さようなら
偶に見る夢がある。
家の壁にはペンキで書かれた「出て行け」という文字があり、その庭にはネズミの死骸や生卵が投げ込まれている。酷い臭いがしていたけれどそこの家主は誰を責めるわけでもなかった。
背筋をシャンと伸ばして胸を張った男性と陽だまりのような温かな雰囲気が特徴的な女性——私の両親はどこへ行ってしまったのだろうか。
「う、……ん?」
「あっ目が覚めた?」
ゆっくりと瞼を持ち上げればトパーズの瞳と目が合った。その中にはいつも通り波紋が広がっておりじっと眺めていると考え事をしていることが馬鹿らしく思えてくる。そうして白くほっそりとした指で頬を撫でられてしまえば夢を見たこともどうでもよくなった。
「マキマさん、私……」
「話は聞いたよ、大変だったね」
真っ白な壁と天井。開け放たれた窓からは柔らかな日の光が差し込み、時折吹く風が白いカーテンを揺らしていた。左腕には点滴の針が刺さっていて体も重い。話を聞けば私は丸三日眠っていたらしい。原因は抑制剤の過剰摂取と初めて当てられたアルファからのフェロモンによるものだった。
「ご迷惑を掛けてすみませんでした」
「いいよ、だってしょうがないことだもん。ただ、今後も同じようなことがあると困るからキミには京都に行ってもらいます」
「え?」
マキマさんは眉一つ動かさずに私の頬を撫で続けている。一見穏やかそうに見える表情も、その奥底の感情までは読み取れない。いや、そもそもマキマさんの考えていることを知れた試しなど一度もない。でもここで捨てられるわけにはいかないのだ。
ベッドに手を付きダルい体を起き上がらせる。
「待ってください、何故私が京都に?」
「今言ったよね、同じようなことがあると困るからだよ。少なくとも吉田ヒロフミとは距離を取っておいた方がいいからね」
そうだ吉田君。彼は今どこにいるのだろうか。しかしそんなことに構っている余裕などなかった。
「そうなると銃の悪魔の肉片集めはどうなるんですか?」
「それはもう大丈夫。今公安が保有する銃の悪魔の肉片は約六.四キロ、その結果ついに肉片が本体に向かって動き出したんだ」
「っ、私は戦えます!抑制剤もちゃんと打ちますしもう絶対に迷惑は掛けません、だから私をっ……」
「ねぇ、」
用済みだとは思われたくなくて食らい付く。しかしマキマさんはとても穏やかな表情で、しかしすべてを制圧するような冷たい瞳をこちらに向けた。その波紋を見ていると脳の動きが鈍る。
「忘れたの?キミを連れてくるときに私言ったよね、返事は『はい』か『ワン』だけだって。『いいえ』なんて言う犬はいらない」
「あ……」
「キミには京都に行ってもらいます。返事は?」
「はい」
「うん、いい子」
マキマさんだからか、それともアルファだからか。しかし彼女の言うことは絶対なのだ。
退院してすぐ私は京都に向かった。そしてマキマさんからの助言もあり、皮の悪魔と契約をして容姿をすべて変えた。抑制剤の予備は常に持ち歩くようにして大きな任務の前には必ず投与した。
いい子にしてたらきっとマキマさんに振り向いてもらえる。
そして番にしてもらえる。
そう、信じてた。
でもある朝目が覚めると恋焦がれていたその感情がすっぽりとなくなっていた。
その理由は単純明快。
マキマさん——『支配の悪魔』が死んだからだ。