言葉足らず

椅子にラックにキャビネット、そしてクッションからラグまでもが取り揃えられている。そのテイストは人気のアンティーク調から定番のカントリー、相反ミックススタイルといった多岐にまで渡る。久しぶりに得た心躍る感覚に自分でも相当はしゃいでいることが分かった。そんな私の後ろを、同僚の彼女はくすくすと笑いながら着いてきた。

「珍しくテンション高いね」
「だってこんなにたくさんの家具を見たのは久しぶりで……あ、これってもしかしてイギリスの新ブランドのランプじゃない?」
「さすが!よく分かったね」
「SNSで見て気になってたんだ。わぁすごく細かい造り」

いいなぁ私も海外にいれば自分の目で見て気に入ったものを買い付けに行けたんだろうな。あの頃が懐かしい。ブランド家具ももちろんだけど一点物の手作り品やマーケットを見るのも好きだった。拙いイギリス英語で現地の人の話を聞いて自分の足で探し回った。あの路地裏の小さな雑貨屋さんは今もまだあるのだろうか。

「ねぇあっちのソファも見てよ」
「チェスターフィールド?あれ、でも革じゃない……?」
「そう、デニム生地なの!ヴィンテージとモダンが合わさった今時のデザインでしょ?」
「すごい!とっても素敵!」

私が買い付けたんだ、と続けた彼女の笑顔は眩しかった。そして、それが無性に羨ましかった。
私が国内の営業部門へ異動願いを出したのは二年前に祖母が倒れたからだった。その時は大事には至らなかったもののその後の検査で病気が見つかったのだ。祖母は「自分も年だから病気の一つや二つ普通よ」なんて笑っていたけれど私としては心配で。だから日本に帰って来た。



「ブリティッシュスタイルも日々進化してるってわけ。貴方もまた海外に行きたくなったんじゃない?」

行きたい。だってそのためにこの会社に入ったんだから。大手企業への就職に大卒は絶対条件。学費は親が持ってくれたけど留学費だけは頼りたくなくてバイトをいくつも掛け持ちした。そうして、やっとここまでこれた。でも、

「行きたいけど今はその時じゃないかな」

そのことを誰よりも喜んでくれたのは祖母だった。親が離婚して、私を引き取った母親もすぐに男を作って出ていった。それでも私が真っ当な人間に育ったのは祖母のおかげだ。私が家族と呼べる人はもう祖母しかいない。だから私がちゃんと最期までみてあげないと。

それにココくんのことだってある。ほら、あの人ちゃんと見ておかないと無茶するからさ。この前だって休みの日なのに部屋に閉じこもって仕事してた。私生活に干渉する気はないけれどさすがに睡眠くらいは取ってほしい。だからこの前なんかパソコンの充電器をこっそり隠しちゃった。

「そっか……あれ?社長⁈」
「皆お疲れ」

同僚の声に入口へと目を向ければ社長と秘書の姿があった。突然の登場に驚きつつも倉庫内に散らばっていた社員が入口へと集まってくる。この倉庫にはうちが海外から買い付けて来た家具が一時的に置かれている。今は来月オープン予定のショウルームに展示するものが保管されていた。今回のショウルーム展開は我が社でも力を入れているらしくかなりの投資がされている。そのため社長自ら足を運んだのだろう。

「——じゃあ予定通り来月のオープンまでしっかりね」

一通り倉庫内を一周すれば満足したらしい。他に何を言うわけでもなくただ立ち寄っただけのようだ。さぁ私もそろそろ仕事に戻るか。この後は会社に戻り先日通った企画の打ち合わせをする予定だ。

「君、ちょっといいかな?」

社長に声を掛けられ足を止める。冷や汗が背を伝った。なぜ私に声を掛けたのか。もしかしてあの反社の集まりに私がいたことがバレたとか……?でもそれはかなり前の話だ。今さら気に留めることもない。だからきっと、いち社員として私を呼び止めただけのはず。

