どうも、九井の部下になります


例のパーティー以降、九井さんは外回りをすることが増え忙しくしている。その相手は取引先であったり同盟を結ぼうとしている組だったりと様々だ。そして私も今では言葉通りの秘書として一緒に出掛けることも増えた。

「今からオマエの服十着は買うぞ」

だからなのか最近では買い物に連れ出されることが多い。何故かって?それは私が外行きの服を全く持っていないからである。

「ブランド物である意味あります?」

そしてそれは大抵お高いブランド物。銀座に立ち並ぶショーウインドウは華やかだ。見る分には楽しいが私にはまだまだその良さなど分からない。シルク生地よりもコットン百%の服を好むような女である。

「それなりの額を取引する人間が見窄らしい格好してっと舐められんだよ」

確かにそれは一理ある。私より年上であっても九井さんとてまだ二十代。取引相手は大抵それよりも上が多いのだから身なりに気を使うのも頷ける。

「あとダセェ奴連れて歩きたくねぇ」

そして恐らくこちらが本音だ。まぁ事実でもあるので下唇を噛み暴言を堪え忍ぶ。兎も角、色々と理由はあるが私の服のレパートリーは格段に増えた。しかもこれが九井さんのポケットマネーであることにも驚く。金を稼ぐ男は金の散財も趣味なのだろうか。

「これはオマエへの投資だ。今までの三倍は働け」

裏はない様だが後が怖い台詞である。しかしその言葉通りに最近の労働内容は中々にエグかった。
まず朝一でその日の取引に使う資料をまとめ昼には九井さんと一緒に二、三件ほど交渉に出かける。そして帰ってきたらその報告書と今後どれほどの利益が見込めるかをまとめ首領へ報告した。空いた時間にはフロント企業の経営状況をチェックしこちらでも売上が立つよう手を回す——そんな生活を丸一ヶ月ほど休みなしで続けたのだった。



メールの送信ボタンを押しグッと伸びをする。デスクワークには慣れているが同じ体勢でいた為体がバキバキだ。それと部屋に篭りきりでいると時間の感覚もなくなるので日本にいながらも時差ぼけのような感覚に陥っていた。

首を鳴らしながら作業部屋から出て休憩室となっている一角に向かう。せめてもの気分転換だ。ついでに置かれたテレビもつけた。

「こちらが今話題のラーメン店『双悪』です!二種類の豚骨ラーメンが有名で——」

グルメ番組だろうか、白と黒の二種類の豚骨ラーメンが映っている。確か近所にあっていつも行列が出来ているラーメン店だ。いつか行ってみたいと思っていたがテレビで特集されてしまえば益々人が来るだろう。私はいつになったら行けるのか。

食い入るようにテレビを見ていればスマホの電子音が鳴り響き、着信が来ていることを告げた。確認すればスマホ画面には『上司』の二文字、言わずもがな九井さんである。初めは『パワハラ』という名前で登録していたのだが蘭さん経由で九井さんにバレて大目玉を食らったので変えた。因みに反社の人間の名前を登録する勇気はなかったのでフルネームという選択肢はなかった。

「はい、もしもし」
『資料七ページ目の収益予測の根拠は?』

挨拶も前置きもないまま本題から始まる会話ももう慣れた。というかこの方が互いにとって都合がいいのだ。

「——からそう見込みました。重くなると思ってデータ省いたんですけど参考資料送った方がいいですか?」
「いや、内容が分かればいい。助かった』

おや?私はいま褒められたのか?
最近の九井さんは唐突に労いや感謝の言葉をぶっ込んでくるので私としても反応に困る。いや、嬉しいんだけどね。でもそれは唐突で、一瞬で、あまりにも簡潔に言うものだから褒められ慣れていない私は思考が飛んでしまうのだ。

『おい聞いてんのか?』
「あ、はい。いやぁ私みたいな優秀な秘書がいて九井さんは恵まれてますね」

褒めて伸びるタイプだと思っている癖に素直に受け入れられない自分もいる。私ってこんな口下手な人間だっけ。友達もいたし、それなりの人付き合いもしてきたつもりなんだけどな。

