どうも、九井の恋人になります


彼女と海に行った翌日だった。
閉店時間になり、ドラケンは用事があると言って先に帰った。オレはパーツの在庫を確認してから帰ろうとパソコンを立ち上げる。

しばらくしてスマホに通知が届き確認すれば彼女からだった。「昨日はありがとう」という言葉に続き「悩んでたことが馬鹿らしいくらい元気になった!」とブサイ……個性的なスタンプと共に送られてきた。
姉さんとはそっくりの、でも中身は真逆な女の子。いつも明るく前向きで、しかしそれに比例するほどの危うさがその子にはあった。そしてオレはいつしか目が離せなくなった。

率直に言うと、好きになった。
彼女がココと同じ組織にいることは何となく分かった。そしてココもまた、オレが彼女と会っていることに気付いているのだと思う。
だからこの再会は偶然ではなく必然だ。



「よぉ、イヌピー」
「ココじゃん」

店仕舞いをして裏口から二、三歩進み声が掛けられた。まるで昨日も会ったかのような口振り。でも実に十二年振りにココと再会した。  

「ハハッ!めっちゃ髪伸びてんじゃん」
「ソッチも銀髪ストレートって、昔と真逆!」

ひとしきり笑って「少しいいか?」と声が掛けられる。答えはもちろん決まってる。だからオレは施錠したばかりの扉を再び開けた。

「バイク屋なんてイヌピーらしいわ」
「そんな儲からねぇけどな。でもドラケンと二人で仲良くやってるよ」
「へぇ」

ソファに座ってもらい飲み物でも出そうとしたが断られた。あまり長居する気はないらしい。

「彼女のこと?」

だからオレから話を切り出した。ココは少し驚いて、でも想定はしていたのか「あぁ」と短く返事をした。

「アイツ助けたのイヌピーだろ」

そしてココは確信を持ってオレと彼女の出会いを言い当てた。曰く、彼女を強姦した男を探すべく周辺全ての防犯カメラをチェックしたところオレの姿が映っていたらしい。

「で、礼を言おうと思ってな。アイツのこと助けてくれてありがとう」
「何でココが言うの?」
「一応、アイツの上司だし」

それだけじゃないだろ。彼女がココの下で働いているのは知っている。でもココにとってきっと彼女は部下以上の存在だ。だってそれは——

「彼女さ、赤音に似てるよね」

L字型ソファのそれぞれに腰掛けて、距離は確かにあったのにココが息を呑む音が聞こえた。
やっぱりそう思うよな。オレですら街で見かけたとき腕を掴んで引き止めた。だからきっとココからしたら手放したくない存在だと思う。だってココは今も赤音が好きだから。そうでなければ赤音の命日に墓参りなんか行かないだろう。十年以上、毎年欠かさずオレが行くよりも先に墓には花と線香が添えられている。

「あぁ……マ、中身は残念なくらい似てねぇけど」

ココが小さく笑ったのを見逃さなかった。オマエのそんな顔、初めて見たわ。

「この間なんか——」

そしてココが金に関わること以外で誰かの話をするのを初めて聞いた。いや、赤音のときもそうだったか。でもだからこそオレは確かめたいことがあった。

「——本当バカだよなアイツ」
「……ココはさ、彼女が赤音と似てるから大事にするの?」

彼女が『間違えられた方』になって傷付いてほしくなかった。だってオマエの裏の顔まで知って歩み寄ろうとしてくれてんだ。

「ちげぇよ。バカみたいに素直だから面倒みてやってんだ」

オレの知らない顔で、ココは笑う。それがココなりの愛情表現だということ痛いくらいに分かってしまった。あーあ、外見だけが理由ならここで一発殴れたのにな。

「じゃあなイヌピー」
「おーあんま無茶すんなよ」

店の裏口を出て夜の闇へと消えていく。「じゃあな」ってココは言ったけどオレらがまた会う日なんて来んのかな。また十二年後だったらウケる。
幼馴染、友達、仲間、相棒……オレ達の関係性は結局よく分からない。
でもあえて今の関係に名前を付けるとしたら恋敵だ。

◇ ◇ ◇

手に持った紙袋はほかほかと温かく、香ばしい匂いがした。露店営業している屋台に出会い、たい焼きを五つも買ってしまった。というのも九井さんももうすぐアジトに帰って来るらしいので。
鼻歌混じりにドアを開け休憩スペースの一角へと向かう。誰もいないだろうしテレビでも付けようかと思ったところで背後に気配を感じた。

「アンタだれ?」

振り返れば華奢な男の子が一人立っていた。いや、男の人か。白髪で闇より深い真っ黒な瞳。初めて見る顔だ。ここは数ある梵天アジトの中でも上の階級の人しか入れない場所なのだがこの人も幹部なのだろうか?

