強者と弱者

時刻は十八時ちょうど。戸建ての家からはカレーの香りがし、向かいのアパートの小窓からは風呂場の湯気が揺らめいている。目の前を猫が通り過ぎ空にはカラスが湾曲を描き山に帰ろうとしていた。そのカラスを追うように夕日に向かって歩きだす。

「出現場所に規則性はなかったんだよね?どうやって探そうか」
「とりあえず警備も兼ねて歩こう。私達を狙って悪魔が姿を現すかもしれない」

私達と言うよりは私だけれど。
この地区一帯には十八時から十九時間の外出禁止通達がなされているため人っ子一人いない。そこにこれ見よがしに餌がほっつき歩いていれば向こうから寄ってくるはず。悪魔の知能がそこまで高くなければの話だが。

「そういえばキミは悪魔と契約してるの?」
「うん。吉田君は?」
「使える奴はいるかな。連携を取る為にも契約している悪魔を知りたいんだけど教えてもらえる?」
「うーん……」

吉田君の言うことは一理あるがここで言うのは躊躇われる。それは彼の思惑通りになりたくないという気持ちと、会って数時間の人間に手の内を明かすのがちょっと不安だったのだ。

「ダメ?」
「吉田君も教えてくれるならいいよ」
「どうしようかな」
「え、そっちも教える気ないじゃ、…うわっ?!」

平坦なコンクリート道にも関わらず右足がつんのめった。いや、後ろから足首を掴まれたのか。力を込めて振り払おうとするも勢いを付ける前に左足も掴まれる。その反動で地面に倒れ込みそうになるも確かな腕に抱き留められた。

「墨」

真上から振って来たその一言で辺りが黒煙に包まれる。吉田君の力なのだろうか。彼はそのまま私の体を持ち上げて黒煙の届かぬ場所まで一気に駆け抜けた。

「大丈夫?」
「ごめん、ありがとう。何か見えた?」
「地面から生えた黒い何かがキミの足を掴んでた。でもそれは陽炎みたいに揺らめいていたよ。もしかしたら……っと」
「…?!」

私を抱えたままその場をジャンプする。そうしてまた「墨」と唱えて煙幕を張った。今のは流石に私にも見えた。煙が晴れた地面に映し出された影、それがこちらへ手を伸ばしていた。きっとこれは『影の悪魔』だ。

「なるほど、だから一番影がのびる夕暮れ時に現れていたのか。でもどうしようか、影が相手となると接近戦になる」

それなら寧ろ好都合だ。契約している悪魔の性質上、近距離攻撃しか私は出来ない。悪魔を呼び寄せる体質の私とは相性が良く、またこの悪魔のお陰で身体も強くなった。生殖機能が発達している代わりにオメガの体は脆いとされている。

「私が戦う。でもこの影が悪魔本体だと思えないから吉田君には核を探してほしい」

一人分の影だけならいい。しかし今回の最悪のケースは悪魔が全ての影を意のままに操れた場合だ。塀も電柱も標識もカーブミラーも。そこかしこに影は存在する。その全てに一斉に襲われてしまえば敵わない。

「……分かった」

丁寧に地面へと下ろされる。その途端、煙の晴れた先から槍のような鋭い影が飛び出した。しかし鼻先に触れる前に元の三倍以上に大きくなった手で薙ぎ払う。正確には爪か。私の両腕はオオカミのそれだった。

「っ、そっちか!」

目の前の影がその場から動かなくなる。が、すぐ傍の電柱の影が揺らめいたのを見逃さない。契約している『狼の悪魔』は私の体を半獣人化させる。見た目に関していえば両手と両脚の変化、それに加え耳と鼻が良くなり視野は三百六十度まで広がる。

「狼の悪魔と契約しているのか。面白いね」

第二性を考察する論文にはしばしば狼の群れに範を取った階級社会が例に挙げられる。その皮肉とばかりにオメガがオオカミの力を借りるのは馬鹿げているだろうか。でもマキマさんにも褒められたこの力は気に入っている。

「本体は見つかった?」
「うん、蛸に探らせたら分かったよ。角を曲がった公園の滑り台の下にいるみたい」
「行こう!」

吉田君の後ろでは蛸の足が蠢いていた。きっとあれが彼の使える力なのだろう。
目の前の影にいくら攻撃をしたところでこの悪魔は殺せない。だから吉田君の情報を頼りに公園へと駆けていく。

