背中をかりる

結婚してから早三ヵ月、互いの生活リズムにも慣れ家事も分担できている。大きな事件もなく至って平和な日々を送れていた。今日も今日とて食後のコーヒーを向かい合って楽しんでいる。だがしかし、ココくんからの一言でその優雅なブレイクタイムも一瞬にして亀裂が入った。そして今まさに我々はダイニングテーブルを挟み東都と西都に分かれ混沌を極めていた……

「絶っっっ対に嫌‼」
「国内産のシルク生地。靴もアクセサリーも一式買ってやるっつってんだろ」

目の前には広げられた無数のパンフレット。赤、黄、緑と強めの色味が目に痛い。そしてそこには龍や鳳凰といった架空の生き物から蓮や牡丹の縁起のよい花までもが細やかな刺繍で描かれている。私はそれらをもう一度視界に入れてからココくんに向き直った。

「そういう問題じゃない!」
「じゃあ何が不満なんだよ」

ここにきてようやく私に妻としての役目が回ってきた。曰く、再来週に梵天が交渉中である例の中国マフィアが日本で親睦パーティーを開催することになったらしい。それに私も同伴してほしいとのことだった。それは別に構わない。しかし、そのときの服装が問題だった。

「こんなコスプレみたいな恰好できるか!」

一言でいえばチャイナドレスのカタログだった。ココくんが仕事の時に来ている服に雰囲気が似ている。しかし女物であれば当然、体のラインが分かるくらいタイトな形をしているしスカートにはスリットが入っている。胸元が閉じているのと裾が長いことがせめてもの救いだが私の中ではアウトだ。

「ア?オレのことディスってんの?」
「いや、男と女じゃ雰囲気変わってくるでしょ?それにそもそもこんな格好でいく必要ある?」
「相手が中国マフィアなんだから向こうに合わせた方がいいだろ」
「普通のドレスでも変わんないって」
「夫婦で服装違ったら変だろ」
「じゃあココくんもスーツで」
「オマエ今のオレの話聞いてたか?」
「ココくんこそ今の私の話聞いてたかな?」

互いに引かないせいで、こんな言い争いを彼此三十分はしている。しかし未だに終わりが見えない。どこかで妥協案を見つけるべきか。しかしこの争いは意外な形で終止符を打つことになった。

「ベッド」

その一言にパンフレットを片付けようとした手が止まる。そしたら追い打ちをかけるようにもう一度ココくんが「あのベッド寝心地いいだろ?」と言ってきた。私の心を抉る核心を突いた一言だった。

ココくんの仕事を手伝った代わりに買ってもらったベッド。でもそれは私が想像していたものと違ったのだ。マットレスと布団はあるのでベッドフレームだけをお願いしていたつもりの私と、寝具一式のつもりでいたココくんとの差。ココくん任せにしていた私も悪かったが数日後に届いたものはセミダブルのベッドフレームと高反発マットレスにグースダウンの布団。怖くて値段は聞けなかった。

「別にオレは気にしてねぇけど義理を通すっつってたのは何処のどいつだっけ?」
「うっ」

さすがに良いものを貰い過ぎてしまったと思った私は、確かにココくんにそう言った。
左端の口角を上げ笑ったココくんにぐぅの音も出やしない。自分の言ったことを今更撤回もしたくないし言い訳するのも見苦しい。もう一度視線をパンフレットへと落とし、これは腹を括るしかないと覚悟を決めた。

「分かった。でもあんまり派手なのはなしね」
「分かってるって」

パラパラとパンフレットをめくっていくが私の思考回路が腐っているのか全てが如何わしいものに見えてきてしまった。もう色さえ地味であればどれでもいい。

「ココくんはどれがいいと思う?」
「オレに聞くのかよ」
「だってよく分かんないし」
「なら、これとか……?」
「へぇそういう趣味なん、っ⁈今足蹴ったでしょ⁈」
「うっせぇ。あとは自分で考えろ」
「ごめんごめん、じゃあこれにする」
「他のにすりゃあいいだろ」
「ココくんのセンスは信用してるからさ」

