どうも、九井の特別になります


メッセージが届いていることに気が付き、スマホを確認する。先日の約束は私の想像よりも早くに実現されるらしい。イヌピーから出掛けないかというお誘いだった。

「九井さん、私の次の休みいつですか?」

フロント企業は土日休みだが梵天にはもちろん休日はないのでシフト制だ。まぁシフトと言っても九井さんの予定で私の休みが決まるので前日に言い渡されたりもする。

「今週はねぇな」
「来週は?」
「まだ分かんねぇよ。なんかあんのか?」
「友達と出掛けるので予定を知りたかったんです」

日にちが確定していなければ返しようがない。しかも下手したら来週もフル出勤だしな……そう考えるとフロント企業ってめちゃくちゃホワイトなのでは?ぜひ異動願いを出したいくらいだ。

「オマエに友達なんていたのか……?」
「え、本気で驚くのやめてもらえません?私にだって友達の一人や二人いますよ」

まぁ一人しかいないんだけど。やっぱり学生時代の友達の連絡先は消すんじゃなかったと少し後悔。でもどちらにしろ彼女達はうふふあははの大学生活を謳歌してるだろうから私のことなんて忘れてるか。

「まぁ来週の水曜なら早く上がれんじゃね?」
「えっ本当ですか?」

九井さんは意外にも真剣に考えてくれていたらしい。早く上がれると言っても夜の九時過ぎだがイヌピーのお店も八時までなので大丈夫だろう。
ありがとうございます、とお礼を言い私は早速メッセージを打ち込んだ。

「ソイツ誰だよ?」
「えぇ?」

文章を打ち込みながら耳だけ九井さんに向ける。が、私が聞いていないことが分かったのだろう。わざわざ送信をし終えたタイミングでもう一度同じ事を聞かれた。

「なんですか?」
「だからソイツ誰だって」
「九井さんの知らない人ですよ」
「そうじゃねぇよ」

なんだ煮え切らないな。前はそれで私に怒ったくせに。しかし、私はその様子を見てピンときてしまった。あぁ、そういうことね。九井さんもある意味、私と同類だった。

「心配しないでください。また別の日に九井さんには付き合いますから」
「はぁ?」
「九井さんも友達少ないですもんね。食事でも買い物でもまた付き合ってあげますよ」
「オマエと一緒にすんな」
「先に言っときますけど店の女はノーカンですよ」
「店の女連れて出歩かねぇよ」

その言葉を聞いて少し安心してしまった自分がいた。
だってそれ、ヤキモチだろ——先日、九井さんに言われた言葉が脳内でリフレインする。確かに、私は名前しか知らない女に嫉妬していた。

でもその嫉妬がどこから出てきたものなのかは分かっていない。
普通に考えればそれは恋愛感情からなのかもしれない。でも、私の場合は職場の上司という『敬愛』から生み出された可能性もある。というのも自分の家庭環境が特殊で、今まで頼りになる大人がいなかったからというのが理由の一つだ。親子愛にも近い敬愛や慈愛であれば、男女間のそれとは違うのであろう。

「そういえば美味しいお店見つけたんです。今度一緒に行きましょうよ」

だから私は今その答えを探している。
九井さんのことをもっと知りたい。



約束の水曜日。
気付けばもう待合せの時刻で慌てて荷物をまとめアジトを出た。イヌピーが近くまでバイクで迎えに来てくれるらしい。まぁ流石にアジト近くはアウトなので大通りを挟んだコンビニの前まで来てもらった。

「ごめん!遅くなった」
「そんな待ってねぇよ」

そして「仕事お疲れ」と付け足されポイっと缶コーヒーが投げられる。仕事終わりの微糖は身に染みる。お金を渡そうとしたら奢りだと言われた。迎えに来てもらったのに申し訳ない。