「はい、何でしょうか?」
「この封書、悪いけど郵便局まで出しに行ってくれないか?」
「え?」

しかしあまりにも斜め上な申し出に、頭の中でクエスチョンマークが飛んだ。渡されたのは一通の角二封筒。それは自社の封筒であり、取引先の宛名がすでに印字されていた。 『資料在中』という赤文字以外に特に気になる点はない、ただの郵送物だ。でも何故こんなことを私に頼むのだろうか。郵便局はここから徒歩五分で行ける距離で、来る前に出すこともできたはず。というかそもそも、こんなことは秘書に頼めばいいのだ。

「それと今日はもう上がってくれていいよ。君、相当残業時間溜まってるでしょ?」

そこでさすがに違和感を覚える。社長が社員の労働時間を一人一人把握しているわけがない。曖昧に頷いてみたものの社長は人好きのよさそうな笑みを浮かべるばかりだ。そしてさらに言葉を続けた。

「私から君のとこの課長には言っておくから明日からは毎日定時に上がりなさい。それと希望があるなら内勤の部署への異動も通すから」

そんな事、私は何一つ望んでない。今回のショウルームオープンには私の出した企画も採用された。今日だってそのために倉庫に足を運んだし残り一ヵ月は休み返上で働いてやる気持ちでいた。それなのに、何故。

「社長、お気持ちは嬉しいのですが……」
「あぁそれと」

立ち尽くす私に社長が一歩距離を詰めた。そして私に聞こえるほどの声量で、本当に小さな声でぽつりと言った。

「九井さんによろしくね」

は?



就業のチャイムと共に会社を出て、その足でスーパーへと向かった。マンションの一階にもあるけれどあそこは基本的に値段が高い。庶民が未だに染み付いている私からすると毎回買うには抵抗があった。だから今日は特売の旗が目印のスーパーへ。店内を走り回る子供を避けながら食材を籠に入れ、レジへと向かう。会計時に鞄から財布を取り出せば、付け忘れることもなくなった結婚指輪が目に留まる。それを見て、主婦やってんなぁとどこか他人事のように思った。



「ただいま」
「あっおかえりー」
「なんかすげぇ旨そうな匂いする」

五品目の料理を作り終えたタイミングでココくんが帰って来た。料理を作っているときは他の事を考えなくていいからついつい作り過ぎてしまう。まぁでもこんな時に大食漢がいるのは心強い。

「時間あったからたくさん作っちゃった。食べれそう?」
「腹減ってるからよゆー」
「よかった」

テーブルに料理を並べて席に着く。しばらくは互いに無言で食べて、その内にぽつりぽつりと取り留めのない会話をする。それが私達の常だった。でもやっぱりココくんは自分の仕事については話したくないのか基本は私中心の話になる。そこでふと会話の途中で「そういえば……」とココくんが切り出した。

「もうすぐだっけ新店舗のオープン。オマエの企画が通ったっつってたの」
「あー……うん」

社長に言われたあの日以来、私は本当に定時に上がれるようになってしまった。自分に割り振られる仕事量も少なくなったし内勤での仕事が増えた。課長に理由を聞いても「部下の残業が多いと上に怒られるんだよ」と笑ってごまかされる始末。おそらく、いや絶対に社長が圧力をかけたに違いない。そして採用されたはずの私の企画も流れてしまった。

「家の事とか無理してやんなくていいからな」

自由な時間ができて最近では家事全般を私がやっていた。掃除とかゴミ出しとか、ココくんが帰ってくる時は今日みたいに夕飯も作った。取り決めたわけでもなければ私も自分がやると言ったわけではない。でも気付いてはいたらしい。

「それは大丈夫。実はうちの会社もついに働き方改革に目覚めたらしくてさ。残業時間ゼロを目指してるんだって」

でもそれらの事をココくんに伝えるつもりはない。だってそれはうちの社長が勝手に私を贔屓にして梵天に媚を売ろうとしているだけだし。下手にそれをココくんに伝えて気を使われるのも嫌だ。

「ンなのできるわけねぇだろ」
「まぁ所詮は努力目標だよ。でもさ、梵天も少しは見習ったら?」
「現実的にそれやるとオレへの負担は五倍になるな」
「闇よりも暗い黒だね」

まぁ私の会社も本当の意味で黒かったわけだけど。社長の私への接し方でそれが裏付けられた。梵天幹部の嫁ということがもっと周りに知れたら働きづらくなるのかな。それはちょっと困るなぁ……