『相変わらず態度がデケェ』
「いやいや、謙虚に九井さんの指示通りやってるじゃないですか」

だから結局いつも通りのテンションに落ち着いてしまう。

『そこは評価する』
「それはとても光栄ですね」
『なら追加でフロント企業の裏帳簿も付けとけ。次の幹部会での上納金報告に使うから』
「えっ午後は私も九井さんの取引について行くんじゃなかったでしたっけ?」
『三時からなんだから間に合うだろ』

テレビで時刻を確認すれば昼過ぎ。移動時間も考えるとなるとそんな作業をしている余裕はない。

「流石に無理ですって」
『優秀な秘書なら余裕だよなぁ?オレも一度そっち戻るからそん時に進捗聞かせろ』
「まっ——」

一方的に電話が切られ会話が強制終了させられる。仕事の振り方がパワハラではなくただのドSなんだが。どれだけ人を働かせれば気が済むのだろう。まぁ調子に乗った私も悪いけど。

再度パソコンと向き合おうとしたところでお腹が鳴る。そうだ、もうお昼なのだ。腹が空いたままでは仕事はできぬと思い、戸棚を漁りカップラーメンを取り出す。テレビの影響もあり選んだのはもちろん豚骨ラーメンだ。このカップ食品シリーズは九井さん用にストックしてあるもの。しかし私が常に補充しているため一つくらいもらってもいいだろう。事実、灰谷兄弟も勝手に食べたりしてるし。

『それでは今日の星座占いです』

お湯の準備をしていれば不意に耳に入ってきたアナウンサーの声に視線をテレビへと向ける。久しぶりに見るなぁと思いつつ加薬の封を切りカップに降りかけていく。

『三位は天秤座の貴方!運命を変える出会いがあるかも?人が集まる場所に行ってみましょう!』

休憩スペースにはテレビの他にローテーブルと皮張りのソファがある。どちらもおそらく高価なものだというのにテーブルに脚を置く輩がいたり、血まみれで座ったりする輩がいるものだから実際よりも年季が入っているように思える。使えるし座れるので問題はないが私が重度の潔癖症だったら今すぐ捨てたくなるレベルでは色んな意味で汚い。

『それでは一位と十二位の発表です!』

まだ呼ばれぬ自分の星座の行方を見守っていれば「本日のアンラッキーさん」として紹介されてしまった。見ていたことを少し後悔する。占いを鵜呑みにするわけではないがテンションが下がったことは間違いない。

『そんな貴方のラッキーアイテムは顔に傷のある人です。それではまた来週!』

人をアイテム扱いしているのはどうかと思うがそれなら簡単に出会えそうである。こちらの世界ではやたらと傷痕やら刺青を入れている人が多い。取引先にも顔に傷のある人間の一人や二人いるはずだ。お会い出来たらひっそり拝ませてもらおう。

そんな計画を立てていればお湯が沸いたことを知らせる電子音が聞こえた。待ってましたとばかりにカップ麺にお湯を注ぎ入れる。が、この電気ポットはエアー式であり蓋に設けられたプッシュプレートが馬鹿になっていて反応が悪い。水はちゃんと入っているのにチョロチョロと少量ずつしか出てこなかった。
そんなポットに四苦八苦し、ようやく規定値までお湯を注ぎ入れることに成功した。豚骨スープの香りが鼻を抜け食欲中枢が刺激される。しかしせっかく高揚した気分も一人の男の登場によりスプラッシュ○ウンテン並みの勢いで急降下した。