「ねぇ」
「あ、すみません。私は九井さんの下で働いている者になります」

答えたものの、ふぅんと興味なさ気に返される。私としても貴方が誰なのか気になるのですが……でも私が聞くよりも先に彼が私の手元を見て口を開いた。

「それなに?」
「たい焼きですけど」
「食べたい」
「はい……はい?」

私たち初対面ですよね?目の前の彼は私の手元をガン見している。まぁ五つもあるし一個くらいいいか。

「どうぞ」
「ん」

口を開けて差し出せばそのまま紙袋をごと持ってかれた。うん、そうじゃない。彼はペタペタとサンダルを鳴らしソファへと腰を下ろした。そしてそのまま片腕に袋を抱き、中から一つたい焼きを取り出してはもぐもぐと食べている。

「お茶飲みますか?」
「ん」

棒立ちでいるのも恥ずかしいので緑茶も勧めてみた。どうやら御所望のようなので二人分の準備をする。今から湯を沸かすが新しく買ってもらったケトルのおかげで早く淹れられそうだ。
急須に茶っぱを入れながら彼を盗みみれば首の後ろに梵天の刺青があった。ならやはり幹部の人なのだろうか。ただ、私が幹部で唯一顔を知らないのが望月さんという方だが噂で聞いた容姿と目の前の彼は随分と違う。本当に誰なんだ。

「粗茶ですがどうぞ」
「ん」

それにしても、この人「ん」しか言わなくなっちゃったな。たい焼きを一つ食べ終え、彼は再び紙袋の中に手を突っ込む。マジで全部食べるつもりか?と見ていたら目が合ってしまった。

「なに?」
「たい焼き」
「うん」
「私も頂きたいなと」
「…………」

紙袋の中と私を交互に見ている。そしてその中から一つ取り出して「ん」と言って手渡された。

「ありがとうございます」

何で私がお礼言ってんだろ。彼も二つ目を取り出して二度目のもぐもぐタイムに入る。テレビを付けるタイミングも失った為このもぐもぐタイムが気まず過ぎてしょうがない。
しかし、そこで助け舟でも来たかのように電子音が部屋に響いた。それは彼のスマホからで、お茶を一口啜ってからのんびりと通話ボタンを押した。

「なに?……あぁ、すぐ行く」

その通話も一言二言のやり取りで直ぐに切られる。彼は二個目のたい焼きも胃に収め、お茶も飲み干したところで立ち上がった。

「ごちそうさま」
「あ、はい」

私を一瞥して彼は部屋を出て行った。なんか狐につままれたような時間だったな。そして残りのたい焼きは全て持ってかれた。それにしてもとても不健康そうに見えたのだけどちゃんとご飯は食べているのだろうか。持ってかれたたい焼きが少しでも彼の栄養になればいいが……

「マイキーいるか⁈」

自分もたい焼きを食べ終え、お茶を啜っていたところで扉が勢いよく開いた。思わず気道に入り込み咽せるが、そんなことはお構いなしにと姿を現わした春千夜さんは私に詰め寄った。

「オイ、ボスは知らねぇか⁈」

こんなに慌てた春千夜さんは初めて見る。でも生憎私は梵天の首領であるマイキーさんの顔は知らない。知らないです、と答えれば空の湯飲みに視線を移し他に来た奴はいないかと問いただされた。

「私からたい焼きを奪って行った人なら来ましたけど……」
「!——白髪で首の後ろに刺青はあったか⁈」
「はい」
「どこいった⁈」
「えーっと……掛かってきた電話に『すぐ行く』と言って出て行きましたけど」
「チッ!」

盛大な舌打ちをして春千夜さんはどこかに電話を掛けていた。そしてその横顔を見た時、左の頬が赤く腫れていることに気が付いた。殴られたような痕。春千夜さんが、しかも顔にだなんて珍しい。