「キミって意外と義理堅い人?」
「よく言えばそうだけど後で見返り求められるのが嫌だからちゃんとしときたい派かな。あと意外とって余計ですー」
「イテッ」

つい、イヌピーに腹パンを喰らわせてしまった。
だがそれもすぐに後悔する。イヌピー腹筋ありすぎ。痛くなったのは私の右拳なのだが。

「イヌピーはバイク屋と兼業でボクシング選手だったりするわけ?」
「は?何で?」
「鍛えられた身体をお持ちだったので」
「別にフツーだよ」

これでフツーなのか……でもフツーじゃない奴等に囲まれている私が今さらフツーも語れないので、そっかと頷いておいた。
そして缶コーヒーを飲み切ったところでバイクの後ろに乗せてもらい夜の街へと走り出した。



「すごい!」
「だろ?」

バイクを三十分ほど飛ばし辿り着いた高台。そこからは東京の綺麗な夜景が見えた。一応夜景スポットではあるのか足元は舗装されており、転落防止の策もあった。しかし、他に人もおらず貸し切り状態。こんな贅沢はそうそう味わえないだろう。

「よくこんなところ知ってたね」
「昔ダチと見つけた」

高層ビルの点々とした明かりに、首都高には川のように光が流れていた。その中でも眠らない街と言われる歌舞伎町周辺は一等明るい。見慣れた東京と言う場所なのに別世界を見ているようだった。
せっかくだしこの景色を写真に収めておけないだろうか。そう思い鞄の中に手を入れるが中々スマホが見つからない。

「あれ、スマホない」
「マジ?鳴らそうか」
「お願い」

イヌピーが電話を掛けてくれるが鞄の中からは音も聞こえない。あ、そういえば充電器に差しっぱなしだったかもしれない。急いで出てきたのですっかり忘れていたのだ。

「会社に忘れてきたみたい」
「取りに帰る?」
「いや明日も仕事だし大丈夫かな」

朝一に取引も入っていないし九井さんから連絡が来ることもないだろう。あ、でもスマホを目覚まし代わりにしているので朝にアラームが鳴ってしまうかもしれない。もし機嫌の悪い輩にでも見つかればスマホを破壊されかねない。明日まで私のスマホが無事でありますようにと、流れないお星さまに願っておいた。

「ねぇイヌピー、代わりに写真撮って送ってくれない?」

気を取り直して隣に立つ彼を見上げた。今日は満月だから街灯の少ないここでもイヌピーの顔は良く見える。ぱちりと目が合えば二つ返事でスマホを構えてくれた。

「ただオレの機種古いから画質よくねぇよ」
「それでもいいよ。そうだなぁスカイツリーがあるあの辺りを——」

カシャッ、とシャッター音が聞こえ横を向けばイヌピーが私にスマホを向けていた。いや、私じゃなくて夜景を撮って欲しかったんだけど。イヌピーって割と天然さんだな。

「私はいいから景色を撮ってよ」
「いいじゃん、せっかくなんだから」
「あっそれならとっておきの変顔するから待ってほしい」

先日テレビで見た若手芸人の真似をする。本当はアップテンポの曲に合わせて行いたいところではあるが音源がないのでしょうがない。

「ヤッバ!腹いてぇ!」

イヌピーって笑いの沸点低いよね。お笑いの特番でも見てたら過呼吸でぶっ倒れるんじゃないかな。

「キミさぁマジで女捨ててない?」
「これ女芸人さんのネタなんだけど」
「そういう意味じゃないって」

本家のネタ通りにクリティカルヒットしたらしい。どうせなら本当に言って欲しかった。でも流石にイヌピーのあの顔は見たくない。

「はぁ、めっちゃ笑った」
「じゃあもうひと笑いしとく?」
「やめろって!」

イヌピーが本気で逃げたので本気で追いかけた。いつもどこぞの悪魔から嫌がらせをされているのでその性分が移ってしまったらしい。イヌピーには悪いが付き合ってもらった。

「イヌピー足速い!」
「いや、そっちも十分速いから!」

五分ほど走って力付き、再び元の場所へと戻って来た。二人でゼーハー呼吸をして、夜の風が頬を撫でる。こんなに燥いだのは久しぶりだ。だからつい楽しくなって本気でふざけてしまった。

