この度、苗字が九井になりまして

住所はバレない方がいいかと思い、出来上がったアルバムは取りに行くと伝えていた。そして撮影から二ヵ月後、ようやく向こうからの連絡があり私はフォトスタジオへと向かっていた。



「あの、ごめんください」
「いらっしゃいませ!」

しかしスマホ片手に辿り着いたその場所は私の想像とは違っていた。一軒家の敷地の中にアトリエのような形でもう一つ小さな建物がありその壁面にスタジオの看板が掛かっていたのだ。だからつい、人の家にお邪魔するような声の掛け方になってしまった。

「この度は無理を言ってすみません」
「とんでもないです。お客様に直接お渡しすることが出来て私共も嬉しいですから」

当日にも顔を合わせた女性が快く中へと案内してくれた。撮影をお願いしたのは私がSNSで探した個人経営の業者であった。大手のフォトスタジオでは直近の日にちでの撮影は難しい。だから最短で撮影とドレスを用意してくれるところを探した。

「すごく綺麗なスタジオですね」

外観の割に中は意外と広かった。バックスクリーンが張られた撮影スペースはもちろん、スタジオとも言うべきかウッドインテリアでつくられた空間があった。木目の表情を捉えたアイボリーの壁を背景に観葉植物や流木で作られたインテリアが飾られている。そして天井から吊るされた木製のランプシェードからは十分な拘りが感じられた。職業柄なのかついついそんなところに目がいってしまう。

「ありがとうございます。実はここの内装は私が作ったんですよ」
「え⁈そうなんですか?」
「はい。こういう風に自分の好きなものを詰め込んだ空間を作るのが夢で……」

話を聞けば彼女が衣装や小道具担当で、旦那さんが撮影担当らしい。そして二人とも元は普通の会社員でそれぞれ仕事を辞めてフォトスタジオを立ち上げたのだとか。テレビではよく聞く話だがまさか実際にそういう人に会えるだなんて思いもよらなかった。

「話が長くなってしまいすみませんでした。そしてこちらが出来上がったものになります」

アッシュ材でできたダイニングテーブルへと案内されアルバムを受け取る。パラパラとめくれば見たこともない表情がいくつも切り取られていた。それは普段の様子からはとても想像できないもので思わず頬が緩む。でもやっぱり恥ずかしかったから一通り見てすぐに閉じてしまった。

「どうでしたか?」
「満足です。素敵な写真をありがとうございました」
「よかった。あと、これは私達からのプレゼントです」

机の上に置かれたのは一枚のDVD。カメラ撮影だけかと思いきや映像としても撮っていてくれたらしい。そんなサービスがあったのかと驚いていれば、先ほどの会話で少し距離が縮まった彼女の口から「練習なんです」と本音が零れた。まだムービーの撮影経験が少ない旦那さんが写真撮影後に録画を回していたのだと。

「もしよければ口コミサイトへの書き込みもお願いします」

そして最後にはちゃっかり宣伝もお願いされてしまった。商売がうまい。でも初めたての個人経営者ならこういう地道な努力が必要なのかもしれない。スタジオを後にし同封されたチラシを見る。裏を返せば店のSNSのQRコードが印刷されていた。そうか、こういう世界もあるのか。

「よし、決めた」

私は来た道とは反対方向へと歩き出した。



各々の時間を過ごす二十三時十二分。お気に入りの韓国ドラマを見終わった私はテレビ台の下へそのDVDを片付けていた。収納スペースの端にはこの前フォトスタジオからもらったDVDが寂しく一枚だけ置かれている。アルバムはココくんにも見せたもののこれは私が恥ずかしいのもあってここに隠してしまった。

「今日はもう見ないわけ?」

後ろを振り返ればココくんがちょうどリビングに入ってきたところだった。この時間に家にいるのは最近では珍しい。でもだからこそ今がチャンスだと思い私は意を決して立ち上がった。

