拗らせた女の苦悩

顏の前で手を振ってみたり頬を突いてみたり。最終的には鼻を数秒間摘まんでみたけれど微動だにしなかった。返事がない。ただのしかばねのようだ——と、お決まりの件はさておいて、どうやら夢の世界へと先立たれたらしい。

イタリアの首都ローマへと向かう飛行機の中、離陸して僅か十五分で一くんは寝てしまった。ファーストクラスだったから席は離れていて、いくら声を掛けても返ってこないなぁと思い席を立って確認しに行けばそれはもうぐっすりと眠っていた。でもある意味当然だったのかもしれない。この一週間の休みを取るために相当無理をしてくれたようだったから。

元より海外へは一人で行くつもりだったのだ。この旅も旅行というよりは仕事に近く、今後の事を考え人脈を広げるためだった。でもそれを一くんに伝えたら「ならオレも行くわ」の一言で着いてきたのだ。そこまでアクティブなキャラでもないから出掛けること自体、好きじゃなさそうなのに。

一くんを見ればまだシートベルトも付けたままでいた。寝苦しそうだったので外してやり脚を楽にさせ毛布を掛ける。しょうがないなぁ、と思いつつもこんなことが今もできることが嬉しかった。だから旅の始まりと称してとりあえず寝顔は連写してスマホに収めておいた。



フライト時間は約十三時間——日本を昼過ぎに発ち、ローマへと着いたのは同日の夜だった。一くんが離陸後すぐに寝たように私も同じタイミングで仮眠をとった。そしてその後はずっと起きていたので時差ボケもない。つまりは脳も今が夜だと認識できているわけで、とりあえず荷物を宿においてから夕飯を食べに出ようという話になった。

「ここか?」
「そう、中々いいでしょ?」

一人であればB&Bやユースホテルのような安宿で十分なのだが今回はれっきとしたホテルを予約した。海外の宿は三ツ星以上でもその質が保証されないことも多い。だが、今回は下調べを怠らなかっただけあって悪くないホテルだった。テレビやエアコンも付いてるしセーフティボックスもある。七階の割に眺めもよくライトアップされた大聖堂が見えるほどだった。それにホテルにエレベーターがついているのもここに決めた理由の一つだ。特にイタリアでは古い町並みを残すため改築が出来ず階段しかない建物も多いから。

「意外と設備もしっかりしてんな」
「そういうところ探したんだから。五ツ星じゃないけど九井一のお眼鏡には適いました?」
「十分だわ。っつーか宿くらい探すの手伝ったけど」

その言葉に私は首を横に振る。ここ最近、死人の顔して帰ってきてた人にそんなことまで頼めないって。それに、その代わりということで一くんには旅行費をかなり負担してもらっていた。だからこれくらいのことはさせて欲しい。

「いいって。それにその辺りは私の方が詳しいんだから任せてよね」
「確かにな。ありがと」
「苦しゅうない」
「秒でさっきの言葉取り消したくなったわ」

消すのはその目の下の隈だけでいいんじゃないかな。まぁそれは兎も角として、宿も満足して頂けたようで何よりである。だから私も安心して自分のキャリーケースに手をかけた。

「じゃあ私も荷物置いてくるから」
「は?」
「え?」

さて、久しぶりにチベスナのモノマネを披露されたわけだが今の会話のどこに驚きポイントがあったのだろうか。もしかしてかなりお腹が空いてる感じ?荷物整理の時間もなしに今すぐ食事に行きたいのだろうか。しかしそのことを伝えてみるが再び「は?」の言葉しか返ってこなかった。

「なに?もしかしてもう日本語忘れたの?」
「ちげぇよ」
「わたし、となり、へや、いる」
「ボビーみたいな話し方すんな」
「知ってる?ボビーって実は日本語ぺらぺらなんだよ」
「そんなこと一ミリも興味ねぇんだよ。オレが聞いてんのは部屋が別なのかってこと」
「そうだけど」
「は?」
「やっぱり日本語忘れたの?」

時差ボケではなく疲労の心配をすべきだったか。十三時間のフライトも私にしてみれば慣れたものだが一くんにとってはキツかったのかもしれない。本当は食後に少しくらい街の中を歩いてみたかったのだけど夕食は近場で済ませ早く部屋で休ませてあげた方がいいのかもしれない。

