記憶。それを春宵の悪夢と呼んだのは私ではないのに、こんな景色を見るとどうしても心が軋んでしまう。
「リルメ」
苦痛を抱く程に美しい夢から目覚めさせるような声。ハッとして振り返ると、声からわかってはいたのだが、担任が静かに立っていて思わず目を瞠った。相変わらず人形かと思う程の無表情だ。なのにしっかりと温度は感じられる静謐な眼差しには、わけもなくホッと息を吐くことができた。
「夕飯は食べた?」
「…まだ、だよ」
「なら、一緒に食べよう」
食事は決められた時間内であれば自由に食べられる。誰とどの席で食べようが構わないし、その日のうちに食器を返すことが前提だが、真っ当な理由で食堂に来れないなら自室などに持ち込むこともできるらしい。
「ローレンツも呼んである」
「…先生、食事の作法は大丈夫?ローレンツはわりと小煩いよ」
「?大丈夫だと思う」
作法とは一体何だろうとでも言い出しそうな顔に不安を覚えていたが、ベレトは案外まともで綺麗な食べ方をした。
「……意外だな。傭兵ならばもっと粗野な食べ方になるものだと思っていた」
感心して頷くローレンツはさすがの貴族ぶりで、優雅で丁寧だが鈍くはない所作でダフネルシチューをスプーンに掬い上げ口に運んでいた。煮崩れしないよう大きめなぶつ切りにされたホワイトトラウトは、一口で綺麗に食べるのが難しいのでナイフで切り分ける。身を二つに切ると皮が一方に持っていかれてしまうのだが、その皮で肉を包みタマネギと共に口に運ぶ様はまさに食事の美味しさと食べ方の上品さを両立させた満点の食事法と言えるかもしれない。
そう、私も実のところそういった所作には敏感なのだ。
「ジェラルトさんの教育によるものなのか?」
「ああ。……極稀に、依頼人と食事をしなければならない時もあって、その時に雑な食べ方をしてると侮られるから」
「なるほど…依頼人が貴族ならば有り得るかもしれないな」
ローレンツは簡単に納得しているようだが、傭兵がそれなりの作法を身に付けるのは存外難しいと私は考えている。
傭兵の食事は簡単な携行食だったり野営でのものだったりすることも多い。宿や食堂で食べるとしても、それは平民用の料理だ。ちゃんとしたカトラリーやナプキンを使える場所は限られている。
「セイロス騎士団の元団長なら作法は知っていただろうけど…」
「ジェラルトは色んなことを知ってるから、当人よりずっと歳上の人の話に合わせられるし、侮られずに仲良く食事ができたみたいだ」
「ほお…博識な御仁なのだね」
見苦しくない作法で共に食卓を囲み、相手をそれなりに楽しく喋らせることができる人なのだろう。
セイロス騎士団の元団長は二十年前の大火で行方不明になったと聞いているが、その当人の名を冠した傭兵団を続けてこられたのは、そうしたジェラルトの手腕や処世術によるものなのかもしれない。
「……誰かと交流するなら食事の席は有用だものね。食欲が満たされて…、それがおいしいものなら尚更、心を開きやすくなる」
「うん。ジェラルトもそう言っていた。だから、相手を不快にしないための作法は大事なんだと」
自分には、よくわからなかったけど。そう呟いたベレトは、話に聞くジェラルトのように器用な社交性はなさそうだ。けれど、こうして生徒と食事をとっているのだから、彼なりにその学びを生かそうとしているのかもしれない。
表情がなく、喋り方も淡々としていて、どこか近づき難い雰囲気をベレトは持っている。けれど、よどみなく食べ進める手と、しっかり味わうように何度も噛み締めている口元と、どこか熱心にダフネルシチューを見つめている目からは、美味しいという感情が伝わってくる気がする。
好きなものを一生懸命に幸せそうに食べているリシテアの姿を思い出して和んでいると、ベレトの背後で一人の男子生徒が立ち止まった。
「おおっと、先生!早速女の子と食事だなんて、やるじゃないですか」
「……シルヴァン」
「いやー、なかなか美味そうに食いますねえ。……俺の調査も役に立ったようで」
シルヴァンと呼ばれた彼は、ちらりと私の皿を見た後ぱちんっと手馴れたウィンクを寄越してきた。調査とはなんだろうと微笑んで首を傾げつつ、彼の持つ料理に目を向ける。見間違いでなければ、あれは激辛魚団子ではなかろうか。先日食べたそれは、初めこそ旨味があってなかなかよいと思ったものの、辛過ぎて最後には舌が痺れて味がわからなくなってしまったものだ。
「美しいお嬢さん」
まさかそれを最後まで美味しく食べられるのだろうかと恨みがましく見つめていたからか。シルヴァンに声をかけられハッと目線を上げれば人好きのする笑みがあった。
「よければ今度は俺と食事でもどう?」
「…お誘いありがとう。機会があれば、その時にでも」
「機会ね……その時は、激辛料理を最後まで美味しく食べる方法を教えるぜ?」
なぜバレた。ぎくりとして笑みが固まった私に、シルヴァンは再度ウィンクを寄越して見せた。その造作が魅力的に見えたわけではないが、激辛料理を克服できるなら誘いに乗るのも悪くはない。
シルヴァンがベレトに一言告げて立ち去ったのを見送ると、目の前の教師はじっとこちらを凝視してきた。
「……ローレンツとリルメは、辛いものが苦手?」
「僕は特別苦手としているわけではないよ」
「私はちょっとなら好きなんだけどね。あんまり辛過ぎるのは舌が痺れちゃって味がわからなくなるんだ」
「ああ、君はそう感じるのか。先生はどうなんだ?」
「……普通に食べれる。どこかで一度、目がしみるような料理を食べたこともあるけど舌は痺れなかったし」
「それは…大丈夫なのか?辛味も度が過ぎると胃を悪くすると聞くぞ」
「腹痛もなかったから大丈夫だ。……でも、最後まで美味しく食べる方法は知らない」
ふと視線を下げたベレトは、景気よく食べ進めていた手を止めた。相変わらず無表情なのに、どこか落ち込んで見える。
「……けど…機会は作るから、また一緒に食べてくれるか?」
「…先生、」
激辛克服のためなら誘い乗るのも吝かではないという考えは、ベレトにも読まれていたらしい。よく知りもしないシルヴァンならともかく、担任として付き合い続ける先生にそれが適応されるはずもないのに。無表情で首を傾げているだけなのに、なんて可愛いのだろう。
「先生なら、そんなこと知らなくたっていいんだよ」
「そうなのか?」
「だって先生とのごはんは仲良くなる為のものでしょ?相手の好みとか気分を知ろうとしてくれる先生のお誘いならいつでも乗るよ?」
私の言葉に目を瞬いたベレトは、こくりと一つ頷いて食事を再開した。先程同様、美味しそうに食べているのでホッと息をつく。
「おや、僕は対象外かい?」
「もちろん、級友も大歓迎だ。ローレンツのダフネルシチューの食べ方には通づるものがあったしね」
「それは光栄だ。奇遇なことに僕も君のシチューの飲み方には感心してね、タマネギを畳む手際は実に華麗だった」
「あら、うれしい」
「ところで食後のお茶はどうするつもりだね」
「紅茶も好きだけれど、食後はテフと決めてるんだ」
「……何だって?」
「……その顔…何か言いたいことがありそうだね?」
意気投合していた生徒達が突然に対立し始めたからか、ベレトは興味深そうにこちらを眺めては何を納得したのかうんうんと頷いていた。ちなみに食後はベレトが持ってきた果実水による一服で締め括られた。