「今日はもういいの。あのさ、今ちょっといいかな?」
「いいけど」
「話したいことがある」

そう伝えれば一瞬ココくんの表情が固まった。そして一拍の間の後「オレも」と付け加え一度自室へと戻っていった。その様子に首を傾げつつ私はキッチンでお茶を準備する。この時間に飲んでも眠れるようにカフェインのないハーブティーにした。そして二つのマグカップを机に並べ終えた頃、ココくんが戻って来た。

「話ってなに?」
「いや、ココくんから先に話して」
「オマエが先に言い出したんだろ」
「私の話は長くなりそうだから。それにそっちが気になって」

ダイニングテーブルに向かい合って座り、私の視線はここからでは見えないココくんの膝の上へ注がれる。そこには自室から取って来たクリアファイルがあった。それがあったから、きっとココくんの話というのは仕事のことだろうと思った。通訳とか同行とか、そんな感じのこと。それなら先に話してもらおうと軽い気持ちで言った。でもこれから話されることは私の予想だにしないことだった。それに気付いたのは目の前に差し出された紙を見た時だ。

「これ」

緑の枠線で書かれたA3サイズの用紙は恋愛ドラマ好きの人間なら誰しも一度は見たことがあるだろう。婚姻届の場合は可愛らしいデザインのものもあるけれどこちらに関しては一種類しかないのだから。

「離婚届……?」

夫の欄には記載と捺印までもが済まされており、ご丁寧に証人の記入も済んでいた。あとは私が埋めれば完成する。ココくんの様子を伺えば、彼もまた離婚届を見ていた。目も合わせてもらえない。だからこれは悪い冗談なんかじゃなくって本気で言っているのだと分かった。

「私はココくんに何かした?」

まぁもう散々した後なんだけどね……そう自嘲気味に笑ってはみたが表情筋も動かなかった。今まで人をフッた経験も、フラれた経験もあるけれどそれは全て喧嘩別れだった。だからこんなにも静かに別れ話を切り出されたのも初めてでどう反応すればいいのか分からない。

「違う」
「じゃあなんで?」
「オマエがオレに付き合う理由はもうねぇだろ」

そう言ってもう一枚の紙が差し出された。それはあの日、私が婚姻届と共ににサインをした契約書だった。その内容を改めて見ると懐かしく思えてくる。『妻としての役割が必要になったときは協力すること』と記された文章は確かに最初に交わした契約事項だった。そしてその見返りとして私は住む場所と生活費の一部をココくんに負担してもらう。

「こっちはもう必要なくなったろ」

ココくんの左手が伸ばされトン、と長い指が一文を指し示した。契約書の一番下、その文章だけはボールペンで書かれていた。だってそれはサインをする直前に私がココくんにお願いをした内容だったから。

「『祖母の見舞いに付き合うこと』これをオレはもう守れない」

これは私にとって何よりも重要な内容だった。住む場所も生活費も、実のところ一人で工面することはできた。節約しようと思ったのも結局は祖母の今後を考えた時にお金が必要だと思ったからだ。きっとココくんもそのことには気付いている。だから私に利点がなくなったのだと言いたいのだろう。でもそれなら……

「ココくんは私がいなくなって困らないの?」

少しずるい聞き方をした自覚はあった。でもそれが本音だった。そもそもこの関係はココくんの提案から始まったのだ。仕事の取引の関係で婚姻の事実が欲しいと。だからこの関係がなくなって困るのは私ではなくココくんの方だ。

「例の中国マフィアの連中とはもう協定を結ぶことが出来た。今さら別れたところでケチなんざ付けてこねぇよ」

そう言われてしまえば私は何も言えなくなってしまう。でもその事実に納得できない自分もいる。私の中でココくんはもう十分大きな存在であるというのに、ココくんにとって私はその程度なのかと理不尽にもそう思ってしまったのだ。でもそれを言う権利は私にない。だってそれは私の独りよがりだから。