その場は笑って誤魔化して食器の後片付けをする。その後は各々の時間でココくんは私室へ、私はお風呂へと向かった。これだけの用事を済ませてもまだ寝るには早い時間。この生活リズムには慣れないがお陰で今までは取り溜めしていたドラマもリアルタイムで見られるようになった。コマーシャルが飛ばせないのはむず痒いがちょうど最終回であったのでそのまま見続けた。

「意外とラストは感動したな」
「びっ……くりした」

いつからそこにいたのか。ソファの上でクッションを抱えていた私の後ろにココくんが立っていた。すでにエンドロールも流れきり、画面には『抽選でDVDボックスとサントラをプレゼント』というテロップが映し出されていた。

「いつからいたの?」
「十五分くらい前」
「あっじゃあラストのいい所だけ見たな!DVD買う予定だから最初からもう一度見てよ。感動が二倍になるから」
「気が向いたらな」

それは絶対見ないパターンだよね、知ってる。つれないなぁ、なんて言いながら再びテレビへと視線を戻そうとすれば「なぁ、」と声を掛けられた。どうやら私に用があったらしい。

「なに?」
「オマエは式とか挙げたい?」

しき、という単語が脳内で上手く変換できずにいれば「今みたいの」と付け加えられた。あぁ結婚式の事ね。最終回のラストシーンは皆に祝福された二人が教会でキスをして終わったのだ。

「急にどうしたの。誰かにやれって言われた?」
「いや、ただの世間話」

うーん……確かに憧れはあるがやりたいかどうかはまた別の話だ。友人の白無垢やドレス姿を見ると素敵だなって思うし、一日くらい自分が主役になれる日があってもいいと思う。でも式を挙げるとなるとそれなりに親族も呼ばなければいけないわけで、そうなると私は生憎一人も呼べない。また、披露宴だけとか二人で挙式のみ行うプランもあるらしいがそこまでしてやりたいとは思わなかった。

「あんまないかな。面倒くさい」
「ふぅん」
「なにその反応」
「別に。オマエらしいなって」

さいですか。ココくんにしては珍しく脈絡もない会話だったな。というかもしかしてココくんは挙げたい派なのだろうか。

「ココくんこそどうなの。結婚式は挙げたい?」
「オレは別に。相手次第」

相変わらず己に対しての自己主張が低いなぁ。でもこれって結局、愚問愚答だよね。まず前提として私達の間に恋愛感情なんてないんだから。

「じゃあバンジージャンプしながら指輪交換したいって言ったら付き合ってくれる?」
「誰がするか」

ほらね、私達の関係ってこんなもんなんだよ。



今日も今日とて定時上り。以前は毎日手帳を開いては打ち合わせの予定を確認していたけれど今はそれもない。内勤の仕事は同じことの繰り返しで曜日感覚まで狂いそうだ。でも悪いことばかりではない。定時上りができるようになって平日でも祖母の見舞いに行けるようになった。

「おばあちゃん、調子はどう?」
「特に変わりないわよ。貴方こそ最近平日も来てくれるけど仕事の方は大丈夫?」
「うん、今は閑散期なんだ。お花の水換えてくるね」

嘘をつくのももう慣れた。でも後ろめたさもあるから一度逃げるように病室を出た。
お水を換えて部屋に戻る。そこで改めてベッドの上を見れば見慣れないものが掛かっていた。

「そんなひざ掛け持ってたっけ?」

羽織にもなる大きさのそれは私が初めて見たものだった。白地に向日葵の花が刺繍されたガーゼ素材はとても肌触りがよさそうである。だが、これは一体どこで手に入れたのか。祖母が自分で買うわけないし、かといって病院から支給されたものとは思えない。