「おらぁ!春千夜様が来てやったぞぉ!」

(アン)ラッキーアイテムがデカい顔してやってきた。

今日の私は相当ついていないらしい。鴨がネギ背負ってやってくれば鴨鍋を作れるが、薬中者が拳銃片手にやってくればデスゲームが始まることを私は知っている。

「お疲れ様です、三途さん」

お呼びでないです、と全力で追い返そうとも思ったが声にも顔にも出したら私の頭はパーンする。そのため口をきゅっと引いて顔を作った。

「なに?オマエだけぇ?」

タフィーピンクの髪を靡かせ細身のスーツを着た男。口元に傷はあるが顔だけ見れば西洋のお人形のように美しい顔立ちをしている。梵天ナンバー2の三途春千夜サマのご登場である。いや、マジでお呼びでない。

「はい。九井さんにご用でした?」

声は大きいものの今日はクスリをキメていないのか比較的穏やかである。いや、キメてきたから穏やかなのかも。

「んー……」

私はこの人が苦手だ。窓ガラスを突き破ってでも外に逃げ出したいが生憎防弾ガラスなため内側でも破ることは不可能。そうでなくても私が目線だけでも外へ向ければ間違いなく銃を向けるだろう。この人は手を上げて挨拶する感覚で拳銃を向けるので毎度心臓に悪い。

触らぬ三途に祟りなしということで、何食わぬ顔でカップ麺片手にソファへと腰を下ろす。いま私にできることは息を殺して三途春千夜という名の嵐が過ぎ去るのを待つのみだ。

「他の奴らはぁ?」
「いないみたいですね」

できるだけ意識しないよう気を付けて携帯でタイマーをセットする。なんだかこの秒数が死へのカウントダウンにすら思えてきた。

「なら好都合♡」
「ぎぃやぁ⁉」

体が飛び跳ねた。そしてこれは比喩ではなくマジでソファの上で五センチほど浮いた。そして着地する前に大きく広げられた手で頭を鷲掴まれる。私の頭はハンドボールじゃない。しかしそんなことはお構いなしにメキメキと力を籠められる。新手のヘッドマッサージにしたって痛すぎて思わず顔を歪めれば頭上から声が降ってくる。せめてもの抵抗で睨んでやればその男はそれすらも面白がるように目尻を下げて笑っていた。

「なぁゲームしよーぜ。オマエが勝ったら金やるよ」
「せっかくですが今からラーメンを食べるのでご遠慮します」
「あ?オレとカップ麺どっちが大切なわけ?つーかテメェさっきオレのこと三途って呼んだよなぁ!春千夜で呼べって教えただろ!」

くっ…!急に話題が変わってキレ出した。メンヘラな彼氏かよ。
これだからこの人は苦手なのだ。これがクスリの所為なのか元の性格によるものなのかは分からない。しかし支離滅裂な会話に感情のジェットコースター、そして私をマウス扱いしてくるこの男の傍にいては命がいくらあっても足りない。だからこそ殺されたくない私は毎回空気を読んでご機嫌取りをする羽目になる。

「はい!すみませんでしたぁ春千夜さん!」
「おーおー分かれば許す♡」

マジでこの人大丈夫か?
春千夜さんとの戯れもそこそこにスマホから電子音がなる。ようやくご飯だと思いカップ麺に手を伸ばそうとすれば私よりも早くそれが掻っ攫われた。

「それ私のお昼なのですが」
「今日まだ何も食ってねーんだわ」

ドンキで買った一つ百七十八円のカップ麺がずるずると春千夜さんの胃の中に収まっていく。しょうがない、買溜めしておいたカップスープでも開けようか。九井さんのだけど。

「それにしてもオマエ雰囲気変わったよな」

ソファから立ち上がり棚の中を漁る。春雨のカップスープを見つけ出し戸棚の影から顔を出した。春千夜さんは麺を啜りながら私の事を上から下まで見て口の傷を上げて笑っていた。この人も遠目から見ればかっこいいんだけどなぁ。