「またすぐ来るからね」

今度こそキャリーケースを転がしてその場を後にする。そして自分の部屋へと入った瞬間、隣の部屋から鈍い音が聞こえて驚いた。それは今しがた私が出ていった部屋側の壁からで。何やら一くんは相当ご乱心のようだ。まさかもうホームシックになってしまったのだろうか。これは出掛けた時にでも添い寝用のテディベアを買い与えた方がいいのかもしれない。



二日目は所謂観光地と呼ばれるところを二人で歩き回った。実のところ何度かローマに来たことはあるけれどそれは全て仕事関係。だからここまでじっくりと見て回ったのは初めてだった。それは一くんも同じだったらしく二人で年甲斐もなくはしゃいでしまった。真実の口に本気でビビる私の姿が一くんのスマホに収められたのは解せないが、何かあれば機内で撮った写真で対抗しようと心に決めた。

「こんなことなら一眼レフくらい持ってきてもよかったかも」
「なんでだよ」
「意外と写真撮ることが多かったからさ」

夕食後のコーヒーを飲みながら写真フォルダの画面をスクロールする。昨日までは家具の写真が多かったのに、たった一日で風景や食べ物の写真がかなり追加された。そこにはもちろん隠し撮りした一くんの写真も。今まで思い出を残しておくという行為を特別に思ったことはないけれどウェディングフォトを撮影して以来、案外写真も悪くないものだと思うようになっていた。

「まぁな」
「それに明日は映えスポットに行けるわけだし」

いつか教えてあげると言った私のお気に入りの場所——そこは田舎町の駅で車両点検のため一度降ろされたときに偶然見つけたのだ。車両復旧までの時間、道沿いに咲くサルビアの花に導かれるよう辿り着いたその先に奇跡に近い景色が広がっていた。白い砂浜を抉るように青い波が押し寄せて海風が足元の赤い花を撫でる。海岸付近の急斜面が額縁の役割を果たし、まるで一つの風景画を見せらえているかのようだった。私が今まで見た中で一番美しい景色。とっておきの場所だから拡散する気はないけれどせっかくなら一緒に写真くらいは撮っておきたかった。

「ならこっちで買ってもいいんじゃね」
「うーん……」
「仕事で必要な写真も撮んだろ」

そして明後日はフィレンツェの伝統工芸品であるマーブル紙の工房を見せてもらう約束をしている。マーブル紙自体ノートや小物入れなどに使われるが、例えば行燈の和紙に当たる部分と差し換えることが出来れば可愛らしい照明ができるかもしれない。その資料の為にも写真は必要で一応デジカメは持ってきていた。
一くんの言葉を聞き少し考える。でもすぐに首を横に振った。

「荷物になるからいいかな。それにスリとか怖いし」
「そうか。マ、一応アレは持って来てっけどな」

一くんは親指を立てて人差し指を私に向ける。そして残りの三本の指を折りたたんだその手はまさしくアレの形をしていた。

「うそでしょ⁈」
「海外ならこれが普通だわ」
「いや、今回は仕事じゃなくて旅行だよね⁈」
「ブッ……ほんとに持ってくるわけねぇだろ」
「はぁ?」

バーカ、と付け加えられ私の眉間の皺はどんどん深くなっていった。どうやら揶揄われただけらしい。薄ら目で睨みつければ「キツネみたいな顔してんぞ」と笑われた。ええ、はい誰に似たんでしょうねぇ?と言ってやりたいところではあったが一くんのスマホが着信を知らせたことでバトルスタンバイにはならなかった。

「悪い。少し外すわ」

プライベート用のスマホ片手に廊下の方へと出ていった。僅かに聞き取れた会話は英語だったが誰からの電話だったのだろうか。
そして私がちょうどコーヒーを飲み終えたタイミングで戻って来た。お会計も済ませてくれたとのことでお礼を言って店を出る。

時刻はちょうど二十時を過ぎたあたりで飲食店が立ち並ぶこの通りは人に溢れていた。イタリアでは食事時間が日本よりも遅いため今が夕食の時間帯というわけだ。互いに声を掛け合うまでもなく自然と腕を絡ませる。手ではなく、腕を取るようになったのは外国人特有の距離の近い男女を間近で見てきたせいだ。でもそのお陰か気恥ずかしさなどはもう感じなかった。