事実、今のベッドはデザインも含めて気に入っている。意外と感性が近いのかもしれない。

「なんだよ急に」

気持ち悪いな、という心の声まで聞こえた気がしなくもないがこちらを見たココくんに私はにっこりと頷いた。

「だってこの家も素敵だしさ。ところでコーヒーの、」
「コーヒーのおかわりは自分で入れて来いよ」
「くっ……」

でも思考回路までは似なくてよかったかな、と言うのが本日の感想であり愚痴だった。



意外に悪くないな。それが最初の感想だった。

「サイズ感は大丈夫でしょうか?」
「はい」

シルクで作られたベルベッド生地には上品な光沢があり動くたびに光が淡く乱反射する。デザインとしてはタイトなシルエットではあるが濃く落ち着いた色調のおかげでいやらしさはなく、胸元を止める桔梗の花ボタンは品がある。そして腰元から裾にかけては波のような緩やかな曲線が伸び、その上を泳ぐ様に金魚が描かれていた。

「スリットは入っていますが基本的には歩幅を狭めて歩くよう気を付けてください」
「分かりました。あの、変じゃないですか……?」

着替えを手伝ってくれている店員さんに声を掛ける。お姉さんは姿見越しに目が合うと裾の形を整えながら微笑んだ。

「とんでもない!よくお似合いですよ。今だとミニ丈や露出の多い物が主流ですがフォーマルに近いドレスの方が実は男性受けもいいですし」
「はぁ……」
「先日も歌舞伎町で有名なホステスさんがご購入されて行かれたんですよ」

もしかしなくてもキャバ嬢だと思われているようだ。やっぱり私が着たらただのコスプレになった。因みにお姉さん曰く、中国では金魚が金運上昇のシンボルとされているらしい。さっすがココくん、抜け目がなかったわ。
ドレスショップを出て向かうは美容室。そこではネイルやらメイクも頼んでいるのだがもう先が思いやられる。数時間後の未来に闘志を燃やし戦地へと赴く兵長になった気持ちで店を後にした。

「ココくん、遅い!」

そうして諸々の準備を終えココくんが迎えに来るのを待った。そしてすっかり見慣れた車が路駐するや否や私は光の速さで飛び乗って文句を言った。どこぞの我儘お嬢様かと思われるかもしれないがどうか許してほしい。私のSUN値は大分削られていた。

「悪りぃ道が混んでた。っつーか五分ぐらい大目にみろよ」
「この格好で一人待たされた私の身にもなってくれない⁈恥ずかしくて死にそうだった!」
「似合ってんぞ」
「そう言えば誤魔化せると思ってるでしょ!」

待っている間、遠巻きに写真を撮られるわ馴れ馴れしく声を掛けられるわで散々だった!そう泣き叫ぶ私を見兼ね、ココくんが「ごめん……」とあまりに申し訳なさそうに謝るものだから逆に居た堪れなくなってしまった。写真はしょうがないとして声を掛けて来た人たちは追い払ったことを伝える。SMクラブで働いてるって言ったらすぐどっか行ったよ、と説明すれば笑われた。失礼か。

「ココくんの笑いのツボが未だによく分からない」
「オマエは一生分からなくていい」
「なんで?」
「全力で笑かしにきそうだから」
「確かにそうかも」

ココくんって私の事よく分かってるよね。それが少しだけ悔しい。私よりも私に詳しいなんてなんか負けた気がする。

「あとこれ」

車が発進する前に膝の上に小さな紙袋が置かれた。隙間からは四角い箱が覗き見える。そのベルベット素材のボックスは以前見たものよりも大きかった。

「結婚指輪な」

長方形のそれを開ければ大小二つのリングが並んでいた。婚姻届を出し終わった後、すぐに用意するとココくんには言われていた。この時も希望を聞かれたがアクセサリーに関しては特にこだわりもないためシンプルな物であれば構わないと伝えていた。それで用意してくれたものが今、手元にある。

曇りのないプラチナリング。でも側面には隙間なくダイヤモンドが並べられていた。しかもそれは全周に及ぶ。本物の宝石で作られたエタニティリングなんて初めて見たかも。

「もっとシンプルなやつでよかったのに」
「なに?不満なわけ?」
「そうじゃなくてこんな高いもの、私には勿体無いってこと」
「付けてもねぇのに文句言うな」
「文句でもないんだけど」

アァ?とお得意のガラの悪さを見せつけてきたので小さい方の指輪を手に取って薬指に通す。街灯の光に反射してそれがキラリと煌めいた。

「きれい」
「悪くねぇだろ」
「うん。私の価値が一千万くらい上がった気がする」
「元よりそれ以上の価値はあんだろ」
「おっ言うねぇ」
「前言撤回」
「ひどっ」

左手をフロントガラスに向けてかざす。掌から見ても、甲から見ても均一に並べられたダイヤからは同じ輝きが放たれていた。それが幼い頃に見た万華鏡の光景と重なって、くるくると向きを変えては見入ってしまった。