「それと、」

黙ってしまった私に対しココくんは話を続ける。一度言葉を切って、そして私と目が合ってから静かに口を開いた。

「オマエの未来に迷惑を掛けることになる」
「え?」

その意味が理解できずにココくんを凝視する。そうすれば気まずそうに目を逸らされてしまった。しかし流石に自分でも説明不足だと思ったらしい。その薄い唇が再び開かれた。

「やりたい仕事ができなくなったのはオレのせいだろ」

ああ、そういうことね。そんなのココくんが気にすることじゃない……って言っても気にしちゃうのがココくんだよね。というかそれが一番の理由で離婚を切り出されたのだろうか。私って意外と大切にされてたのかなぁなんて自惚れて。まぁそれは兎も角として、それが理由であるならば私の話も聞いて欲しい。

「その事だけどもう退職したから大丈夫」
「大丈夫なわけねぇだろ。このままだとずっと……は?」
「仕事辞めた」
「はぁ⁈」

すごい、過去一ココくんが驚いている。そんなに目を大きく見開けるんだね。ちょっと幼く見えて可愛いよ。でも今の状況でそれを言ったら光よりも速い手刀を決められそうだから言わないでおくね。

「辞めさせられたの間違いだろ?」
「違うって、自分から退職届出したの」
「なんで?」
「あそこでやりたい事がなくなったから」
「だからそれは……!」
「ストップ!私の話を聞いて」

ココくんの前に左掌を突き出して待ったをかける。ちゃんと説明したいから私の話を聞いて欲しい。言わなきゃ伝わらないってのはもう痛いくらいに分かってる。だからちゃんと話をさせて。

「私さ、子供の頃オモチャは他の子よりもたくさん持ってたんだ」

授業参観に行けない代わりに、テストでいい点を取ったご褒美にと、何かにつけて両親は私に物を買い与えた。二人とも海外出張も多かったからその大半は外国製のもの。ビビッドカラーの木製パズルにパッチワークのぬいぐるみ、明かりが灯るキッズテントに相棒だってそうだ。今では簡単に手に入るけど当時は珍しいものだった。それらは私が本当に両親から欲しかった物ではなかったけれど、私に夢を与えてくれた。年齢が経つにつれ、その対象がオモチャから雑貨へ、そして家具にまでなって。そして自分の目で見て、もっと多くの人に新しい物を知ってもらいたいって思った。

「でもそれってあの会社にいなくてもできるよね」

フォトスタジオの女性を思い出す。そして彼女だけではなく今や個人的に仕事をしている人などザラにいる。ネット販売も主流の時代、自分の作ったものをオンラインで販売する人もいればSNS上で自身の買い付けた商品を紹介している人もいる。一番身近にあったはずなのに、その世界に私は気づけていなかった。

「独立しようかなって。といっても店を持つわけじゃなくてネットを介して輸入家具を取り扱う仲介人みたいな仕事になるんだけどね」

上手くいかないかもしれない。でもやってみないことには始まらない。それに先が分からない方が楽しそう。ほら、人がときめくのは結末を知らないからだって私の好きなドラマで主人公も言ってたし。

「オマエはそれでいいのかよ」
「私がそうしたいの」

他の人になにか言われたわけじゃない。これは私が自分で決めたこと。だからココくんが責任を負うこともない。寧ろ、決断させてくれたことにお礼を言いたいくらいだ。

「だから、これって書く必要あるかな」

ココくんが先ほどしたように、私も人差し指でトンと離婚届を叩いた。その左手には結婚指輪が光っている。ダイヤモンドが隙間なく並べられているせいか、その輝きは貰った日から何一つ変わっていなかった。