「やっぱ全然ちげぇわ」

金の髪を靡かせてイヌピーがそう言った。また外見詐欺の話だろうか。

「お淑やかじゃなくて悪かったですね」
「そういう意味じゃねぇよ。……キミさ、オレの姉さんに似てんだよね。顔立ちとか目元の感じがそっくり」

そうなんだ。というか、私にそっくりな人ってこの世にどんだけいるんだ?イヌピーのお姉さん然り、例の風俗嬢然り。まぁ自分のドッペルゲンガーは三人いるっていうし偶々か。

「お姉さんは今何してるの?」
「何してんだろ。十年以上前に火事で死んだから分かんね」

その一言で今までのピースが繋がっていった。イヌピーの火傷の痕も、そして初対面で腕を掴まれたことも。私の腕だって大袈裟なくらい心配してくれた。
私の顔が強張ったのが分かったのだろう。「もう昔の話だよ」とイヌピーは笑った……笑えるわけないじゃん。お姉さんに似た私を見て、呼び止めるくらいには大切な人だったんでしょ?でも今ここで同情するのも違う気がして、私なりに考える。そこでひとつ妙案が浮かんだ。

「私で良ければさ、お姉さんの代わりになるよ」

きっとこれも何かの縁だ。せっかくできた友達のために、私は私にできることをしたいと思った。

「年齢はどうにもできないけど私の事、姉だと思ってくれていいよ。お姉さんと行きたかったとことか、やりたかったことがあれば私はいくらでっ——いったぁ⁈」
「はぁ?何言ってんの」

思いっきり頬を抓られる。ちょっ、これはマジで痛い。九井さんの比ではないくらいなんだが。

「クソムカつく」
「わ、分かった!分かったから!ごめんなさい!」

ようやく解放され、赤くなっているであろう頬を摩る。涙目になって見上げたイヌピーは怒っていた。普段あまり感情は表に出さない彼だけどそれが分かるくらいには怒っていたのだ。

「初めて会った時は見間違うくらいには似てたけど、キミは姉さんじゃない」
「はぁ……」
「あの人は変顔しないしGは殺せないし道端の草を食べたりしない」
「えっ唐突なディスり?」
「でも、」

イヌピーがあまりにも真っ直ぐ私を見つめるので思わず背筋が伸びる。彼の瞳には私が映っていた。

「そんなキミだからオレは仲良くなりたいって思ったんだ。だから代わりとか言われたら腹立つ」
「そっか。ごめん」
「許さない」
「うん……って、え?」

聞き間違えかと思ったがイヌピーが無表情でこちらを見下ろしていたので、思わず両手で頬を覆った。二度目のあれは喰らいたくなかったのだ。でも慌てた私の様子を見て、彼は声を出して笑っていた。どうやら揶揄われただけらしい。九井さんとは少し違うがイヌピーも中々に良い根性をしている。

「馬鹿にしないで!」
「あーゴメンゴメン」
「思ってないくせに!」
「元はと言えばキミのせい」
「うっそれは……ごめん」
「そうゆうところは素直で可愛いのにね」
「今さら褒めてもさっきのディスりは覚えてるからね」



結局その言い合いは帰りのバイクの上でも行われ、家に着くころには互いに声がガラガラになっていた。最終的には何の話をしていたのかも忘れて「何してんだろ」と顔を見合わせて笑った。

「またツーリング付き合って」
「じゃあ次は海辺りに連れてってもらおうかな」

そんな約束をして別れた。
心がふわふわするような夢心地な感覚。でも不思議とテンションは上がっている。だから今日は湯船を溜めてそこにリラックス効果の入浴剤を投入することにした。普段ケチな私のちょっとした贅沢だ。

肩までしっかり湯船に浸っていればいつの間にか眠ってしまったらしい。ボチャンッと顔面が湯に沈んで目が覚めた。その拍子に水を飲んでしまったようで思いっきり咽る。しかしいくら呼吸を繰り返しても一向に酸素が取り込めない。寧ろ苦しい。もしやのぼせたか?いや、というかちょっと待って——

なんか焦げ臭くない?