「オレのも取って」
「あ、ごめん」

自分の薬指に夢中になっていたが箱の中にはもう一つ指輪が残っている。ちょうど目の前の信号が赤になり車が停止した。そのタイミングを見計らって指輪と、ココくんの左手を取った。

「は…?」

ココくんは私のことをよく解っているようだけど、私はココくんのことをあまり知らない。正確にはよく覚えていない。そんな私が唯一ココくんのことを知れる機会があるとするなら、それは今なんだと思う。不意を突くことで新しい顔を知ろうとするなんてただの子どもだ。でも私はその方法しか知らなかった。

「はい、指輪交換」

自分よりも骨張った指。でも男の人にしては細身のそこに同じ指輪を通した。引っかかることもなくぴたりと付け根に収まる。そういえば今まで付き合った人と同じものを身に着けることもなかったな。ペアルックに憧れていた時期もあったけれど年を重ねるごとにそういうのも恥ずかしくなってすっかりタイミングを逃していた。

「急にびっくりしたわ」
「あっごめん。でもココくんも似合ってるよ。九井一の市場価値が一千万くらい上がったんじゃない?」
「そりゃどーも」

初めてのお揃いが結婚指輪か。この結婚はニセモノだけど手元の指輪の輝きは本物だった。

「あとこれも付けとけ」
「なにそれ?」
「虫よけ」
「うん?」

そして車内でいくつかの確認事項をしていれば目的地のすぐそばまで来ていた。
到着した先は普通のホテルだった。といってもスイートルームで一泊百万はする高級ホテルだ。入口にはホテルの警備員の他にも黒スーツの人たちがいて物々しい空気が漂っている。気のせいなのだろうけれど、周りの人の目も全て自分に向けられているようで少し落ち着かない。だからすっかり委縮して気付けば俯きがちに歩いていた。

「おい、」

そしたら背中を叩かれた。それはもちろんココくんで。でも私の前を歩いていたはずなのに顔を上げた時には隣に並んでいた。

「なに?」
「そこまでしたんだから今日は馬鹿にされねぇよ」
——場違いだって言ってんの——

いつかに言われたその言葉。私はもうとっくに忘れていたというのに、どうしてココくんの方が気にしているのか。まぁただ単に品のない女を置いておきたくなかったからかもしれない。でも、

「ありがとココくん」
「何が?」
「なんでもない」
「あっそ。それよりその呼び方はやめろよな」
「じゃあ一くん。あっ一さんの方がいいかな?」
「どっちでもいい。好きにしろ」
「ならダーリンかな」
「ふざけんな。ほら行くぞ」

二人並んで受付に向かう。
その夜、「九井夫妻」と呼ばれた私達は確かに夫婦だった。



反社の親睦会ということで内心ビクビクしていたが至って普通の立食パーティーといった感じだった。海外のホームパーティーではどこもかしこもマリファナ臭くて堪らなかったというのにここでは紫煙のひとつも見当たらない。

「大丈夫か?」
「うん……ってなにが?」
「いや、顔色悪くね?」

会場に入って一時間ほど。私は基本、ココくんの隣にいて愛想笑いを振りまくだけ。でも偶に話題を振られるのでそれは打合せ通り無難に受け答えていった。でも最悪、返事に詰まっても誤魔化しはきいた。何故ならその会話は基本英語で行われていたからだ。それだけこの会場には様々な国籍の人間が集まっているというわけだ。

「そうかな?まぁ強いて言えばお腹が空いたかも」
「ったく……オマエは少し休んでろ。ただしオレの目の届く範囲にはいろよ」
「分かった、ありがとう」

ずっと張りつめていた緊張が僅かに解ける。それと同時に顔に張り付けていた笑顔も取れた。お腹が空いたのは事実だが慣れない場所と空気にかなり気を張っていたらしい。素直にお礼を言ってココくんのそばを離れた。

「漂亮姐姐」

ちゃっかり美味しそうな料理とお高そうな酒を確保し壁と一体化して楽しんでいれば声を掛けられた。正直、初めは私相手とは思わずに無視してしまったのだが肩を叩かれたことでその存在に気付いた。吊り目と凹凸の少ない顔立ち、そして先程の言語からその男性が中国人であることが分かった。

「あー……晩上好」

拙い中国語でとりあえず返事をする。しかしそれにより中国語が話せると思われたのかマシンガンの如く彼の口が回り始めた。大学教授の残念教育により生憎リスニングはできないのだが、これもまた日本人の悪い癖で私も会話からの離脱が出来ず適当な相槌を打ちながら聞いていた。しかしそれがいけなかったのだろう、急に腰を引かれグラスが口に押し付けられた。