「これはね、一くんがプレゼントしてくれたのよ」

ふふ、と嬉しそうに笑った祖母に対し私は花瓶ごとお花を落っことしそうになった。なにそれ、そんなの私は聞いてない。

「いつ来たの?」
「えぇっと先週かしら。仕事終わりに寄りましたって言ってね」

ココくんがいつもの髪型で病院に来るはずがない。ということは予め準備をして来ていたってことだ。

「そうなんだ」
「それでこれをくれたのよ。私の好きな向日葵が描いてあるの、とっても素敵じゃない?」

——向日葵とか昔は裏庭で育ててたんだ——

そんな会話よく覚えてたね。あの時はまだ結婚もしていなかったのに。

「うん。よかったね」
「嬉しくって毎日使ってるのよ。それで貴方達はいつ結婚式を挙げるの?」
「えぇ?急にどうしたの?」
「急って結婚したら式は挙げるものでしょう?私は今から楽しみにしてるのよ」

なるほど、そういうことね。ココくんが突然あんなことを言い出したのも祖母が原因か。それならそうと言ってくれたらよかったのに。
祖母の気持ちは分かるしもちろん嬉しい。でもココくんにそこまで付き合わせるつもりはなかった。

「あのね、お互い仕事も忙しいしまだできるか分かんないから」
「またそんなこと言って!老い先短い年寄りの願いくらい叶えなさいな!」
「ちょっと滅多なこと言わないでよ!」

その悪い冗談、聞いてるこっちは笑えないんだって。
でもその冗談が現実味を帯びていることも事実だ。病気は良くなることもなくずっと延命治療の状態。先月辺りからは薬の量も増やしたと聞いている。できるだけやれることはしてあげたいが一体どこまでできるのやら。

「式場のパンフレットも取り寄せとくから今度は二人で来なさいね」

そもそもその結婚すら嘘だけど。それが知れたら祖母は悲しむのだろうか、それとも呆れるのだろうか。どちらにしろここまで来たら戻れない。
分かったよ、と叶えられない約束をして私は祖母の元を後にした。



連日の定時上りのおかげで肉体的には随分と楽になり肌にも艶が戻ったように思える。しかし仕事に対する喪失感に襲われパッとしない毎日が続いていた。明日も休日返上でショウルームのオープンイベントに参加する予定だったのに私だけが休み。バラエティ番組を見ても笑えないし、好きな韓国ドラマを見ても内容が頭に入ってこない。お酒も苦いだけで美味しいとは感じられなくなっていた。

「寝れない……」

そして時刻は夜の一時を過ぎたのだが疲れていないのか全く眠気が来ない。相棒のテディベアを抱きしめ右へ左に寝返りを打っても目は冴えていくばかり。もうどうしようもないので気分を変えるためにキッチンへ水を飲みに行くことにした。

「まだ起きてる……?」

リビングに行くためにはココくんの部屋の前を通る。そこで何やら声が聞こえた。どうやら電話をしているようである。相変わらずの社畜具合。でもそれが今では少し羨ましい。そんなことを思っていれば「はぁ⁈」と大きな声が聞こえて肩が跳ねた。一体何事か、と思わず扉に耳を付けて会話を盗み聞く。

「なんで…ざけんな……他の奴を…」

しかし残念ながら会話は途切れ途切れでしか聞こえない。ただ何やらお困りのようだ。
時間にしておおよそ十分ほどだろうか。通話が終わったであろうタイミングで私は扉をノックした。

「ココくん、ちょっといい?」
「どうした?」
「いや、電話してる声が聞こえてさ。なんかあったのかなって」
「聞いてたのかよ」
「聞こえちゃったの。私でよければ何か手伝おうか?」

ココくんは少し迷っているようだった。でも私が促せば「実は……」と切り出してくれた。曰く、明日の商談で来る予定だった通訳の人が来れなくなったらしい。商談の内容が内容なだけに表≠フ人間を雇うわけにもいかない。

「じゃあ私が——」
「ダメだ」

それなら役に立てるかも、と思ったのに秒で断られた。確かに私では不安はあるかもしれないけれどビジネス英語もそれなりに分かっているつもり。それによくよく聞けばココくんも英語はできるから補助的な意味で通訳を付けるつもりでいたようだ。

「経済用語も頭に入ってるし商談の取引経験もあるよ」
「そういう問題じゃねぇよ」
「もしかして私が梵天の情報を漏らすと思ってる?」
「ますます違ぇ」

もっと頼ってくれていいのに。それかどこがダメなのか教えてよ。理由が分からないと自分に価値がないような、そんな風に思えてくる。だからこの時の私は簡単には引き下がらなかった。多分、誰かに必要とされたかったんだと思う。