「最近、九井さんに服とか買ってもらったんです。オレの格が落ちるからまともな格好しろって」

前まではリクルートスーツのようなシャツとスカートしか着ていなかったのだが今はワンピースも膝丈スカートも履く。それも花柄だったり淡い色だったりと随分と女の子らしいものだ。靴だってハイヒールだったりミュールだったりと様々。最近では受け子よりも、専ら秘書っぽい仕事が増えたのでそのせいなのかもしれないが。

「へぇアイツがな」

お湯を注ごうとするが水が出ない。そういえば水位が三分の一以下になると尚更出なくなるんだった。しょうがないので流し台のところで水を入れる。

「髪と化粧も?」
「そうですね。美容室にも連れて行かれて化粧道具も一式買ってもらいました。お金は全部九井さん持ちだったので後が怖いんですけど……」

ポットをコンセントに差し直す。沸くまで時間がかかりそうだ。これも壊れかけているし次は是非ともポットではなくケトルが欲しいところである。

「なぁ、」

名前を呼ばれ手招きされる。ここで無視すればまた春千夜さんの脳内回線のどこかが切れかねないので急いでソファへと向かった。そうすればニヒルな笑みに迎えられ、しまったと思った頃にはすでに遅かった。腕を掴まれ強制的に座らされる。ただしソファの上、ではなく春千夜さんの膝の上。

「は、ぁ…え?」
「ふぅん」

春千夜さんは私の頬を摩り、そして次に髪を指に絡ませる。頭で理解するより先に防衛本能が働きすぐに離れようとすれば腕を腰に回されホールドされる。この状況だけでも耐えがたいのにそのまま腕を絞められより体が密着した。

「春千夜さん……⁈」
「やっぱ似てんな」
「なにが……わぁ⁈」

いきなり視界が反転し背中に硬いものが当たる。革張りのソファは座るにはいいが寝るには硬すぎる。そんな感想が浮かんだのも今まさに押し倒されたからである。しかもなんの遠慮もなく胴に跨って体重を掛けられた。

「ちょっ、何するんですか⁈」
「腹満たされたら次は運動だろぉ?」

くっ…!また話題が変わった!
春千夜さんくらいの美人ならいくらでも外で女引っ掛けられるでしょ。それにお金もあるんだから風俗にでも行ってくれ。

「それならどうぞ外を走ってきてください!」
「セックスっていう運動知ってんだろ」
「ストレートに言っても変わりませんよ!」

春千夜さんの手がワンピース裾を払いのけ、するりと中に入ってくる。うわ、マジで手慣れてる。抵抗しようにも両手はすでに頭上で束ねられていた。この人、細身なのにちゃんと力あるんだよな。拳銃ぶっぱのイメージが強いが肉弾戦も得意らしい。そんな話を鶴蝶さんから教えてもらったことがある。

「私なんて抱いてもつまらないですよ!冷凍マグロ並みの石女です!」
「そういう女を調教すんのがいいんだろ?初めて会った時もその話したよなぁ!」

初めて会った時——そうだ、それがキッカケで私は九井さんの下で働くことになり、そして悲しくも春千夜さんに気に入られてしまったのだ。

・・・

「テメェらカワイソーだなぁ!身内の尻拭いなんざ!」

ある日、バイト帰りに黒塗りの車から現れた男に拉致られた。大した抵抗もできぬまま眠らされ、次に目が覚めた場所は冷たいコンクリートの上。手と口元を縛られ、視覚情報だけで判断するにどこかの倉庫のようだった。

「オマエは兄貴でーそっちは旦那だっけ?で、アンタが父親の借金背負わされたオンナノコってわけだ!」

横たわっていた肩を蹴られ上を向かされる。艶のあるタフィーピンク髪の男に見下ろされていた。口元の傷跡は痛々しいがそれを差し引いても美丈夫だと思った。
隣には私と同じく手を縛られたスーツ姿の男性と貴金属をじゃらじゃら付けた女性がいた。皆、ここへ突然連れてこられたのだろうか。縛られていてもその体は震えていた。