◇ ◇ ◇

金になりそうな女、それが第一印象だった。
父親の借金のカタに連れて来させたその娘。まだガキだが見た目は悪くねぇ。 初物なら十万くらいの値でも売り出せる。ヘルスで客取らせて、逃げようとしたら薬付けにして離れられないように縛り付けるまで。それが今の梵天のやり方。若い女に金を稼がせる一番効率の良い方法。

『私なら他の方法でもっとお金を稼ぐことができます!』

あぁ、金の匂いがすんなぁ。
物は試しにソイツの言う条件を揃えて好きにやらせた。結果。嬢が一ヵ月客を取り続けても稼げないような大金を掴んできた。悪くねぇ。十分使える。梵天に引き入れてもいいが、先日裏切り者を出したばかり。マイキーも気が立っている。だからオレの部下として雇った。表に出している風俗店やフロント企業の人員はオレに選別が一任されているから問題はねぇ。

『おい、なんだそのフザケた服は』
『シャツ汚れてたんで買ってもらいました』

梵天では誰一人出来なかったハッキングという技術。物覚えも悪かねぇし要領もいい。だが、服のセンスがねぇ。マジでひでぇ。それと減らず口が過ぎる。ああ言えばこう言う。でもそれを差し引いてでも使えると思ったから傍に置いた。

オレの言うことは聞く。それにこの状況から逃げるつもりもないらしい。それならばもう少し深入りさせても問題はないだろうと判断し犯罪組織が集うパーティーに連れていくことにした。オレとしては事前に参加者名簿を覚えさせ、歩く辞書代わりに使う程度のつもりだった。しかし ムサイ見た目のまま連れていくこともできず美容室に連れて行った。

その時、ふと斜め上から見下ろしたソイツが『彼女』と重なった。
一度そう思ってしまえば共通点を探す方が早かった。目元、鼻の形、耳から顎にかけたライン——だから、つい見たくなってしまったのだ。髪色や長さ、もしそれすらも同じにしたらどこまで彼女に近づくのか。

想像以上だった。
もう未練なんかないと思っていた。一日だって彼女のことは忘れたことはなかったが、現実は受け入れたつもりでいた。

それはあの日、関東事変においてイヌピーにはっきりと言われたから。
でもよぉ、これはあんまりじゃねぇか?
オレがずっと好きだった、五歳上のイヌピーの姉ちゃん——赤音さんとそっくりな女が目の前に現れてどう区別を付けたらいいか。

オレはソイツに縋った。正しく言うと、赤音さんにしたかったことをソイツにした。なんでも買い与えたし、近くに置いた。赤音さんに使えなかった四千万をソイツに使うことで満たされたかった。それと同時に今度こそオレが守ってやらなきゃいけねぇと思った。

腕に熱湯を被った時、心臓が止まりそうになった。
病院のベッドの上で包帯に巻かれた赤音さんを思い出す。オレはソイツを益々気に掛けるようになった。
あの日の後悔。
赤音さんにしてやれなかったことを彼女にすることで自分は許されたかったのかもしれない……それが何に対してかは分からねぇが。

赤音さんと酒を飲むことも夢だった。だからソイツの善意に託けてオレのお気に入りの店に連れて行った。だからつい飲み過ぎた。いや、自分から酔おうとしてたかもしんねぇ。だって赤音さんじゃねぇソイツは性格と話し方だけは赤音さんとは真逆のところにあったから。

その日の記憶はあまりない。気付いたら自宅のベッドの上で寝ていた。吐き気がこみ上げる口元を抑えれば赤いリップが付いた。幸せな夢を見ていたような気がする。

だがある時からソイツはオレの事を避け始めた。何が不満だったんだよ、と理不尽にも思う。オレがソイツに赤音さんを重ねていたとして、でもソイツにとってもそれは悪い条件じゃあなかったはずだ。物は買ってやった、大事にしてやった。なぜ——

『お気に入りの嬢とは違うからですか?』

意味が分からなかった。でもその後に続いたソイツの言葉を聞いて合点がいく。
そういえば蘭に「いつも似たような女抱いてんな」と言われたことがあった。どうやらオレは無意識にもずっと赤音さんの面影を追っていたらしい。