「足は引っ張らないよ」
「っつーか、明日が新店舗のオープンなんじゃねぇの?こっちに構ってる暇ねぇだろ」
「店舗スタッフに引き継ぎもしたから私は休みなんだって」

自分でも驚くくらいするりと出た嘘に助けられる。でもココくんは相変わらずいい顔をしない。自分の掌をぎゅっと握れば汗で湿っていた。そして結局折れたのはココくんの方だった。

「なら今回だけ頼むわ」
「うん」

緊張を緩めるように息を吐き出したココくんに私は笑顔で頷いた。ほっとしたのは自分の尊厳が守られたからなのか。それとも久しぶりに人に必要とされたからか。きっとどちらも答えだ。
ここまで私は選択肢を間違えずに来れた自信があった。嘘をついて、愛想笑いで誤魔化して。あんまり良くないことかも知れないけど誰に迷惑掛けるわけでもないしまぁいいかって。でも神様はみてるんだね。その報いが来てしまったのかもしれない。



「おい行くぞ」
「あっちょっと待って」

ココくんと二人で家を出て目的地に到着する。そして車からちょうど降りた時、スマホが着信を告げた。病院からの電話。嫌な予感しかしなかった。

「こっから先は録画も録音も禁止な。だから疑われねぇようにスマホの電源は落としとけよ」

先を行くココくんとスマホを交互に見る。電話に出なければいけないことは分かってた。でもここへ来ることは自分から言い出したんだし、今更迷惑はかけられない。

「……分かった」

未だに着信を知らせるスマホの電源を私は静かに落とした。



以前はあんなに渋られた有給休暇もあっさり取得することが出来た。そして三日連続で病院へと足を運び、今日は医師からの話も聞いていればすっかり遅くなってしまった。
薄暗くなった待合室を抜け外へと出る。そしたら不自然な場所に一台の車が止まっていた。それは紛れもなくココくんの車で。私が出てきた瞬間にクラクションが鳴らされてしまえばそれは確信に変わるしかなかった。

「なんでここにいるの⁈」

走って車まで向かい、そのままの勢いで助手席に乗り込んだ。そして改めてココくんを見れば非常に機嫌が悪そうだった。

「オマエこそなんでいんだよ」
「いつも通りおばあちゃんのお見舞いだよ」

その言葉に嘘はない。でもココくんの機嫌は悪くなるばかり。表情は変わらなくともこれだけ長く一緒にいればそれはすぐに分かった。

「もう面会時間終わってっけど」
「ちょっと手続きとか色々あって……」
「集中治療室に運ばれたんだろ」
「……っ!」

でもそれはココくんも同じだったらしい。私の隠したかったことがバレた。何故そのことを知っているのだろうか。ココくんにも話していなければ会社にも伝えていないことだ。有休も、私用の為という理由でしか報告していない。だから絶対に知られるはずないと思っていたのに。

「うん。でももう意識も回復したし明日には一般病棟に戻れるってさ」

私はやたらと緊張しながらそれに応えた。顔を見なくてもココくんが相当怒っていることが分かる。車内の空気は重く酸素濃度も薄いように思えた。

「なんで黙ってた?」
「急だったから連絡する暇なかったんだよ」
「病院から連絡あったのはもっと前だろ。オレがオマエに仕事を頼んだあの日のはずだ」
「あ……」

ココくんの情報網を舐めていたかもしれない。もう誤魔化せないし嘘をつくのはもってのほかだ。私は左薬指の指輪が食い込むくらい強く拳を握った。

「あの日、病院から脳出血で倒れたって連絡があったの。私が病院に折り返しの電話を入れた時にはもう手術は終わってた」
「病院から電話があった時点でオレに言えよ。万が一があったら一生後悔すんだろ」

死に目に会えなかったら、と言いたいのだろう。それに関して私はココくんに返す言葉もなかった。今回は本当に運が良かっただけでその万が一が起こる可能性も十分にあった。私はあの時選択肢を間違えた。ココくんから言われなければその間違いにすら私は気付けなかったかもしれない。