「こっちは犯罪者なんだよ。オマエが堅気ならこれ以上関わんな」

その言葉に、今までばらけていた事柄が一つ一つ繋がっていく様な気がした。その真意に気付き思わず頬が緩む。確かに世間的に言ってしまえばココくんは法で裁かれることをしている。でもそれなら私は何度だって言ってあげる。私にとってココくんは『犯罪者』ではなく『中学の同級生』で、そして『旦那さん』だ。しかし、私の中でずっと引っかかっていたことがあった。

「その返事をする前に教えて欲しいことがある」

私の記憶の中の『九井一』は、中二のときに同じクラスで、ココくんってあだ名で呼ばれていて、そしてとても勉強ができる子だった。でもそれはあくまで学校にいるときの姿で外では不良グループとつるんで悪いことをしていた。この認識については間違ってないはずだ。

「ココくんのことで、私は何か忘れていることがある気がする」
「気のせいだろ」
「私の目を見て言って」

でも学校でのココくんはやっぱり優等生だった。だから彼が実は裏で犯罪めいたことをしているなど、ただのクラスメイトが気付けるわけがなかったのだ。

「忘れてんならその方がいいこともあんじゃねぇの」
「ココくんとの思い出に知らなくていいことなんてない」

今までどれだけ私が助けられたか。でもそれって再会してから始まったことじゃない。確かもっと前にも助けてもらったことがあったはずだ。その記憶を追おうとしたけれど私だけでは思い出すことができなかった。
私がひかない様子に、やはりココくんの方が先に折れた。そして記憶を辿る様に「電話を貰ってすぐに調べた」と再会した時の話を切り出した。

「そんであの会社の社員名簿にオマエの名前を見た時、またバカなことやってんなって思った」

——あぁ、そうか。あの頃の私を知ってたんだね。
ココくんが学校で優等生であったように、私も優等生だった。そして外では犯罪めいたことをしていたように私も外で悪いことをしていた時期があった。それはちょうど中学三年に上がって直ぐくらいから。

「アルバイトしてたこと?」

中学生がバイトなど普通に考えたらできっこない。でも私は化粧をして年齢を偽って働いていた。ただそこは例え高校生であってもアルバイトをするにはよくないところだった。

「場所覚えてんの?」
「あんまり」

思い出されるのは大きな音と目に痛いほどのカラフルな照明。そして酒と煙草と人の欲望が満ちた、空気の悪い所だった気がする。

「VIPも通う会員制のクラブな」

断片的の記憶を辿っていく。確か父親の財布から名刺を抜き取ってそこに行ったんだ。あまりよくない場所であることは分かったけど、だからこそ給料はいいと思った。

「オレもよく行ってた場所だ。悪い大人相手に話をするにはうってつけの場所」

そのクラブが取引の場として使われていることは知っていた。行き交う札束と契約書、怪しい薬にトイレに捨てられた注射器。当然ながら他言無用は暗黙の了解だ。

「私が付いたテーブルにココくんもいたよね」

付く、といってもキャバクラとは違うから役割としてはウェイターに近い。VIP席の客につきオーダーを通して運ぶ。でも粗悪な人が集う場所でそんな単純業務だけで済まされることはなかった。

「あん時はびっくりしたわ」
「テキーラ一気してたから?」

ただ先に言わせて欲しいのは体は売ってないってこと。中学生の体など貧相にも程がある。まぁだからその分体は張っていた。私がお酒に強いのは当時あのクラブで働いていたからかもしれない。

「覚えてんじゃねぇか」
「思い出してきたんだよ」

人は自身が健やかに生きていくために辛い記憶の一部を無意識的に抑圧することがあるらしい。その自己防衛とも取れる心理状態、それに敢えて病名を付けるとしたら『解離性障害』だ。

「同じ学校の奴に会うとは思わなかったわ」
「化粧して雰囲気も変えてたけどよく分かったよね」

ココくんとの記憶が曖昧なのもおそらくそれが原因だ。中学三年の頃、私は人生で一番落ち込んでいた。親の離婚騒動で家はめちゃくちゃ。あそこに帰りたくなくて、早く自立したくてお金を貯めようともがいていた。