「いーかぁよく聞け!」

ドンッ——という底冷えするような重く冷たい音。それが銃声だと理解するのに思いの外時間が掛かった。
口を縛られているというのに隣の男と女は耳を劈くような悲鳴をあげていた。その悲鳴もピンク髪の男の「静かにぃ♡」の一言で消え失せる。

「おい、あんま派手にやんなよ。人が来んだろ」

コンテナ内には私達四人しかいなかった。そこにもう一人、男が現れる。

「あ?なんでオマエもいんの?」
「組織の金の管理してんのはオレだろ。こいつらの処遇はオレが決める」
「クスリ売ってばら撒いてたのはこっちなんだがよぉ」
「ボスの命令だ」
「チッ……」

パイソン柄の靴を鳴らし高そうなスーツを着た男が現れる。頭部左側の剃り込みに入れられた刺青は最近闇サイトで噂になっている絵柄であった。

「まずはそこの男。見たとこ三十代か?」

指名されたスーツ姿の男が震える。普通にどこにでもいそうなサラリーマンって感じの人だ。

「時刻は二十二時四十八分。今ならまだ漁船に間に合うだろ、連れて行け」

剃り込みの男が連れてきたのか後ろに控えていた男達がその人を両脇から挟み立ち上がらせた。サラリーマンは抵抗していたものの腹に一発くらい、呻き声と共に倉庫の外へと引きずられていってしまった。

「ババァはどうすっか。年齢的に店でも使えねぇしバラすしかないか」

その言葉の意味が分からぬほど子供ではない。拉致られたこと、銃が発砲されたこと、そして隣にいた人達の末路を考えれば自分がここに連れて来られた意味も自然と理解できた。心当たりは一つしかない。
涙でぐしゃぐしゃになった女の人も結局は男たちに連れてかれた。

「最後は随分と若けぇな。おい三途、コイツいくつだ?」
「知らねぇよ」

そう、「三途」という名前には聞き覚えがあった。父が何度も電話越しにその名前を呼び謝ってたっけ。昔は尊敬していた父も、今では暴れる姿と身を小さくして謝罪する背中しか記憶にない。

「うっ…!」

口を縛られていた布を引っ張られ顔を上げさせられた。
剃り込みの男と目が合い、その後は品定めでもするかのように視線は腕や脚へと降りてった。

「キズものでもねぇし若いなら客も付く。これからは男のナニしゃぶって金稼ぎな」

無遠慮に布から手が離されコンクリートの上に身を打ちつける。しかしその拍子に布が緩み口元から首へと布が落ちた。
男の描いた通りの未来を歩むなど真っ平御免だ。しかし当然ここから逃げ出すこともできなければ、逃げられたとしてもすぐ捕まる。だから私は賭けに出た。

「私なら他の方法でもっとお金を稼ぐことができます!」

パイソン柄の靴が歩くのを止める。驚きと冷笑を顔に付けて振り返った男は「へぇ」と一言だけ返した。この交渉がどこまで通じるのかは分からない。しかし話を聞く気はあるらしい。

「いま私の口座には百万のお金があります。ある条件を整えてくれるなら一ヵ月で倍にできます」
「ぎゃはははははは!」

剃り込みの男が来てからは大人しくしていたピンク髪の男が突如笑い出す。アハアハと過呼吸になりそうなほど肩を震わせ大股で私の方まで歩いてきた。そして大きなモーションもなく、瞬きの間に髪を掴まれた。

「いッ⁉」
「九井、この女オレに貸せ!躾がなってなきゃ店にも出せねぇよなぁ?オレが調教してやるよぉ!」

改めてこの人は大分いかれているなという感想が頭に浮かぶ。そして思いの外、冷静である自分にも驚いた。このような経験は勿論ない。しかしようやく父親が自分の前からいなくなったこと、そしてあまりにもぶっ飛びすぎて現実味のないこの状況にドラマでも見ているような気分になったのだと思う。だからこそ、私はピンク髪の男を睨みつけた。