「ごめん……」
「オレに謝る事じゃねぇだろ」

またしばらく無言が続く。ココくんに促されたわけではないけれどその沈黙が痛くて私は再度口を開いた。きっとこれも、いつかはバレるだろうから。

「実はその手術の時に脳腫瘍もあることが分かったんだ。そのことでこれからの治療方針について先生と話してた」

思ったよりも祖母の体はぼろぼろだった。看護師さんの話を聞けば私が来る時以外はほぼ寝て過ごしているらしい。以前は好きだった散歩にも行かなくなり車いすでの移動も増えたのだとか。延命治療をするのか、緩和ケアに切り替えるのか。私も真剣に考えなければならない。

「いくら掛かんだ?」
「え?」
「治療費。オレが負担する」

一体どうして今の会話でその流れになったのか。確かにココくんも祖母のことを知っているから気にかけてくれているのかもしれない。でもこれはあくまで私と、私の祖母の問題だ。

「ココくんがそこまでする必要はないよ」
「どういう意味だよ」
「結婚するときの契約にそんなことは含まれてなかったでしょ」
「そうじゃねぇ。これはこの前オレの仕事に着きあった分の報酬だ」
「ちょっと待って。いくら掛かるか分かってるの?」
「いくらでも出す」

簡単に言わないで欲しい。その治療費は何百万……下手したら何千万という額なのだ。もしかしたらココくんにとってははした金なのかもしれない。でもそんな大金、どんな理由を付けられたって受け取れない。

「大丈夫だから」
「四千万あれば足りるか?」
「だからいらないって」
「他にアテもねぇだろ。困ってんなら少しは頼れよ」
「……私がいつ助けて欲しいって言った?」

自分の中で何かが切れる音がした。それはピアノ線よりも細くて、絹糸よりも繊細なものだった。

「そういうの、私は望んでないの」

同情か、情けのつもりか。本当にいい迷惑。私は一度だってそんなこと言ってない。自分の力で生きていくって決めたんだから人に頼りたくもない。ココくんなら私のそういうところも分かってくれてると思ってたのに。

「なに意地張ってんだよ」
「余計なお世話なんだけど」
「は?なんだよその言い方」

人と関りを持つとき、私はその人との距離≠決める。例えば職場の人にはどれくらいプライベートを話すのかとか、友人に恋愛ごとの相談はどこまでするのかだとか。でもどんなに親しい友人であっても、たとえ祖母であってもその距離がゼロになることはない。何故ならそこに私が高い壁をつくっているから。

「ココくんには関係ないでしょ」

防衛本能とでも言うべきか、その壁に触れられて私はすべてを排除しようと思った。同情も情けも、気遣いも厚意も。そしてやさしさも。ぜんぶいらない。

長いラリーの言い合いに、先に根負けをしたのは向こうだった。降参だとばかりに額のところを手で支え窓ガラスに頭をもたれさせている。僅かに罪悪感が込み上げもしたがそれは見て見ぬふりをした。感情の殺し方はよく分かっている。

「むかし、」

私はフロントガラスの先を見ながら耳だけをココくんに向けた。どんな表情をしているのかは分からないが体勢は変わっていないようなので結局は見えなかったと思う。でもなんとなく想像は出来てしまった。

「金がなくて手術が受けれず亡くなった人がいんだよ」

その人がココくんとどういう関係であったかは分からない。ただ、気にかけてくれた理由は分かった。でもそれなら尚更私達のために使うのはおかしい。ココくんが貯めたお金ならそれは自分のために使うべきだ。それか自分の大切な人のために。私とココくんはそこまで深い間柄でもない。今あるのは名義上の関係だけだ。

「ココくんの気持ちは分かった」

でも私にとってはその程度の関係が一番心地よかったんだ。仕事以外の話しが出来て、一緒にいて楽な人がいい。一人で食べるご飯は味気ないから「美味しい」を共有できる人が欲しかった。何かしてほしいわけじゃない。でも同じ家に住んでるだけで私は独りぼっちじゃないんだって感じられる。それだけで十分だった。干渉し過ぎず、され過ぎず。そんな距離感がちょうどよかった。

「それなら、……」

でもやっぱり難しいね。

「慈善活動したいなら他当たってくれる?私には必要ないから」

もうこの関係も終わりかな。


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