「前にも言ったろ。オマエは目立つんだよ」
「学校では地味だったよ」
「見た目の話をじゃねぇ」

私が口を挟む前に、ココくんはさらに言葉を続けた。

「一歩離れて周りを見てるとこ、同い年にしてはどこか冷めてて人生つまんなそーにしてる感じ。それがよく目についた」
「それってココくんも同じでしょ」
「ハッ確かに」

そこでようやく私達の表情が緩んだ。二人しかいないのに、どこか内緒話をするようにくすくすと笑いあった。

「似てんなって思った。だからこそ、」

そこでココくんは一度言葉を区切った。

「オレみたいに道を踏み外して欲しくなかった」

あのクラブでココくんと何度顔を合わせたかは覚えていない。それは自身の記憶の改変とアルコールによる酔いのせいだと思う。でも一つ、はっきりと思い出したことがある。当時、トイレで嘔吐している私の背を撫でてくれた人がいたってこと。

「私はさ、ココくんと夫婦でいたいって思うよ」

同じ家に帰って同じ空間で過ごす。楽しいことがあったら一緒に笑って、嫌なことがあったら愚痴を聞きあうの。何もなくても何気ない出来事を共有したい。あいさつ一つ取ってもそうだ。家に帰ったときの「お疲れ」の言葉が「おかえり」に変わったのはいつからだっただろうか。

「それに私はまだココくんに恩返しができてないし」
「十分仕事手伝ってくれたろ」
「そういうことじゃない」

そんなの誰にだってできるでしょ。私の代わりなんていくらでもいる。でもココくんが本当はやさしいのに不器用な行動しかとれないと知っているのは多分私だけだ。それなら私は、

「ココくんの支えになりたいって思う」
「関わんねぇ方が身のためだぞ」

今さら遅いよ。私の電話を取った時点できっと逃げられない運命だったんだよ。いや、そんなロマンティックな言葉よりも因果って言った方が伝わりやすいかな。現実主義者な私達には。

「語学力もあって反社にも理解がある。それに家族もいないようなもんだから柵もないし付き合いやすい。こんな優良物件この機を逃したら一生出会えないよ」

プレゼンテーションの基本はそのものの良さを説明するところから。誰だって粗悪な品物なんて買いたくないでしょ。

「今なら住む場所の提供と生活費の一部負担で手に入ります」
「後悔すんぞ」
「後悔先に立たずってことわざご存じない?」

ココくんは笑ったような泣いたような顔をする。だから私は一歩も引かずにアプローチを続けた。後悔はしたくなかったから。
そしてついにココくんは観念したように口角だけを上げて笑った。

「オマエはオレの色々な物を壊していったな」
「私の過去の二つ名を覚えてないの?」
「クラッシャー」
「正解」

渾身の自虐ネタはどうやら効果ばつぐんのようだ。つまり、これが決め手だった。

「もう後戻りは出来ねぇからな」
「ココくんこそ私の事クーリングオフしたいだなんて言わないでよね」
「ハッ上等」

そう笑ってココくんが手を伸ばす。目の前の紙は二枚とも破り捨てられた。



これからの出会いにどうしたって夢を見てしまう。だから空港はいつ来てもわくわくしてしまうものなのだ。

「クソッまたかよ。悪い、少し外す」

コーヒーショップの列に並んでいればココくんのスマホが鳴った。因みに空港に着いてからこれで三回目。一週間は休みを取ったと言っていたのに初日でこれは思いやられる。それを待つ間にSNSを立ち上げればまた一人フォロワーが増えていた。開設してから一ヵ月余り、まだ今後の方針についての告知画像しか投稿できていないが興味を持ってくれるのは嬉しい限りだ。でもこれでようやくフォロワーは二桁。まだまだ先は長い。