「うッ、……げほっけほッ」

喉に焼けるような辛さが残る。一服盛られたかと焦ったがどうやら度数の高いお酒らしい。というかこの人顔は普通だけど相当酔っているようだ。香の匂いで気付かなかったが距離が縮まれば酒の臭いが鼻についた。

「好性感啊!」

相変わらず何を言っているのか意味が分からないが今こそ切り札を使う時か。かの有名な徳川光圀を脳裏に思い浮かべれば我が心の友である助さんが静まれ、静まれと声を掛けてくれた。ええい頭が高い、控えおろう!とばかりに懐から印籠——ではなく左手の甲を見せつけた。いざ、成敗。

「梵天ですけど?」
「ヒッ⁈ぁ、スミマセン……‼」

日本語話せるんかーい。それなら直接文句を言えばよかったわ。それよりもこの紋所すごいな。左手の甲にはココくんの刺青と同じ花札のようなマークが描いてある。もちろんこれはシールで会場に入る前に着けてもらったものだ。梵天ってそんなに有名なんだ。この絵柄一つで同業者ですらビビって逃げ出してしまった。藤花彫りをしてもらって言葉と筋肉の膨張でいつでも出せたら便利なのにな。

「けほっ……」

それにしてもまだ喉が焼けるように痛い。おおよそあれは白酒だったのだろう。恐ろしく強い酒。私じゃなきゃぶっ倒れちゃうね。

「はぁ、お水はどこに……え?」

会場を見回したところである人物が目に留まった。そうして大慌てでココくんを探す。幸いにもちょうど話を切り上げたところですぐに捕まえることが出来た。

「ちょっとココくん!」
「どうした?っつーか名前で呼べっつたろ」
「いやそれどころじゃない。うちの社長がいる」

おおよそ五メートル先に光る頭頂部。シャンデリアの照明を一身に受け乱反射させていたその男は間違いなく私の会社の社長だった。いち貿易会社の取締役がなぜこんなところに。

「そりゃあ貿易商人だからな」
「は?」
「いや、だから密輸の斡旋業者。オマエだって当然知ってんだろ?」
「初耳ですが」

は?と言ってチベスナのモノマネをし始めたココくんを見つめ返す。あちらこちらでは相も変わらず物騒な話が行き交っているというのに私達の周囲だけは空間が切り取られたかのように静かだった。
何秒間そうしていたかは分からない。が、不意に腕を掴まれる。そしてそのまま「ちょっと来い」とココくんに引きずられるよう会場の外に連れ出された。

「オマエ、マジで何も知らねぇの?」
「知らないよ。ねぇ、密輸ってなに?うちの会社って悪いことしてるの?」

会場を出て化粧室とは反対方向の廊下。ココくんは念のため周囲をもう一度確認し静かに口を開いた。

「オマエんとこの貿易会社、表向きじゃあインテリア家具の輸入販売ってことになってるがそこに麻薬を交えて日本に密輸してんだよ」

当然そんなことをすぐに信じられるわけもなく瞬きをすることしかできなかった。でもココくんが嘘をつくとは思えない。そして何より、この場に社長がいたことが決定的な証拠だった。じゃあ私が数年前に海外から買い付けていたあの家具達も全部麻薬の隠れ蓑にされてたってこと……?

「知らなかった」
「それは、悪かった」
「なんでココくんが謝るの?」
「オレが梵天の人間だと知ってもオマエがビビる様子はなかった。だからてっきりこっち側の人間だと思ってた」

ココくんは自分が梵天幹部であると明かす前に、私のことも多少は調べていたらしい。そこで今の会社で働いていることも知り、海外へも飛び回っていたことから事情を知る側の人間だと思い込んでいたのだとか。しかし私は生憎ただの平社員だ。

「だからってココくんが謝るのは違うよ」
「オマエは自分の状況が分かってんのか?オマエだけじゃない、もしかしたら家族にも迷惑が掛かるかもしんねぇんだぞ?」
「私におばあちゃん以外の家族はいない」

本当はいる。でも親が離婚して私を引き取った母親もすぐにどこかに消えた。でもそれも仕方のないこと。離婚の原因は両親の互いの不倫だったから。子は鎹というけれどそんなものはうちの両親にとってはないも同然だった。