赤音さんが死んだこと、なんも分かってねぇじゃん。
それに気付き、何も言えなくなったオレにソイツは言葉をつづけた。その馬鹿みたいに真っすぐな言葉を耳にして、オレは初めてソイツを一人の人間として認識した。金を稼ぐ女でも、部下でも、赤音さんの代わりでもない。ソイツは世間知らずで父親の借金背負ってここに来て、理不尽な人生の中で生きる強い女だった。

『なに笑ってるんですか!』

久しぶりにバカみたいに笑った。あぁ、コイツは赤音さんとは似ても似つかないバカだった。周りがひくほどのダセェ服着て、眠気がきたら本を枕にして寝ずに大量のカフェイン取り込んで、口喧嘩はしょっちゅうで、可愛げのない女。

『オマエさ、オレに惚れてんの?』

ソイツに赤音さんを重ねていたことへの罪悪感が圧し掛かった。
オレが今までしていたことはソイツに対してではない。だからそのことで好意を持たれるのは嫌だった。自分勝手であることは分かっている。

オレの言葉に、ソイツはいつも通りのバカな答えで返してきた。
オマエらしくて安心した。
もう一度、オレにチャンスが欲しい。
オマエのことが知りたい。



「兄貴、電話鳴ってる」
「はぁ?オレのじゃねぇよ」
「じゃあ九井の?」
「なんだ?」

ほら、と竜胆に投げられたスマホを片手でキャッチする。扱いが雑過ぎる。まぁどっちにしろオレのじゃねぇからいいけど。でもそのディスプレイに表示された名前を見て、オレは目を疑った。見慣れた三文字のカタカナは、オレが昔よく呼んでいた男の名前だった。

スマホケースを見るにこれはアイツの物だ。でもなんでアイツがイヌピーの連絡先知ってんだ?だが名前が同じだけで別人の可能性だってある。しばらく鳴っていた電話がプツリと切れれば表示されていた名前も消えた。せめて番号さえわかれば手がかりも……とも思ったがスマホにはロックが掛かっている。アイツに言って解除させるかと思って、このスマホがアイツの物だと再認識する。オレは相当、動揺しているらしかった。

「オマエも行くかぁ?」
「は?何処にだよ」
「女抱きにだよ。話聞いてなかったのか」

竜胆と話してたんじゃなかったのかよ。蘭の申し出には首を横に振り断わりを入れる。

「最近付き合い悪いよな。オマエが贔屓にしてた女が泣いてたよ」
「金ヅルがいなくなったってか?」
「それ以外ねぇだろ」

そういやアイツが来てからはめっきり店にはいかなくなった。仕事で行くことはあれど自ら出向くことはなくなった。それはアイツが誰よりも赤音さんに似ていたからかもしんねぇが、他の女に割く時間と金が無駄だと思う気持ちもあった。

「そういやさぁアイツとヤった?」

オレと竜胆の会話をやや離れた場所から聞いていた蘭が急にアイツの名前を出してきた。何バカなこと言ってんだと睨めば鼻で笑われる。三途じゃねぇが室内で発砲したくなるくらいにはその顔に腹が立った。

アジトで一時間程待ってみたがアイツがスマホを取りに来ることはなかった。だから電話があったイヌピーがオレの知っている『イヌピー』か確かめるためにもアイツのスマホを届けることにした。
アイツの家への路もすっかり走り慣れた。しかし、この時間なら比較的道も空いているというのに今日はやけに車が多い。しかも遠くからサイレンが聞こえる。

『救急車が通ります。道を開けてください』

後から来た緊急車両の為に道を譲る。そしてその車の行く末を見ていたらオレが曲がろうとしていた角を左折した。
途端、嫌な気配がした。
すぐに窓を開け外を確認しようとすれば焦げ臭いにおいがする。

濃紺の夜の空には、あの日と同じ煙が溶けていた。



うわぁめっちゃ燃えてる。
私は渡された毛布に包まりながら唖然として目の前の光景を見ていた。

やや勢いは衰えたものの木造二階建てのアパートが炎に包まれている。黒い煙は夜空に溶け込み、あちらこちらでサイレンや警告音が響鳴り響いていた。そして辺りは騒ぎを聞きつけた地元住民や報道記者が集まりごった返している。