「私は貴方ではなく向こうの人と話してるんです!邪魔しないでもらえますか?」
「はぁああ?ブッ…!アハハハハハハッ益々おもしれーわ!いいぜ、今からここで犯してやるよぉ!」
「三途やめろ」

服へと手が伸ばされる前に冷静に響いた声が割って入った。
この二人の組織内での立場は恐らく同等。しかし、今回はボスに任されていると言っていた向こうの男に決定権があるのだろう。それならばまだ私にも分がある。

「オレは今コイツとビジネスの話をしてんだよ。黙ってろ」
「クソがッ!」

私を地面へと転がし、ピンク髪の男は口に錠剤を放り込んで倉庫を出ていく。そして改めて設けられた話し合いという場で、この人もまた私をビジネス相手として見てくれたことで希望が見いだせた。

「オマエが言った整えて欲しい条件ってのは何だ?」
「パソコンとネット環境、それと海外製のプロキシサーバーを用意してください」
「ハッ!テメェはどの立場で物言ってんだよ」
「風俗に行くよりは稼げます。私は貴方に提案をしてるんです」

この人は私が年下だとか、女だとかで判断していない。利益がある人間かそうじゃないかで見ている。ここで怯んだら負けだ。それにどのみち欲情する男の受け皿になるくらいなら純潔なまま死んだ方がマシだった。

「そうかよ」

懐から取り出された拳銃、その銃口が私へと向けられた。銃の知識は皆無だが指の動きからセフティが外されたことくらいは分かった。

「一ヵ月も待つほどこっちは暇じゃねぇんだよ。一週間で五百万稼げ」

鼻から一ヵ月も待ってくれるとは思わなかった。それを見越しての期限だったが金額まで大幅に上げられるとは思わなかった。でもこの男の興味があるうちは私が殺されることも売られることもない。

「……分かりました」
「契約違反者は問答無用でスクラップだ」

そして私は九井さんとの約束通り一週間——正確には五日間で五百万を稼いだ。その全ては他人の仮想通貨からお金を拝借するという違法行為。株式投資で確実に稼げる保証はないのでこれが一番手っ取り早かった。

その成果を評価してくれた九井さんと雇用契約を結び、私は今ここにいる。その内容も中々に理不尽なものではあったがこちらが下という立場は変わらない。不満は残るものの私は彼の出す条件を承諾した。

・・・

「あの五日間は楽しかったなぁ!」

いえ、全く楽しくなかったです。
私が稼ぐ五日間の間、監視役として春千夜さんが着けられたのだ。その間、もちろんこの人が大人しくしているわけでもなかった。「ヒマ」の一言で実弾入りロシアンルーレットさせられたり、酒を飲んできたかと思えば喚いた挙句PCモニター一つを破壊し寝落ちしたり。四日目くらいにはこの奇行にも慣れ無視を決め込んでいたら室内で乱射するという事案が発生。だから一週間を五日にまで巻いて私は条件をクリアした。

「私にとっては悪夢の五日間でしたけどね!」

さて、まるで走馬灯のように過去の思い出が脳内を駆け巡ったわけではあるがこれも全て現在進行形で春千夜さんに首を絞められているからである。尚も減らず口で抵抗する私を一回気絶させてから襲うことにしたらしい。睡姦でどうやって調教するのか気になるところではあったがそれを言ったところで刺激するだけなので黙っておいた。

「次に目ェ覚ました時にはオレナシで生きられなくなってんぞぉ!」

んなわけあるか、と叫びたくなったが意識が朦朧としてきた。私の純潔がこんな場所でこんな男に奪われるなどと人生の汚点でしかない。まぁもう汚点塗れのクソ人生ではあるけれど。