「入れ違いかよクソッ」
「あのー顔大丈夫ですか?手当てします?」
「あ?」

電話が終わったタイミングで一応声は掛ける。そしたら思いっきり睨まれた。

「誰のせいだと思ってんだよ!」

そして頭を鷲掴まれそうになったので即座に避けた。私のせい?全く身に覚えがないのだが。
本日二度目の春千夜さんの舌打ち。そしてもう一度頭を掴まれそうになったところで春千夜さんの電話が鳴り難を逃れる。今日は着信音に助けられることが多いな。

春千夜さんは耳にスマホを当てたまま部屋を出て行った。去り際に目が合えば中指を立てられたが私の身には何もなかったので良しとしよう。そうして再び静寂が訪れたところで二杯目のお茶を急須に注いだ。
そういえば先程は流してしまったが、話を繋げると私からたい焼きを奪って行った人がマイキーさんってことだよね?ということはあの人が梵天の首領…?私の想像とは全く違った人だった。

ガチャ——
まさかあの人が「無敵のマイキー」か。物凄いレアキャラに遭遇できた気がする。そうしみじみ思っていれば九井さんが帰ってきた。
おかえりなさい、と声を掛けつつ私は嬉々として梵天の首領に会ったことを報告しようとした。

「九井さん聞いてくださ…——え、」

しかし九井さんは無言のままこちらへ歩いてきた——と思えば勢いよく私の隣に座った。その様子に驚いて九井さんを見上げれば、何故かめちゃくちゃ機嫌が悪そうであった。

「どうしました……?」
「なんで言わなかった?」
「何をです?」

春千夜さんも私に怒っていたし、九井さんも怒っている。しかし当の私に心当たりはない。人様の地雷の上でタップダンスした覚えはないんだけど。

「三途の仕事着いてったろ?」
「あー……着いて行ったというか攫われたというか」
「現場、見たか?」

九井さんを見つめ返しながら記憶を辿る。発砲音に男の叫び声、足元に広がる血溜まりと硝煙の匂い。蓋をしていた記憶が蘇る。

「裏切り者が撃たれたところまでは」
「倉庫内には行ってないな」
「はい」

九井さんは膝に肘を着き、前屈みになった状態で大きな溜息をついた。その横顔は銀の髪で隠れて見えない。そういえばその事は九井さんに報告はしていなかったな。仕事自体はよくやる受け子だったし、拳銃ぶっぱは確かに怖かったけどイヌピーに話を聞いてもらって満足してしまったのだ。

「九井さん……?」

全く動かなくなってしまった九井さんに声を掛ける。しかし返事もなければ反応もない。
髪に隠れた横顔を見つめること十五秒。ようやく吐き出すように九井さんから言葉が発せられた。

「オマエは梵天の仕事には関わんな」
「なぜですか?」

九井さんは上体を起こし背中をソファに預けた。ようやく顔が見れたと思ったらそれは険しいものだった。いまの九井さんの横顔は以前、私が進学したかったという話をしたときに見せたものと似ていた。

「そこまで深入りする必要はねぇってことだ」
「梵天は人を殺したりもするからですか?」
「そうだ」

人殺しはいけないこと。でもここで一つ言いたい事は、私はそこまで他人に対して優しくないということだ。目の前で撃たれたあの人のことは気の毒だと思う。でも、そもそも裏切ったことが悪い。また、私が父親の代わりに梵天に拉致されたとき他にも同じような人がいたが彼らに同情はしなかった。私はあの時自分の運命を変えるために行動した。それもしないで怯えているだけの彼等を見て、可哀そうとは思えどやはり同情は出来なかった。
だから今の私が確かめたいことはたった一つだ。

「九井さんは私が使えなくなったら殺すんですか?」

私はそこまで器用でもないので裏切るような行為はできない。となると懸念事項は九井さんから見た私の利用価値。もし私よりも優秀なハッカーでも現れたら用済みとして消されるか否かだ。

「殺す…………社会的にな」
「どういう意味です?」

こちらは真剣に聞いているのに、何故だか悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。

「戸籍上死亡扱いにすりぁいいだけの話だ」
「その後は?」
「オマエが逃げねぇように首輪つけて閉じ込める」
「うわぁ大変特殊な性癖をお持ちのようで……」
「先に聞いてきたのはオマエだろ」

ガチでドン引いていたら睨まれた。でもその後も否定されはしなかったので割と本気らしい。まぁしかし、どうあれ一生九井さんの隣で働かされるということか。

「九井さんになら殺されてもいいかもしれませんね」

でもそれを嫌だと思わなかったのは、あの家にずっと居られると思ったからだ。



ふと、自分の立場を考える。父親に借金がなかったら、大学に通えていれば、私は自分の夢を叶えられていたのかもしれない。でも今となってはそんなタラレバ話に夢見ることはなくなった。