「あーマジでクソ」
「おかえり。大丈夫そう?」
「くだンねぇ電話だった。ったく必要な資料は全部作ったってのになんで分かんねぇんだよ」

目頭を押さえて息を吐き出したココくんに掛ける言葉もない。そしてココくんと入れ替わるように今度は私のスマホが鳴った。+39で始まる電話番号は今から行く国を表していた。一言断りを入れてその場を離れる。「いつものでいいか?」と聞かれたので、二つ返事でお願いした。

電話の内容は急用ができて会う日を変更してもらえないかとのことだった。その人には現地の民芸品を扱っている工房を見せてもらう約束をしていたのだ。でもこちらとしては問題ない。滞在期間にも余裕があるし、何よりこの旅行の最大の目的は実のところ他にあったから。

「ごめん」
「何だった?」
「日程ずらしてほしいってさ。明後日じゃなくて四日後になった」
「そ。じゃあ先に行けるな」

とっておきの場所を紹介するという約束は意外にも早くに実現した。私の今後の仕事のことも考えると確かにタイミングがよかった。だからココくんがスケジュールを調整し今回の旅行が計画された。

「今さらだけど場所は結構田舎だよ?つまらない場所かもしれないけどいいの?」
「うるせぇ場所よかいいんだよ。ン」
「ありがと」

代わり買ってきてくれた飲み物を受け取る。私はお礼だけを言ってカップに口を付けた。そしてそれを一口含む。でもそこでおや?と首を傾げた。

「なんか違う……?」
「スゲェ、よく分かったな」

舌が肥えている、というよりはある種の中毒症状かもしれない。ブレンドコーヒーを頼んだはずだったがデカフェに変更されていた。間違ってはないんだけど合ってもいないんだよなぁ。

「どうせ機内でもコーヒー飲むだろ。カフェイン控えろよ」

相変わらず痛いところを突いてくる。でもアル中でもなければニコ中でもない。ましてやヤク中でもないんだからそんな神経質にならなくても。でも買ってくれたものに文句は言えない。ただそこでココくんが私と同じカップではないことに気が付いた。マーカーのチェックの場所が違う。

「ココくんのは?」
「ソイラテ」
「ひゅーさっすが。その女子力分けて欲しいな」
「ンなら見習え」
「来世でね」

搭乗ゲートの中に入り空いていた席に並んで座る。そしたらまたもベストなタイミングでスマホが鳴った。ココくんの顔が面白いくらいに歪んで絶望の色に染まる。そしてその口からは「またかよ」という本日n回目となる言葉が発せられた。そしてこれまたn回目の「悪い」発言。正直もう聞き飽きたかな。だからこそ席を立とうとしたココくんの手からスマホを奪い取った。

「なっ⁈おい何やってんだよ!」
「もしもし」
『おい、先日の顧客リストは……あ?誰だテメェ?』
「一くんの妻です」

隣にいるココくんを差し置いて私はスマホに向かって淡々と会話を続ける。

『そぉかよ。ンなら早くダンナに代われ。必要な資料が見当たんねぇ』
「それならクラウドに全部置いてあるみたいですよ。確認してください」
『なんでオマエがそれ知ってんだぁ?』
「隣にいる主人がそう言ってました。これでもう大丈夫ですよね?なら休暇中はもう連絡寄こさないでください」
『アァ?なんでテメェに指図されなきゃなんねぇんだよ!』
「今から新婚旅行なんです。お土産は買ってくるので善処してくださいね、それでは」
『おい、待——』

はい、これで会話は終了です。私は躊躇わずに終了ボタンをタップして、すぐにスマホの電源を落した。ビジネスマナーとしては最低なやり取りではあるがこっちはあくまで休暇中だ。少しくらい大目に見て欲しい。

「はい、これ返すね」
「あ、あぁ……っつーかオマエよく言ったな」

黒き石板と化したスマホをココくんに返す。そんなに褒めなくてもいいよ、と言えば呆れたようにため息をつかれてしまった。あーはいはい、分かってるって。もう連絡するなって言ったことでしょ?確かに言い方はきつかったかも知れないけどあれくらい言わないと伝わらないよ。それに、そろそろココくん離れさせるためにもはっきり言った方がいいんだって。