「三途、オマエなんでいんだよ」
「あ?」

相変わらず苦しく頭は靄が掛かったように正常に機能しない。しかしその声は確かに、はっきりと私の耳に届いたのだ。

「オレがいちゃ悪りぃのかよ?」
「いつもボスに引っ付いてるから聞いただけだ。それよりアイツはどこ行った?」
「こ…ここの、いさっ……!」

入口からではソファの背で私のことは見えないだろう。だから僅かな気力を振り絞り、声を発し手をソファの縁に掛けた。

「テメェ…!」

頸動脈を指で絞められいよいよ意識が飛ぶ。しかしその中でも腹の上から重さがなくなったことに気が付いた。

「こんなとこで盛んじゃねぇよ」
「別にいいだろ?それともこの女に気でもあんのかぁ?」

薄ら目で確認すれば春千夜さんと九井さんの姿が見えた。
助かった、と安堵するも一触即発の空気である。

「コイツはオレの部下なんだよ。テメェに薬付けにでもされたらこっちの仕事に支障が出る」
「へーへーすんませんでしたぁ」

だがそこまで春千夜さんが絡むこともなく会話は終了する。安心したもののまだ気は抜けない。私は狸寝入りを決め込むことにし春千夜さんが出ていくのを待った。しかし、私の意識が戻っていることに気付いたのだろう。去り際に「お楽しみは今度♡」とドロドロの声で囁いて部屋を出ていった。

「……帰りました?」

耳の中を今すぐ水で洗いたいくらい不愉快だ。もう二度と春千夜さんと二人きりにはならない。
ソファから上体を起こすとすぐ近くに九井さんがいた。ありがとうございます、とお礼を伝えれば容赦なく頭をグーで殴られた。所謂ゲンコツ、しかしそんな可愛い響きよりは鉄拳と言った方が正しいのかもしれない。

「いっ〜〜〜ッ!本気で殴りましたね⁈」
「オマエはなんでそんな不用心なんだよ!面倒掛けさせやがって」
「あの人に文句言ってくださいよ!私に怒るのは理不尽です!」
「イエスと謝罪以外の言葉はいらねぇ」

うぅ…しかし面倒をかけたのは事実なのでそれ以上は何も言えない。すみませんでした、と改めて謝罪と感謝の言葉を伝え服を整えた。
気分も最悪な上にお腹が非常に空いた。結局、昼を食べようとしてから一時間は経過している。アンラッキータイムは非常に長かった。しかしこの分ならもう不幸は訪れないだろう。今日分の不幸は消化できたはずだ。そう心を強く持ち、改めてカップスープを持ち立ち上がった。

「そうだ、このポットそろそろ新しいのにしません?」
「まだ使えんだろ」

ハンガー掛けに上着を掛けた相手に呼びかけるがあまりその気はないらしい。九井さんはケチというよりは必要でないものにお金を掛けたがらないっぽい。なら何故私にあれほどのお金をかけるのか益々疑問ではあるが今聞いたところで私の欲しい答えは出てこないだろう。まぁ、いま私が欲しいのはケトルなので九井さんにその必要性をアピールをする。

「出が悪いんですよ。ほら見ててください……あっつ⁉」

実演するのが早いだろうと上のプッシュボタンを押す。いつもなら僅かに熱湯が少しずつしか出ないのに、蛇口を思いっきり捻ったように噴出した。当然中身は百度以上の熱湯だ。それが私の肘下から指先にかけて降りかかった。

「大丈夫か⁉」

てっきり「バカ」の一言で済まされると思えば九井さんが血相変えて飛んできた。そして持ってきたタオルで手を優しく包まれる。

「どこにかかった?」
「左手と左腕、それと服に少し……」
「顔や脚は?」
「そこは大丈夫です」

袖のないワンピースだったため直接熱湯を被ってしまった。感覚が熱いから痛いに変わり、それが次第にヒリヒリと熱を帯びる。

下唇を噛み痛みをこらえていれば九井さんに背を押され水道のところまで連れていかれる。流水で冷やしている間、九井さんは無言でずっと険しい表情をしていた。

「すみませんでした…」
「オレこそあれが壊れているとは知らなかった。オマエのせいじゃない」

意外にも優しい言葉に少し驚いた。そうして水で冷やしてもらい、赤みが多少マシになれば「すぐに病院に行け」とまで言われてしまった。確かに行きたいところではあるがまだ仕事が残っている。それに午後は九井さんの取引に同行する予定なのだ。