「あれ?道違くない?」

私が立ち止まれば当然一くんも足を止める。今日泊まるホテルも昨日と同じところ。ここからでは地下鉄に乗らなければいけないというのに歩いている道は駅から外れていた。

「あー……今日は宿変えた」
「え?」
「今日っつーか残りの滞在期間」
「なんで⁈というか荷物は?」
「もう運ぶように手配してある」

一くんが歩き出してしまえば私も進む外ない。その後はどんな質問を投げ掛けてもはぐらかされているのか曖昧な言葉しか返ってこなかった。そうして辿り着いた先は観光名所のど真ん中にあるホテルだった。正面から見ると湾曲した変わった造りになっている。真っ白な外観には規則正しく並んだ十字格子窓がはめられており日本人からすると式場に見えなくもない。しかしそこは世界的にも有名な五ツ星ホテルだった。

「急だったからスイートは取れなかったけど」

一くんが受付を済ませている間も私はホテルの内装に見とれていた。天井が高く明るいロビーは大理石を用いた豪華なネオクラシック様式で、ゆったり座れるアームチェアまでもが用意されている。体感としてはホテルよりも宮殿と言った方が近いかもしれない。

「受付終わったから部屋行くぞ」

一人でふらふらと見て回っていたところで後から腕を掴まれた。そしてその手は自然と指先まで降りていき複雑に絡み合う。「見て回んのはまた後でな」と笑われたがそのまま黙って後ろを着いて行った。そしてコンシェルジュが案内してくれた部屋を見て、ついには倒れそうになってしまった。

「素敵すぎる……!」

この手のホテルは一つとして同じ内装の部屋はない。その中で案内された部屋は私の好みドストライクだった。八十年代のクラシカルな間取りと壁紙。でもそこに古臭さを感じないのはガラス製の間接照明や真っ白なソファに添えられたビビットカラーのクッションのおかげであろう。また壁に飾られている青のインクのみで描かれた現代アートもいいアクセントになっていた。

「えっすごい!一くんもこっち来て!」
「落ちんなよ」

そして窓からはホテルの前にある噴水がよく見えた。ライトアップされたそれはまるで泉のようで正直コインを投げ入れることで有名なあの噴水よりも泉という言葉が似合っていた。

「こんなすごいホテル前日によく取れたね」
「まぁな。運がよかったわ」
「それ、本当に運だけ?」
「分かってんなら聞かねぇ方がいいんじゃね」

口角を上げた一くんの顔を見てそれ以上は深く考えないことにした。世の中には知らない方がいいこともあるのだ。
未だに興奮冷めやらぬ私は早速ホテル内を見て回ることにした。一くんには「明日にしろよ」なんて言われたけれど私の好奇心は収まらない。先にシャワー浴びてていいよ、と一言いい残し意気揚々と部屋を出た。でもそこでハタとある事に気付く。

部屋、同じでは?

え、あ、もしかしてそういうこと……?だからホテル変えられた感じ?でも今の部屋ツインルームだったよね。いや、急だったしもしかしたらダブルが空いてなかった可能性もある。この点に関してはいくら考えたところで答えが出ないので置いておくが、一つ言えることは同じ部屋で寝ることが確約されたということだ。

出たばかりの扉を背にし、襟元を引っ張って下着の色を確認した。そして頭をフル回転させキャリーバッグの中身を思い出していく。黒、紺、黒、黒、紺——これはいかん。ラウンジへと行くはずだった身を百八十度方向転換させ夜の街へと駆け出した。

「ただいま」
「えらく遅かったな」
「実はフィットネスエリアでひと汗かいてきたの」
「オマエめちゃくちゃ元気だな」
「まぁね。汗かいたから私もシャワー浴びて来る」

キャリーケースの中からケア用品のポーチを取り出して浴室へと向かう。もちろん一くんの目に触れないようドアの入口に置いてきたショップバッグも一緒に引きずり込んだ。

頭から少し熱めの水を被りいつもより念入りに体は洗い、髪は丁寧にブローした。やや勇気もいったがショップでタグも切ってもらったのでサイズを調整するだけで済んだ。

経験上初めてというわけではないのだがこうも緊張するのは私たちが今も寝室すら別にしているからであろう。これはもはやタイミングを失った、の一言にすぎる。そして『そうゆうこと』をするタイミングも失っていた。でもだからこそ旅行先で過ごす今夜が私たちを変えるキッカケになるのだろう。だから私としても気合いを入れてみた、のだが……