そして悪魔は確かにいた。
蛸の姿を模した大きな滑り台の下。そこには小さな影が逃げて集まったのか黒い塊として蠢いていた。吉田君は滑り台に向かって呑気に「お揃いだ」なんて笑いながらその隙間に蛸脚を突っ込んだ。

「わっすごい」
「影の悪魔なんて言ったけどやっぱり光には弱いんだね」

蛸脚が影を滑り台の下から引っ張り出して僅かに残る夕日の下で絞殺していった。力を失った影は黒いヘドロになりぼたぼたと音を立て地面を汚す。そうして公園の三分の一ほどを汚して影の悪魔は死滅した。

「これで終わりかな?」
「うん。でも随分と呆気なかったな」

確かに。日の光の下で痛めつけて死ぬなら行方不明になったデビルハンターでも対処できたような気もする。念のためしばらくそのヘドロを観察していれば西の空を赤く染めていた太陽が徐々に姿を隠していった。

夜の帳が下り、辺りが薄暗闇に包まれる。そうすれば公園の頼りない外灯が点滅しながらついた。その光はぼんやりと地面を汚したヘドロを照らす。するとそれがグツグツと煮えたぎるマグマのように動きだした。

「あれが本体?」
「みたいだね。俺達にわざと自身の一部を殺させてからそれらを一つにまとめ上げたってわけか」

影は外灯の光を受けてさらに大きくなっていく。高さはおおよそ三メートルほどか。そして膨れ上がった体の中から槍のような複数の影が放たれた。

「……っ!」
「蛸」

ギリギリのところで飛び上がり回避、そして吉田君は蛸脚を周囲に張り巡らせ防御壁を作っていた。しかし悪魔は私達が避けることも想定の範囲内だったらしい。着地地点に合わせて槍が飛んでくる。しかしそれはどこからか伸びた蛸脚が叩き落としてくれた。

「大丈夫?」
「ありがとう……くっ!」

やはり目当ては私らしい。手の形へと変化した影が次々と伸びて来る。しかし吉田君への牽制も忘れずに槍を放ち続けている。

「きっと腹の下に核がある」
「え?」
「さっき見えたんだ。そこだけ赤黒く脈打ってた、心臓の役割をはたしてるんだと思う」

核の場所が分かってしまえばこちらもの。そして何も言わずとも私が取るべき行動が分かったのだろう。
吉田君は自身の周りを覆っていた蛸脚をすべて影の悪魔へと向けた。突然の反撃に驚いた悪魔の攻撃がわずかに大人しくなる。その隙に足に力を入れ核に向かって突進した。悪魔の力に頼り過ぎた影響で靴が壊れる。今の私の足は狼爪と肉球までもある立派な獣脚だった。

「今度こそ死んだかな」

そして強靭な爪で抉ってしまえば影は再び黒いヘドロとなって動かなくなる。取り出した核はボーリングの玉ほどの大きさがあるがそれも壊せばヘドロは灰になって夜風に遊ばれた。これで駆除完了。そして喜ばしいことにマキマさんへのお土産もできた。

「銃の悪魔の肉片を持ってたみたいだね。吉田君の方はだいじょ…ッ、いW?!」

背中に強い衝撃——状況を飲み込む間もなく地面へ胸を打ちつけた。次いで上から押し付けられたことにより肺が潰され息苦しい。それでも浅く、盛りの付いた犬のようにハッハッと短い呼吸を繰り返す。口の中には砂利が入り込んだがそんなことは構っていられなかった。

「ねぇ、キミって、…ッもしかして…オメガ、だったり……する?」

荒い呼吸の隙間から発せられる言葉。深海の底から這い出てきたような、言葉では言い表せない感覚が全身に纏わりつく。彼と出会ってからずっと感じていた何かが形を持って姿を現した——吉田君は、アルファだ。

「なんっ、で…?!」

今日の任務はベータ性の人だと聞いていた。それもありヒートを抑えるための抑制剤も追加で投与していない。本来であれば発情期は約三ヵ月に一度の頻度で起こるが悪魔の力でオオカミ化をするとその周期が早くなる。そのツケがいま回って来た。