九井さんに評価してもらえる職場は居心地がいい。中身のないような話にも一々付き合ってくれる。一緒に出掛けるようになって、食事する機会も増えた。家に住まわせてもらうようになってからは私の手料理をたくさん食べてくれる。いってらっしゃい、と言えば「いってきます」と返してくれる。車の助手席は私の定位置になって、そして一緒の家に帰る。
借金返済がどうでもよくなった。

ずっと九井さんの隣にいたい。
きっとこの感情を世間では恋と呼ぶのだろう。
私は、九井さんを好きになった。

——と、柄にもなく考えていたらソファで横になったまま寝落ちしたらしい。瞼の外側から光を感じ意識が浮上した。
このマンションの玄関とリビングは人感センサーライトになっている。だから人が来れば自動的に明かりがつき、一定時間室内に物の動きが感じられなければ明かりは消える。つまり明かりがついたことは九井さんが帰宅したことを表していた。

「寝てんのかよ」

起き上がる前に発見されてしまった。でも今更起き上がったとこで「リビングで寝るな」とお小言をもらいそうな気がする。仕方がないのでそのまま狸寝入りを決め込むことにした。

「……………」

自分の部屋に戻ったときにでも起きようと思ったのに、まだ近くにいる気配がする。もう目を開けるタイミングも失ったのでじっとしていることにした。

「はぁ……」

と思ったら傍でもの物凄く大きな溜息をつかれた。そんなにここで寝ていたことがいけなかったのだろうか。自分だって偶に寝る癖に。それに気付いた優しい私が毎回ブランケットを掛けてあげてるのを忘れたか?
肩に手が添えられたので起こされると思った。それならもう潔く起きてやろうと、重い瞼を持ち上げる。

「……!」

でも開けた視界を覆ったのは九井さんの口元で。私はすぐに目を閉じた。

「……はぁ」

でも自身の身には何もなく、代わりにもう一つ溜息が落とされた。
それと同時に肩に乗せられた手が離れていく。
何もなかった事がいいのか悪いのか。その答えは分からない。でも一つ分かったことは、私が期待をしたという事実だった。

「キス、されると思いました」

ぱちりと目を開け、体勢を変えずに九井さんを見上げた。
すでに立ち上がり私に背を向けていた九井さんの動きが止まる。そして油の切れたブリキ人形の様にギギギッと振り返った。私は相変わらず寝転んだまま九井さんを見つめる。

「……起きてんなら言えよ」
「いま起きたんですよ」

すぐにバレると思った嘘。でもそれ以上なにを聞かれることはなかった。そして九井さんとしては珍しく私から視線を逸らして顔を背けた。

「今のは忘れろ」

忘れろってことはしようとしてたって事じゃないの?九井さんって肝心なことはいつもはぐらかす。それってずるい。いつも私には自分が納得するまで詰め寄ってくるのにさ。

「九井さんならいいのに」

ぽそりと、拗ねたような子供の独り言。
それを聞こえるか聞こえないかの声量で言った。

「は?」
「部屋で寝ます。おやすみなさい」

別に聞こえてなくたっていい。ソファから起き上がり自分の部屋へと一直線に向かった。

「おい、もう一度言え」

しかしどういうわけか九井さんが追いかけて来た。そしてわざわざ私の前に回り込み目の前に立つ。確かにここは廊下で道幅は狭いけれど人間がすれ違うほどのスペースは余裕である。なんせ億ションなのだから。だからつまり、あからさまに道を塞がれたという事だった。

「忘れてください」
「言え」

やっぱり私にばっかり言ってくる。だから私は揚げ足取りで、おやすみなさいともう一度同じことを言った。そしてそのまま脇を通り過ぎようとしたら伸びてきた手でまたも道を塞がれた。目の前には九井さんの左腕が、そして背後は右腕でふさがれた。覆いかぶさるように囲われ壁に追い詰められる。前にも後ろにも逃げ場のなくなった私に、九井さんはもう一度同じ台詞を静かに言った。