「だから今さら迷惑とかないから」
「つっても日本最大の犯罪組織と関わり持ってんだぞ」
「確かにココくんは梵天幹部サマだけど、それ以前に私の同級生だから」

何度も言わせるなとばかりに口を尖らせれば一瞬顔が強張って、そして唐突に笑い出した。だからその笑いのツボは何なのよ。とりあえず先に手を出してしまえと安直に腕に平手打ちを決めれば「イテェ」と言いながらも引き笑いをしていた。本当に意味が分からない。

「あと同級生じゃなくてオマエの旦那≠セからな」

ようやく笑いが収まってきたところでそう言われた。まぁ、うん。確かにそうだね。ココくんからそれを聞くと少し変な感じがする。でもそういうことならお言葉に甘えるとするか。

「じゃあちゃんと妻扱いしてよね」
「ンだよそれ」
「今夜はもう離れないから」
「は、」

ココくんの腕を取ってぴったりとくっ付く。いつもの私ならば女友達にすらしない行動だが今日は勢いでしてしまった。全ては中国四千年の歴史が詰まった白酒のせいということにしておこう。

「さっき知らない人に体触られた」
「は?」
「でもこの印籠で撃退出来たから私が格さん役ね」
「オマエ相当酔ってるだろ」
「ココくんは助さん役に任命するから前振りは頼んだ」
「もう用は済んだから帰んぞ」
「あっもしかして、ここにおわすお方を〜のセリフも言いたかった?」
「あー……そうだな」
「じゃあそのセリフも譲るね。目に入らぬか、のところは少しこぶしを入れるといいよ」
「ハイハイ」

この日、私は人生で初めて記憶が飛んだ。これ以降の会話を全く覚えていなかったのだ。
翌日、昼過ぎに目覚めた私にココくんは何も言わなかった。だから私も怖くて何も聞けなかった。でもその数日後、テレビ台の下のスペースに例の時代劇ドラマのDVDボックスが収められていたので私が相当やらかしたことだけがよく分かった。



最近では専らROM専になりつつあるSNSアカウントを立ち上げる。そして社名を検索にかければすぐに該当の画像が一覧となって表示された。その中には社長が写っているものや中にはコメントしている記事まである。まさか自分の会社の社長が犯罪の片棒を担いでいたとは。そして知らなかったとはいえ自分も一つの駒として働いていた。それなりに仕事に対するプライドもあっただけに思いの外ショックが大きかった。

「何のために頑張ってきたんだろ」

お気に入りのソファ、肘掛けに頭を乗せる体勢で寝転がる。あのパーティーから数日経ち、改めて現実と向き合っていた。でもそんな側面を知りつつも仕事は辞められなかったし辞めたくなかった。だから自分自身を肯定するために今の会社の良いところを見つけようと意味のない努力をしている。

スプリングが沈み込み自分の体が安定したところで画面をスクロールさせていく。そして社長の写っている記事を表示させてはそのコメントを読んでいった。そこで一つ、コーヒーカップのアイコンが目に付いた。濃紺の、少しガタついたマグカップ。取っ手の下のところをわざと窪ませて「手作りっぽい!」なんてはしゃぎながら作ったっけ。それは紛れもない元カレのものだった。

本来の目的とは違うのに、気付けば指先はそのアイコンをタップしていた。プロフィールページに飛べば画像が一覧で表示される。スクロールするまでもなく最新投稿のものに目が止まった。ラインストーンの付いたジェルネイルとイチゴタルトが写っている。それだけでも十分だというのに長い巻き髪とリップの引かれた口元までもが切り取られていた。

『#限定スイーツ』

ハッシュタグに続く内容も確認して、本当は見たくもないのに指先はコメントの四文字にまで動いていた。友人と思われる人達の書き込み。そのコメントへの返信の一つが目に留まった。

『今が人生で一番楽しいわ!もっと早く別れればよかったw』

手からスマホが滑り落ちラグの上へと着地する。それを拾い上げもせず、私はキッチンへと向かった。食器棚の中のものはほぼココくんが以前から使っていたもの。でもブルームリースのお皿やアンティーク調のスプーンなど、一部自分のお気に入りのものは持ってきていた。そしてもちろん数個のマグカップも。棚の奥へと手を伸ばし、中でも最も歪であるカップを手に取った。緋色の取っ手の下が窪んだマグカップ。なんで持ってきたのかも分からないそれを掴みベランダへと向かった。生暖かい夜風が頬を撫でる。四十八階という高さの割には優しい風だった。