「それはこっちが聞きたいなぁ……っにしても、きっつ」

うつ伏せに押し倒された体の上には吉田君が馬乗りになっていた。全身に熱を帯び脳までもが侵されて思考が上手くまとまらない。吉田君がオメガのフェロモンに当てられているように、私自身もアルファという絶対的強者の前で服従するよう本能が働きかけているようだった。それでも狼の悪魔の力を借りているこの体は少しは抵抗できるらしい。なんとか抜け出そうと必死に藻掻いた。

「どいて!」
「初めて会ったときから不思議な香りがするとは思ってたんだけどね。そうか、オメガだったのか」
「い、いや!…やめて!……うッ」

抵抗虚しく押し倒すように体重が掛けられた。頬が地面にぶつかり、呻く。しかし反対側の頬はやさしく撫でられた——違う、彼の髪が掠めたのだ。うなじにヒヤリとした感触は服の中に手を入れられた証拠。そして次の行為を助長する用に腰元に熱が擦り付けられる。

「はぁ……ここが一番強い香りがする」

首の後ろを夜の風が吹き抜ける。ここで吉田君に噛まれてしまえば私達は番になってしまう。そしてオメガのフェロモンを発しなくなれば私の価値が半減する。それにこれは何よりもマキマさんを裏切る行為。

「〜〜ッ!いやだ!ほんとに、やめ……っ」

しかしついに泣き叫ぶことしかできなくなっていた。
オメガという不遇な人生を受け入れて。それでも強くあろうと思ったのに。

厄介者だと忌み嫌われるのならば抗う力を手にしなさい——そう言ってくれた両親の為にもこんなところで負けたくない。がんばって生きなさいって、そうお父さんとお母さんが言ってくれたから。

「うぅ……ぃ、ゃ」
「ハァ…ハッ……、ガァッ?!」

お父さんとお母さんが……?

「おーおー最近の若けぇ者は外でやんのな。お盛んなこったぁ」

上からの圧迫感がなくなりすっと呼吸がしやすくなる。しかしずっと押さえつけられていた体は痛く、まだ頭もぐらぐらする。それでも瞬きをして涙の膜を剥がし視線を動かした。目の前にはくたびれた黒の革靴。そして同じように着古したロングコートの裾が見えた。

「せんせい……?」
「どうやら向こうのミスで任務の派遣先に手違いがあったらしい。にしても大分やべぇな」

いつものようにジャケットの内ポケットからウィスキーボトルを取り出す。そして半分ほど中身が入ったそれを一気に煽った。普段なら、体に悪いですよと言葉を掛けるのにその様子をただ黙って見ることしかできなかった。そしてそんな私を見下ろしながら先ほどとは反対側の内ポケットから一本の筒を取り出す。それは自己注射型の抑制剤だった。

「悪りぃがこういうのは不慣れでな、痛かったら言ってくれ」
「あ……、っいたぃぃ」
「そうか、効いてる証拠だな。じゃあもう一本打つぞ」
「いやちょっと待ってくださいそれ一本で十分やつでっ、…〜〜っ!」
「よく喋んな。まぁ二本くらいじゃ死なねぇだろ」

腕に二本分の抑制剤が打たれた。先ほどまで騒がしかった心臓が落ち着きを取り戻し、トクトクと弱く波打つ——えっこのまま死なないよね?

「あの、」
「あ?」
「吉田君は……?」

このまま死ぬ気はないけれど心残りはある。体に負荷を掛け過ぎたのか瞼が重くなってきた。それでも目だけを動かして吉田君の姿を探した。おそらく岸辺さんに蹴り飛ばされたはずだ。

「生きてはいるだろうよ。俺の蹴り一発で死ぬほど弱く育てた覚えはねぇからな」
「本当ですか?すごい音がしたから」
「まぁあばらの一、二本は折れてるかもな。つーかあんなことされてもまだアイツの心配すんのかよ」

だって初めて一緒に買い食いをできた人だったから。
地元の田舎には学校帰りに寄れるところもなくて。東京に来ても仕事の日々で友達すらいない。それに高校にも通えていないのだからからそういうW学生っぽいWことができてちょっと嬉しかったんだよね。

「病院連れてってあげてくださいね」
「お前が言うな」

ようやく安堵すれば瞼が視界を遮った。そして海の底に誘われるように深い深い眠りへと誘われる。その先にあるものは何か。私はまだ答えを知らない。