「いや、そこじゃねぇよ」
「そうなの?それならお土産買ってくるってところ?」

そういえば職場の人たちとは仲良くないんだっけ。でも形だけでも買って帰った方がいいんじゃないかな。休暇中に連絡を寄こすのは許せないが、休暇中に多少なりとも仕事で迷惑を掛けるのも事実。

「新婚旅行っての」
「あーそっち?」

手に持ったカップを再び傾ける。口の中が乾燥しており、一気に五分の一ほど飲んでしまった。

「びっくりした」
「あれくらい言った方が効果があるかと思って。まぁそこまで深い意味はないから安心してよ」

そしてまたすぐにカップに口を付けた。すでに味はブレンドコーヒーなのかデカフェなのかよく分からなかった。何度か同じ動作を繰り返し味の分からなくなったドリンクを飲みほした頃、フロアにアナウンスが流れた。それは飛行機の搭乗時間を教えてくれた。

「じゃあ行こうかココくん」

空になったカップ片手に立ち上がればそれをココくんが掻っ攫っていった。スマホを奪い取る私も大概だが、ココくんも中々に同じことをするよね。お礼を言ってゴミ箱へと向かうココくんを追いかける。

「その呼び方いい加減直せよ」
「え……?」
「オマエも『ココ』だからな」

あぁ、そっか。でもそれは中々に難しい。今までは必要な時は意識して呼び方を変えていたけれどそれを日常的にやるとなるとまた勝手が違ってくる。

「善処するよ」
「間違えるごとに罰金一万な」
「ちょっと待って、私に損しかなくない?」

なんだ、揶揄われただけか。私達の関係は良くも悪くも変わっていない。それは嬉しいような淋しいような何とも言えない感覚だった。でもココくんがそのままの関係を望むなら私はそれに付き合おうと思った。

「慣れてかねぇとだろ」
「まぁそうかもし……、えっ⁈」
「嫌なわけ?」

二つのカップはすでにゴミ箱の中へ。そしてその空いた左手は私の右手を掴んだ。それは間違いでもなく偶然でもなく、確実に握っていた。

「いや、そんなことは……」
「……悪かった」

パッと手が離されて汗ばんだ手が宙を切る。……あーしまった。これは多分、おそらく、相当頑張ってくれたやつだ。だというのに私は可愛くないことをしてしまった。というか異性と手を繋ぐだけで緊張するとか、中学生か。こんなのお付き合いの初歩中の初歩ではないか。あれ、でもちょっと待って。今までこんな初々しい恋愛の始まり方をしたことあったっけ?若いときは勢いで、そして年齢が増すにつれて打算的な恋しかできなくなっていた。

「ちょっと待って」

でも本当は恋というものに夢を見ていた時期もあったんだ。好きな人と自転車で二ケツしてみたり、授業サボって屋上に行ったり。そんな少女漫画のようなシチュエーションに憧れてたんだ。さすがに大人になった今では叶わないことはいくつもある。でも恋愛するのに早いも遅いもないわけで。

「こっちの方がいい、……かも」

手を伸ばして今度は自分から掴みにいく。指先を絡めれば中指と薬指の間に指輪が触れた。

「なんか恋人っぽいね」
「恋人じゃなくて夫婦だろ」
「あ、そっか。じゃあコ……一くんはどう思う?」
「このタイミングで言い間違えんな」
「さっきから一々文句が多いんですけど」

でもやっぱりすぐには変われないね。私達は今までヘタクソに生きてきたから。

「これ死ぬほど恥ずかしいな」
「だね」

でも少しずつ変わってけばいいか。
私達のペースで。

どちらともなく、互いの手を握り返した。

【完】



prev next

novel top