「一回しか言いません」

だから私はもう一度誤魔化した。照れ臭さからか意地なのか。静まり返った廊下では呼吸をするのも苦しかった。

「じゃあ聞き間違いだとしても恨むなよ」
「はっ…——」

でもその空気が変わるのは一瞬で、気付いた時には唇を塞がれていた。
初めの一秒は頭が真っ白で。
二秒後に視覚情報を取り戻し。
そして三秒後にようやく今の状況を理解した。

「ちょ、ここっ……んぅ」
「恨むなっつったろ」

離された唇は一センチにも満たない距離。それも再び言葉ごと飲み込まれた。しかも僅かに開いた隙間から舌を入れられる。当然恋愛経験のない私からしたらそれは初めてのことで……どうすればいいか分からずそのまま口内を好きなように荒らされた。
呼吸の仕方すら忘れた私はずっと息を止めていて。そして酸欠で倒れそうになったところでようやく解放された。

「なっ、なんでぇ……?」

肩で息をして体に酸素を取り込む。ふらふらな体が倒れなかったのは九井さんが私の腰を支えてくれていたからだ。

「先にいいつったの、オマエだろ」

いや、まぁ言ったのは私だけど……でも九井さんの意思は?

「あ、の……」

今度は私がブリキのおもちゃになったみたいだ。でも私は人間だから、その顔はみるみる赤くなっていた。それが自分でも分かったから顔を伏せた。そして正常な思考を取り戻す前に背中に腕を回され抱きしめられる。九井さんの香水が益々私の脳を麻痺させた。
そのまま動けずにいると九井さんは私の耳元に唇を寄せた。そして「一回しか言わねぇからな」という盛大な前置きをして。私は九井さんの心音を聞きながら微動だにせずその続きを待った。

「オマエの事が好きだ」

ぁぅ、とよく分からない声が口から溢れる。そしたら頭上でクツクツと笑われた。この数十分の間にされるやり取りにしては情報過多だ。私の脳内はとっくにキャパオーバーしていた。

「本気で言ってます?」
「いま嘘ついてどうすんだよ」
「確かに……」
「で、オマエは?」

心臓の動きが加速する。そして猛毒のような香りを吸い込んで私は九井さんの背中に手を回した。

「……好きです」
「おー」

勇気を振り絞った一言。しかしそれを相槌程度で返された。少し悲しい。だから距離をとって腹パンでもしてやろうかと思ったのだが一向に九井さんの腕の中から抜け出せない。

「九井さん?」
「あー……ヤベェいまこっち見んな」

九井さんの右手だけが体から離れていく。それは顔の方へと吸い寄せられていった。その所為で九井さんの表情が窺えない。

「顔が見たいです」
「見んな」

ねぇねぇと服を引っ張ってみるが腕を緩められるどころか返事までしてくれなくなった。さっきまで私のことを好き勝手していた人とは思えない。
この時、私は自分の方が優位な立場であると錯覚した。だから先程の仕返しで少しだけ意地悪してやろうと思ったのだ。

「九井さん」
「…………」
「私からキスしたいです」

腕が緩んだ瞬間を見逃さず私はそこから抜け出した。埋まらない身長差。だから首に腕を回して引っ張った。でも自分からのキスなんて初めてだから数秒唇を合わせる程度。しかしそれでも威力は十分だったらしい。改めて見た九井さんの顔は真っ赤だった。

「そんな顔はじめて見ましたよ」
「ッ!……オマエ、今日は覚悟しとけよ!」
「えっ、うわぁ⁉」

足が床から離れたと思えばそのまま横抱きにされた。不覚にも腕は首に巻き付けたままだったからそのまましがみつく体勢となる。
そうして連れて行かれたのはクイーンベッドがある寝室。その真ん中に投げ捨てられるかと思ったら想像よりも静かに降ろされた。

「元よりあれだけで終わると思ってんじゃねぇよ」
「いや、あの、でもっ私……!」

初めてなので……と消え入りそうに言えば「知ってる」の一言で返された。まぁそうだろうと思った。
九井さんの顔が近付いてきて反射的に目を瞑る。おまけに唇も固く結んだ。そしたら小さく笑う声が聞こえ、唇ではなく瞼にキスが落とされた。

「痛かったら言え」
「えーっと……」
「努力はする」
「うぅ……」

もう言い訳はできない。私は緊張しながらも二つ返事で頷いた。

「煽ったのはオマエなんだから責任取れよ」

意地悪く笑うは目の前の男。
でも夜のはじまりのキスは何度も求めたくなるほどやさしかった。

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