「このっ……!」

コンクリート剥き出しのベランダに叩きつけてやるつもりだった。でも、やっぱりそんなことはできなくて。怖くなってそっとコンクリートの上に置いた。その場にしゃがみ込んで。数分してから顔を上げ再びキッチンへと戻る。結局こうなってしまえば取る行動はいつもと同じでアルコールの力を頼るしかない。

冷蔵庫の下の段を開けるが缶ビールの一つもなくて視線を戸棚の方へと向ける。普段は几帳面なココくんだけど興味のない物への保管はずぼららしい。貰い物のワインやシャンパンなどは全て棚の中にしまっていた。好きに飲んでいいとは言われているが何分全てお高そうなので勝手に空けるのも憚られる。それを言い訳にして電話をかけた。

『どうした?』

六コール目の途中で切れた電子音。私より先に発せられたその声に少しだけ泣きそうになった。ヒリついた喉に唾を流し込んで口を開く。

「ごめんね仕事中に」
『別に。なんかあっ——』
『早く吐かねぇとテメェら全員スクラップにすんぞ‼』
『ぎゃああああ‼』

電話越し、ココくんの声を掻き消すほどの怒声と銃声の音が聞こえた。どうやらヤバめの方のお仕事中らしい。そんな中では当然、私の電話に付き合わせるにもいかなかった。

『うるさくて悪い。で、どうした?』
「あー……大した用事じゃないんだ。ごめんね、切る」
『待てよ』

私の言葉にココくんの声が僅かに重なる。相変わらず電話の向こうでは濁った悲鳴が聞こえていた。きっとココくんだって忙しい。だからこそ早く切らなきゃと思うのに、温度を持ったその言葉尻に私はスマホを耳から離せなかった。

『こっちのことは気にすんな。言ってみろ』
「実は、」

喉元まで言葉がせり上がった瞬間、「聞き分けのいい子でいなさい」という声が脳内で響いた。
……あーもう、ほんとさいあく。嫌なことが重なるとそれを塗り固めるように嫌な記憶が蘇る。そして幼子の頃にこびり付いたその言葉に、大人になった今でも私は抵抗できなかった。

「実はトイレの電球切れちゃってどこにあるのかなぁって。でも見つからなかったからコンビニに買いに行ってくるよ。じゃあね」

一息で言い切って画面の赤いマークをタップした。
はぁ、と大きく息を吐き出してまたその場にしゃがみ込む。しばらくしてから製氷機のモーター音で我に返った。いつまでも膝を抱えていたところで誰が助けに来るわけでもない。財布と鍵を片手に家を出た。

マンションのスーパーではなく、徒歩十五分のコンビニにまで足を運んだ。酒とおつまみの他にも煙草が欲しかったからだ。蜂蜜の香料を含む十四ミリグラムは昔好んだ味だった。

「お姉さん、こんな夜中に一人?」
「荷物重そうだね。大丈夫?」

深夜のコンビニでビニール袋一杯に酒を買った私は彼等のおもしれー女センサーに引っ掛かってしまったらしい。しかし、生憎そちらのジャンルは数年前に卒業しているので関わってこないでくれ。だからその声を無視して帰ろうとすればスッと目の前の道が塞がれた。

「酷いなぁ無視しないでよ」
「ごめんね、お姉さん見た目よりも年だから耳が遠くて」
「なんだ聞こえてんじゃん。っつーか今から一人酒?もしかして男にフラれてヤケ酒とか?」

どうやら地雷の上でタップダンスをするのがお好きらしい。Shall We Dance?の問いかけもなければ品もない。ここはひとつ成敗してやろうと思ったが私の左手に印籠は刻まれていなかった。ついでに結婚指輪も忘れて来た。

「そんなんじゃないけど大人は飲まないとやってらんないの。じゃあね」
「ならオレらも付き合ってあげるよ」
「そーそー!お姉さんのこと癒やしてあ、ガッ⁈」

足早に通り過ぎようとしたところで一人が前のめりにずっこけた。急に一人コントでも始めたかと思えばもう一人も視界から消えた。突然の出来事に呆然としていれば目の前に助さん……じゃなくてココくんがいた。

「びっくりした」
「それはこっちのセリフだ」
「え、というかココくんなんでこんなところにいるの?仕事は?」
「他の奴に任せて来た。オマエ、スマホ忘れてったろ」
「あっ」

鍵と財布しか持ってきていなかったことに気付く。どうやらココくんは仕事が終わった後に再び私に電話をかけてくれたらしい。そして何度かけても出なかったものだから自宅付近のコンビニを回ってくれていたのだとか。

