馬鹿しかいない
三時間に及ぶ手術が行われたが吉田君の命に別状はなかった。ただ麻酔が切れるまでにはもうしばらくかかるらしい。それに切れたとしても時刻は深夜一時を回っており明け方までは眠っているだろうとのことだった。しかしそうは聞いても休む気は起きずに、病室のパイプ椅子に座り彼が目覚めるのを待った。
「ん、……」
僅かな息遣いと鳥のさえずり。薄ら目を開ければカーテンの隙間から朝陽が差し込んでいて無機質な病室がほのかに色づいていた。そしてその日差しの中、もぞりと動いた影を見て思わず椅子から立ち上がった。
「吉田君……?」
呟くように投げかかれば目尻まで綺麗にそろった睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上げられた。大きな黒い瞳が焦点を合すように動き二度の瞬きの後、ぴったりと目が合った。
「あぁ、キミは無事だった?」
「吉田君のお陰でね」
そう言いつつ湿布の張られた頬を指差した。治癒能力は普通の人より高いがそれでもまだ腫れている。そして肌自体はとってもカラフルな青と紫のマーブル模様になっている。
「それは、ごめん」
「怒ってないよ。見た目は酷いけど歯は折れなかったし絶妙な力加減でさすがって感じ」
「本当は怒ってるでしょ」
「ごめん、ちょっと意地悪言っちゃった。本当に怒ってないよ。寧ろ私のせいでこんなことになっちゃってごめん」
映画館に現れたのは『夢の悪魔』だったらしい。人間に心地よい夢を見させ目覚めさせないようにし徐々に肉体を喰らっていく。私が殺したのがその悪魔の本体だったらしいが、悪魔により眠らされた体は所謂仮死状態であのまま目覚めずにいたら相当危なかったらしい。
「悪魔は元々映画館にいたんだ。キミが呼び寄せたわけじゃない」
「でも私がいなければここまでの怪我は負わなかった」
吉田君の蛸なら夢の悪魔全体を締めあげて殺すことだってできたはずだ。でもそうしなかったのは私が中に取り込まれていたから。
「キミ意外にも取り込まれていた人間がいたんだ。どちらにせよ何も考えずに悪魔を殺すことなんてできなかったさ。それに俺にとっては役得だったよ」
「え、それはつまり私を殴れたからで……?」
「人をサディストみたいな言い方するのやめてくれる?」
正直、女殴ってそうな顔してるなとは思ってたんだけど……当然そんなことは言えるはずもなく素直に謝れば病室が一瞬静かになった。電子音だけが聞こえ、視界の端で点滴が一定の間隔で落ちている。吉田君は横になったままの体勢で私を見上げた。
「これで少しは狼の悪魔に認めてもらえただろ」
「え?」
「俺はキミに害をなす存在じゃなくて寧ろ守る為にいるってこと」
確かに、両親と狼の悪魔が結んだ契約内容が『私に危害を及ぼすような者を殺す』であった場合、番関係が守る行為であると悪魔が認めればオオカミが襲うことはないだろう。それは盲点だった。しかしそうなると一つ気にかかることがあった。
「ちょっと待って。もし吉田君が認められたらオオカミは自分の役目を終えたことにならない?」
悪魔との契約は絶対だ。でもそれが一生続くわけではない。悪魔か人間、そのどちらかが契約を守れなくなった場合、契約不履行という扱いになる。
「そうだよ、そしたら両親がオオカミと結んだ契約は破棄される。キミは悪魔の力を使えなくなるだろうね」
私はただの一般人……いや、
「キミは身を守る武器をなくすんだ。オメガのフェロモンのせいで悪魔にもアルファにも襲われるだろうね。可哀そうに」
それは私が何よりも恐れていたことだった。でも今は不思議と怖くない。
そっと床に膝をつく。するとスッと鼻を抜けるような香りがした。アルコールではない、どこか海を連想させるような深く安心できるような香りだった。その匂いを手繰り寄せるように手を伸ばす。滑らかな陶器のような肌に触れ、縁をなぞる様にして頬を撫でた。
「私のこと馬鹿馬鹿言うけどさ、吉田君も大概馬鹿だよ」
屈んだことにより同じ高さで視線が交わる。でも前髪が邪魔だったから指先で黒髪を梳いた。吉田君はくすぐったそうに目を閉じて、私が手を退ければその大きな瞳を僅かに細めた。
「ひどいな、俺のは純愛さ」
それも違う、ただのアルファの本能だよ。強者から弱者への施しのようなもの。そこに愛なんてない。でもそう突っぱねるには、彼は余りにも大きな傷を負った。そしてその目は真剣で思わず言葉に詰まってしまった。私はいま、この人を求めている。
「ねぇ、もう少しだけ待ってもらってもいい?」
「嫌だよ」
「お願い」
この気持ちがオメガの本能なのか、それとも人間らしい恋愛感情なのかは分からない。でも確かめたくなった。
「これでも結構限界なんだ。キミを知れば知るほど自分のものにしたくなる。それに確証もなく待てるほど俺は誠実じゃないからね、いつかの時のように襲う日だって来るかもしれない」
「……分かった」
マットレスに手をついて身を乗り出した。でも今はまだ番になりたくないから両腕は上から押さえつけることにより拘束させてもらう。吉田君の瞳が視界の端で揺れたことが分かる。彼は今何を考えているのだろうか。私はね、ちょっと緊張してる。これでも小さい頃は王子様という存在に憧れたりもしたんだよね。絵本のラストページはいつ見ても私の中でキラキラと輝いていた。
「あークソ、ほんと馬鹿だよアンタ」
キスで目覚めたお姫様は花のように微笑んでいたというのに、女殴ってそうという風評被害を見事実証してみせた男はひどい顔をしていた。でも普段余裕そうな顔しかしてない人が苦悩を浮かべている姿は中々に新鮮かもしれない。一年前の時は上に乗られて見えなかったからね。
「どうせ吉田君は初めてじゃないからいいでしょ。でもこれで信じてくれる?」
「分かった」
「待っててくれる?」
「分かったから。キミ寝てないでしょ、早く部屋に戻んなよ」
吉田君は首を振って自身の前髪で顔を覆った。おそらく私のフェロモンに当てられているのだろう。抑制剤を打っていても特有の香りがあるらしいから。まぁそれには獣臭も含まれているようだが。
「うん。またね」
さすがにこれ以上一緒にいるのはまずいと判断しすぐに病室を後にした。
体についた僅かに残る海の香り。それを深く吸い込めば身の内が熱くなるような感じがした。