「痕残ったらどうすんだ?さっさと行け」

痕が残ったとしても九井さんが困ることはないと思う。それとも将来的に私を風俗堕ちにでもさせるつもりなのだろうか。その事を問えば私のバックとカーディガン、そして九井さんの私物であろうストールを投げつけられ部屋を追い出された。

今日の九井さんはよく分からない。大抵お金のことを考えているので、それならば私も予想を立てることができるのだが今日はそれとも違う。疑問は残るが腕が痛むのも事実。有難くお暇を頂いて病院へ向かうことにした。



予想以上に火傷は酷かったらしい。しかしすぐに冷やしたのが良かったのか痕は残らないとお医者さんに言ってもらえた。左腕に巻かれた包帯は痛々しいが処置をしてもらったので一安心である。だがここでもう一つの問題が発生した。

「君、もしかしてDVを受けてるんじゃないのか?」

私の首にはくっきりと絞めあげられた跡が残っていた。(アン)ラッキーアイテムの効果はまだ続いていたらしい。本当にいい迷惑である。ここでようやく九井さんがストールを投げてくれた意味を理解した。火傷に首絞めの跡があればDVを疑われてもおかしくはないだろう。

診察よりも誤解を解くのに時間が掛かり、結局病院を出る頃には日が暮れていた。いい加減お腹が空いた。朝食以降なにも食べていないのだ。九井さんでなくともこれだけの時間食べていなければ腹も空く。適当な店にでも入るかとスマホを取り出せば不在着信が何件か入っていた。全て九井さんからである。やたらと心配してくれているようだ。きっと九井さんのことだから火傷で仕事効率が下がることを懸念しているのだろう。それにしたって過保護だな。しかし心配されていることは事実なので連絡を入れることにした。

「痛っ⁉」

しかし不意に後ろから腕を掴まれたことによりスマホを落す。手当てされても、カーディガンを羽織っていても掴まれれば痛い。それにその力はかなり強かった。

「何するんですか⁈」

春千夜さんだったら躊躇いなく右ストレートを決める。そう思っていたのに目が合ったのは肩にかかる金髪が特徴の男の人だった。春千夜さんとは違ったタイプの美人である。どこか中性的に見えるのは長い睫毛のせいだろうか。しかしそんな儚げな雰囲気があるからこそ左目にまでかかる火傷の痕は一層痛々しく見えた。

「誰ですか…?」
「あ、いや、すみません!人違いです!」

パッと腕を離され頭を下げて謝られる。春千夜さんでもなければ最近よく遭遇するナンパ男でもないらしい。本当に人違いだったのだろう。それにしても幽霊でもみたかのような驚き方だったな。

「そうですか」

拾い上げてくれたスマホを受け取ると『おい!聞こえてんのか?』という怒声が聞こえてきた。落とす前に通話ボタンは押せていたらしい。ディスプレイの『上司』の二文字を本日何回見たかは分からない。美人なお兄さんに拾ってくれたことへのお礼を伝え、私はスマホを耳に当てた。

「すみません、スマホを落してしまって」
『そうか……で、火傷はどうだった?』
「しばらくは痛むそうですが痕は残らないそうです」

駅の方角、人混みに沿って足を動かす。そういえば今日は華金か。この時間ともなれば飲み屋街に通じるここはこれからもっと人が増えるであろう。早いところ店を見つけて入るか道を外れた方がいいかもしれない。

『定期的に病院で診てもらえ。そんときは休みにしてやるよ』
「有休になります?」
『相変わらずそういうところキッチリしてんな』
「九井さんには及びませんよ」

「ココ……?」
ラッキーアイテムは時間差で効果を発揮する。
たとえ日付が変わったとしても。

それに改めて気付かされるのは少し先の話である。
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