「ったく変なのに絡まれやがって」

足元に倒れ込んでいた悪徳大名・代官コンビは、一度は暴言を吐いたもののココくんの「ア?」の本物の悪代官に恐れをなして逃げていった。時代はヒーローよりもヴィランなのか。その逃げ行く背中を目で追っていたら「怪我はなかったか」と聞かれた。

「それは大丈夫。迷惑かけてごめん」
「別に。こっち側は治安あんまよくねぇから夜に出歩くなよ」
「うん」

徒歩でここまで来たココくんと一緒になって歩き出す。そうしたら目の前に手が伸びて来た。

「帰んぞ、荷物貸せ」
「重いからいいよ」
「重いから持つんだよ」

私の返事を待つ前に左手からビニール袋が奪われる。ごめん、と言ったら「謝んな」と怒られた。だからありがとう、と言い直したら短く「ン」とだけ返って来た。相変わらず分かりづらい。それはお互い様かもしれないけれど。

私が鍵を開けてココくんが荷物を中まで運んでくれた。リビングのローテーブルに置かれたビニール袋から缶ビールと取り出す。そしてお礼にと、一本ココくんにあげた。

ビール片手にふらふらとベランダへと向かう。そしたらココくんも着いてきた。どうやら今夜は飲みたい気分らしい。つっかけを履いて二人で外に出る。百万ドルの夜景とまではいかないが十分な美しさが眼下には広がっていた。

「綺麗だね」
「あぁ。だが灯りの数だけ今も仕事してる奴らがいんだよな。皮肉なもんだ」

確かに。でもその言い方はあまりにも色気がなさすぎる。それは花火を見ながら炎色反応について語る姿に似ていると思う。その苦い経験をしたのは過去の私だけれど。

私はひと口ビールを煽ってから煙草を取り出した。久しぶりに買ったそれはかなり値段が上がっていて驚いてしまった。嗜好品と呼ぶには税金がかかり過ぎていて気軽に買えるものではない。禁煙してよかったとも思うが今夜で台無しになりそうだ。

「煙草吸うのかよ」
「昔やっててね。ごめん苦手だった?」
「別に」
「一本いい?」
「好きにしろ」

せめて自分が風下である事を確認して火をつけた。浅めに加えてゆっくりと息を吸う。しかしその味は過去の記憶のものよりも苦かった。それは単に私の吸い方が下手になっただけなのか、禁煙者として体が順応したせいなのかは分からなかった。

「それ、大切な物じゃねぇの?」

置きっぱなしであったマグカップの縁で煙草を叩いた。その灰が落ちていくのを見ながらココくんもビールを煽る。お高い物しか飲まないのかと思いきや、意外にも缶を口に着ける仕草は様になっていた。

「全然。寧ろなんでそう思ったの?」
「手作りだろ。思い出の品かと思って」
「過去の、ね」
「愚痴くらいなら聞いてやってもいいけど」
「え?」
「一杯分くらいなら付き合う」

ココくんが再び缶に口を付ける。
正直、その申し出には少し困った。だって別に励ましてほしいわけじゃないし、同情してほしいわけでもない。だってそうされると益々自分が惨めになるから。

「大丈夫」

だから私は強がった。そしたらココくんは「そうか」と短く言った。
心に芽生えたのは少しの罪悪感。盗み見るように視線を横に向ければココくんは特に怒っている様子もなく空を見上げていた。その姿に安心して、気付けば唇が動いていた。

「なんかね、」
「うん?」
「元カレが幸せそうだった」

この時の会話は支離滅裂だったと思う。まともな主語もなくて話が右に左に飛んで。自分でも要点がまとまってないことには気づいていた。でもココくんは私の話を遮ることなく、時折小さく相槌を打ちながら聞いていた。

「私の何がダメだったんだろう」

私なりに頑張ってきたつもりだった。向こうの趣味にも付き合ったし、少しでもいい所に住めるよう仕事も頑張って。料理も食事も洗濯も、喜んでくれるなら全部やった。でもそれがいけなかったのかな。そういえば前に別の人に浮気されたときも「付き合うには向いてなかった」と言われた。詰まるところ私はダメ男を製造する女のようだ。

ジュ、とカップの奥に吸殻を押し当てて三本目の火を消した。もう随分と短くなっていたせいで指先が火傷した。薄っすらと伸びていた煙も風にさらわれ夜へと消える。手元の缶ビールはすっかり空になっていた。