火元は私の真下の部屋からだった。しかし幸いにも風呂場にある小窓から入ってきた煙に気が付き、すぐに逃げることが出来た。こんなことは当然初めての経験で本当に驚いた。かろうじて下着は身に着けて来たものの、半裸状態で命からがら逃げだした。

出火元の住人は病院に運ばれたものの命に別状はなく、私を含めた他の住人も無事だ。命あって何よりだがすべて燃えてしまったのは中々に痛い。

「被害に遭われた住人の方はこちらにお願いします!」

この後は身元の確認が行われるらしい。正直、右も左も分からない状態なので大人しく指示に従った。それにしても今日の宿はどうしようか。財布は家の中だし、スマホはアジトにある。どちらにしろ詰んだのでは?でも日本だし、さすがにこのまま無一文で放り出されることはないだろうと私は早くも現実を見つめていた。

「邪魔だ!退け!」

今後はどのような手続きをすればいいのかと考えていたところでサイレンの音に負けない大声が聞こえてきた。酔っぱらった野次馬でもいるのだろうか。これ以上、消防隊や警察の方に迷惑をかけないで欲しい。

「オイテメェ!このアパートから若けぇ女が出てきたか分かるか⁈」
「いや…オレも来たばかりだから……」
「チッ!使えねぇな!」

治安わっる。先日の事件といい、引越しどきだったのかもしれない。裸足のまま出てきてしまったのであまり速くは歩きたくないのだが絡まれたくもないので急いで警察の人の元へと向かう。

「君!危険だから下がりなさい!」
「うっせぇ!このアパートの住人はどこ行った⁈全員助け出されたか⁈」
「いま皆さんの身元を確かめておりますので……」
「なら今すぐこの女がいるか確かめろ!名前は——」
「えっ?」

突如自分の名前が大声で呼ばれ、思わずそちらを振り返る。卒業式での呼名よりも声量があって驚いた。誰だ、軽率に私のフルネームを叫ぶ輩は。名前一つとっても大事な個人情報なんだからな。
しかしそんな悪態も、彼の姿を見つけてしまえば全てが吹っ飛んでいた。

「何ですぐ分かんねぇんだよ!この無能が!」
「九井さん⁉」

距離はあったが私の声は届いたらしい。
こちらを見た九井さんに手を振ろうとした時だった。

「おい、君!」

静止の声も聞かず、規制テープを潜り駆けてきた。私が行こうとして手を振ろうとしたのだが勘違いでもさせてしまったのだろうか。毛布がずれない様に握りしめ私も駆け出す。

「えっちょっと、ここにいて大丈夫ですか⁈警察もいるんですけど」
「怪我は?煙はどれくらい吸った⁈」

勢いよく両肩を掴まれ、その気迫に後退する。ちょっと待って、毛布の下は下着しか身に着けてないからあまり揺らさないでほしい。下着と水着は同じようなものだという人もいるが私からしたら下着は下着だから。こんなところで痴女を晒したくはない。

「大丈夫!大丈夫ですから!九井さん落ち着いてください!」

肩を上下させて息をする九井さんは私よりも苦しそうな表情をしていた。額には汗が滲んでいて私の肩に添えられた手も震えている。普段冷静な九井さんらしくもない。だから私も私らしくもなく、その手を掴み両手で包み込んだ。

「大丈夫です。怪我もないですし、私は生きていますよ」
「あぁ……そう、だな。生きてる……オマエは、生きてっ……」

倒れ込んできた九井さんを支える。そうしたら腕が背後へと回され強く抱きしめられた。その力は痛いくらいで、いつもなら文句の一つや二つ言ってやるのだができなかった。
何故なら、九井さんが譫言のように「生きてる」と何度も繰り返し唱えていたからだ。

「私はちゃんと生きてますよ」
「あぁ」

九井さんの脚に力が抜けたものだから二人して地面に座り込んだ。
はぁ、と私の肩筋に息を吐き出した九井さんの頭を撫でる。

「生命保険にも入ってないのに死にませんよ」
「相変わらずオマエは一言多い」

顔を上げた九井さんは泣きそうで。
それでいてヘタクソに笑っていた。
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