「じゃあ、おやすみ」

待て待て待て待て。一言物申しさせて頂いてもいいですか?
ベッドは手前と奥のどちらがいいかと聞かれ、奥だと答えたら譲ってもらえた。そして布団に入り先ほどの言葉を言われたわけであるが……なぜ貴方と私が別のベッドに入っているのか二百文字以内で説明してもらっていいですか?あ、もしかして事後のベッドでは寝れない感じか?一くんは潔癖とまではいかないが綺麗好き。月一で排水溝にパイプクリーナー流し込んでるもんね。シンクの水垢も絶対に許さないし、人間の汚水により住むところを失った水神様の生まれ変わりか?と問いたくなるくらいにはそういった一面もある。

だからヤる用と自分が寝る用でツインベッドというわけか。うん、そう考えれば納得がいく。言わずもがな私はそういったことを気にするタイプでもないので事後のベッドでも寝れる。だからきっと電気を消したらこっちに来てくれる、はず……

——はい、消灯してから十分が経過しました。

え、マジでこの人どういうつもりなの?部屋同じにした意味ないよね?自分の家意外だと一人で寝れない寂しんぼさんか。やはりテディベアは買い与えるべきだったか。それとも私に魅力がない?据え膳にもならないの?ただ、二時間前に一瞬の隙をついてランジェリーショップに駆け込みセットで下着を三着買ってきた私のなけなしの乙女心くらいは察してほしいのだが。

「ねぇ一くん」

二つのベッドを遮るように置かれたシェード付きのランプが唯一の部屋の光源。私は目を凝らすようにライトの先にあるシーツの山を見つめた。

「……なに?」
「寒くない?」
「オレは別に。寒いンならエアコンつけるか?」

本当に聞きたいのはそんなことじゃないのに、この可愛げのない口はいつも的外れなことばかり言う。でも多分ここが私の頑張りどころ。だって空港で先に手を繋いでくれたのは一くんの方だし。それに名前だって「ココくん」じゃなくて「一くん」って呼ぶようになってから嬉しそうにこちらを見てくれるようになった気がする。私の幻覚でなければだが。

「いや違くて。そっち行きたいなって」

流石にやりましょう、なんてことは言えない。でもここまで言ったら察してくれるはず。
目先の山がもぞりと動き、自分の身を強張らせる。返事が先か、行動に移すのが先か。しかし、その山はまた動かなくなってしまった。

「……ごめん、今のは忘れて。おやすみなさい」

はい、試合終了ですお疲れ様でした。
これは本当に別の意味でやってしまった。そちらが動かざること山の如しを極めるというならばその続きとして私は知り難きこと陰の如しを極めます。この一連の戦略は暗闇の中へと消し去りましょう。そして私は貝になる。
掛布団を引き上げ少しの光も届かぬよう身を固めて包まった。しかし外側からは布団を引きはがそうとする魔の手が忍び寄って来た。手を出して欲しかったわけだけどもう今じゃないんです。

「おい寝んな」
「調子に乗りましたすみません」
「今さらだろ。とりあえず出てこい」
「むーりー!」

今さらもどちら様もないわけで、もう本当に無理なので勘弁してほしい。絶賛、自分への羞恥で死にそうなのだ。だがしかし、私が築いた布団という名の防御壁はいとも容易く突破されてしまった。一くんって頭脳明晰なデータキャラかと思いきや偶に脳筋でゴリ押すとこあるよね。どこぞの風流を愛する文系名刀か。

「いい加減にしろ!」
「だってぇ……」

そしてあっけなく私の装備は剥がされた。朝起きれずに母親に叩き起こされたという経験はないが今その気持ちが痛いほどよく分かる。剥ぎ取られた布団を取り返そうとするもそれはもう一つのベッドへと投げ飛ばされた。そして身を守るものがなくなれば顔を合すしかなくなって。一くんがベッドの縁に腰掛けたので私も仕方なしに身を起こした。

「さっきのは幻聴だから」

それはあまりにもひどい言い訳だった。そして今自分がどんな顔をしているのかは鏡を見なくたって分かる。だから防御壁をなくした私は自らが貝になる覚悟で立てた両膝に顔を埋めようとした。

「待て」
「わっ……⁈」

しかし、どうやらその行動は予測されていたようで顔を埋める直前、ガッと頭を鷲頭かまれた。そういうところが脳筋なんだよ、と思いつつもその手はすぐに頬に添えられる。そして角度を固定されてしまえば視線は自然と交わって逸らせなくなってしまった。