「それ捨てんの?」

視線は吸殻の入ったマグカップにあった。ココくんにしては脈絡のない話し方に少し驚く。

「え?……あぁ、うん。ちゃんと分別して捨てるから安心して」
「カップも捨てんだよな?」
「そうだよ」
「貸せ」

言われたままにマグカップを差し出せばそれがココくんの手元へと渡る。そうして代わりに飲みかけの缶ビールを渡された。一体何をするのだろうと、ぼぅっとココくんを見ていたら私に背を向けた状態でカップを握った手が高く上げられた。そして、
ガシャンッ——盛大にカップがベランダのコンクリートに打ちつけられた。

「ちょっとココくん⁈」

粉々に砕け散ったそれを慌ててかき集めようとすればココくんの腕が私の前に伸びた。

「今さら後悔か?」
「いやいやそうじゃないって!というかココくんこそ何なの?そんなにストレス溜まってた⁈」

薄くなるようろくろを回せなくてカップ自体は厚みがあるし重かった。それが今や見る影もない。だからココくんが相当な力でコンクリートに叩きつけたことが分かった。

「胸糞悪りぃ話聞いたからな」
「ご、ごめん」
「ア?なんでオマエが謝んだよ」

そっちこそなんでココくんがキレてんのよ。おにーさん落ち着いて、なんて宥めていれば「少しは怒れよ」と睨まれた。

「急に怒れって言われても」
「そんな男クソだろ。自分のダメなところをオマエに責任転嫁してるだけ」
「でもそうさせたのも私だし」
「その考えがそもそもおかしいんだよ。オマエは悪くねぇ、ソイツらがクソ」
「ふっ……あはは!」

なんだか急にすべてが馬鹿馬鹿しく思えて大口開けて笑ってしまった。それこそ東京都内に私の声が聞こえてるんじゃないかってくらい。私の中でのストレス発散法はドラマを見て号泣することだったけれど笑うことでも効果があるらしい。心がスッと軽くなった。

「なに?いきなり怖ぇんだけど」
「ココくんは面白いね!」
「オマエの笑いのツボが分かんねぇわ」
「ふふっじゃあ今から一気します!」
「待て、それオレの飲みかけ!」

缶ビールの残りはおおよそ三分の一ほどだった。それを勢いのまま一気に煽る。いつもより全然飲んでいないのにふわふわとした気持になる。喫煙と飲酒って相乗効果あったっけ?そう思いたくなるほど今の私は自分でも少し変だった。

「ねぇ、むこう向いて」

だから突然の奇行に走ったことも大目に見て欲しい。

「は?なんで?」
「安心して。丸腰だから背後から襲ったりしないって」
「誰が酔っぱらいの言うこと聞くか」
「こんなんじゃ酔わないよ」
「風邪引くからもう中に戻んぞ」

リビングへと続く戸が開けられる。それでも私は動かなかった。いや、動けなかったのかもしれない。

「……わぁーったよ」

ずっと俯いていたからココくんがどういう顔をしていたのかなんて知らない。でもココくんの足が再び視界に入ってきて安心した。そしてその足は百八十度向きを変え私に背を向ける形で動かなくなった。意外と背中が広いなぁなんて感心して。私は一歩でその距離を詰めた。

「イテェ」

そして背中に頭突きを決めた。何度も言うが今日の私は少し変なので奇行に関しては大目に見て頂きたい。

「ごめん」
「謝んならやんな」
「怒った?」
「怒ってねぇよ」

よかったと心の底から安心して私は息を吐き出した。でもそれはため息なんかじゃない。自分の中の濁った感情を吐き出すような息遣いだった。

「三分だけ背中貸して」
「もう貸してんだけど」
「じゃあ延長で」
「高く着くぞ」
「一分千円までなら出す」
「ははっ」

ココくんの乾いた笑いが夜空に響く。

「金には困ってねぇし」
「ですよね」

それに応えるように私も小さく笑った。

「なら、一分毎にオレの飯一食作れよ」

それ意外と重労働だからね。自分がどれだけ食べるか知ってるの?まぁ基本的に多く作り過ぎちゃうから私にとっては都合のいい申し出かな。でもメニューを考えるのは大変だからリクエストはしてほしい。それと辛すぎても文句を言わないこと。この前スンドゥブ作った時のこと私はちゃんと覚えてるからね。まぁ全部食べてくれたけど。それからね、ココくん。これは一番大切なことだからよく聞いてね。

「ありがと」

ン、と小さな返事を耳にして。
私の瞳から涙が溢れた。



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