「オマエのこと好きなんだけど」
「は、え、急になに……?」
「言ってなかったから」
「いやタイミング」
「今だろ」
「そこは『今でしょ』って言った方が、……ッいったい!」

私の頬を摘まんだ指先に力が込められ、思わず顔を顰める。今すぐその手を叩き落とそうとも考えたが流石の私も反省した。だって初めて言ってくれたのにまた私は逃げようとしてしまったのだ。空港の時のことをなにも反省できてないよね。だから伸びきった頬のまま、ごめんなさいと素直に謝る。そうすればすぐに力は弱められた。でもその手は頬から離れない。

「一くん……?」
「もっと触れたいんだけど」
「じゃあ、私もいい?」
「ン」

もう次の選択は間違えなかった。
頬に添えられた手に自分の手を重ねる。顔が近付いてきたから私はもう片方の手で一くんの服を掴んで引き寄せた。ベッドに倒れ込んだのと唇が触れたのはほぼ同時。啄むようなキスが繰り返される中、私はその背に手を伸ばした。その瞬間にぬるりと舌が差し込まれ、驚いて一瞬噛みそうになる。それに気付かれたのか上唇を舐められて顔が離れていった。

「嫌なわけ?」
「ぁ……いや、そうじゃないから」
「まぁ拒否権はねぇけど」

舌を出して笑ってみせたその顔は悪い男の表情だった。長い銀髪がカーテンのように垂れ下がり一くんの顔しか見えなくなる。視線を外すことも、ましてや顔を背けることもできずに只々見つめ合う。そして吐息が触れるほど再び顔が近付いた瞬間、うるさく心臓が音を立てたのだ。今までだって男として見ていなかったわけじゃない。でも書面での上辺だけの関係が本物になった今、唐突に自分がこの人の女になることを意識したのだ。

「ちょ、ちょっと待って!」
「もう待てねぇから」
「ひっ、ぁ」

服の隙間から侵入してきた手に思わず声を上げる。そしたらその手は私の腰に添えるような形で動かなくなった。私はいよいよ一くんの顔が見れなくなり、視線をずらして彼の喉元を見つめていた。そしたら薄い皮越しに喉仏が大きく上下して。顎を掴まれたと思ったら一瞬のうちに唇が塞がれた。口内を荒す舌と、這い上がってくる指先に軽くパニックになり生理的な涙が瞳を濡らす。その雫を親指で拭いながら小さなリップ音をたて唇が離れていった。

「あ、あの……」
「もう我慢しねぇから」
「え?」

下着のレースをなぞるように爪の先で引っかかれる。そのむず痒さに身を捻ろうとすればもう片方の手が私の手首をシーツへと縫い付けた。しかしそれは一瞬で私の指先へと滑っていき痛いくらいの力で握られた。

「煽ったのはそっちだし」

煽ったつもりもないけれど今は何を言っても聞き入れてくれなさそう、そんなことを頭の片隅でぼんやりと思う。でも私たちは互いに対しては口下手だから逆にこの方が分かりやすいのかもしれない。ただその前に私からも言わせてほしい。

「ねぇ一くん」
「……なに?」
「私もね、一くんのこと好きだよ」

そしたら今まで余裕そうにしていた顔が一気に赤くなって先ほどとは立場が逆転してしまった。それが面白くって思わず笑う。そしたら一くんが覆いかぶさるように抱きしめてきたので嬉しくなって腕を背中へと回した。

「オマエには敵わねぇよ」
「一くんは私のような素敵な女性を奥さんにできて幸せ者だね」
「自分でよく言うわ」
「ふふっでも私は一くんが旦那さんになってくれて幸せだよ」

言葉にすると随分と安っぽく聞こえてしまう。でもそれは事実だ。言葉で足りないなら行動で示してもいいし、時間をかけて証明してみせてもいい。それだけの覚悟が今の私にはあった。
一くんはまた少しだけ体を浮かせ私の頬に手を添える。それに応えるように私も手を伸ばした。銀の髪を払い、頬に触れる。

「もう逃げたいつっても遅ぇからな」
「逃げないよ」
「後悔しても知らねぇからな」
「ここで一くんを選ばないことこそが一生の後悔だよ」

カードをめくるように、ひとつひとつ答え合わせをしていく。
そして、最後の言葉は同じだった。

「「愛してる」」

その言葉を飲み込むように、深く唇を合わせた。


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