里帰り
東京から飛行機で一時間、そこからバスと電車を乗り継いで四時間ほど。さらに言えばバスも電車も本数が少ないものだから実質の時間はもっとかかる。そして目的地もさして面白い場所でもないと説明したのに吉田君は「構わない」の一言で押し切って着いてきた。そして今は私の目の前でラーメンを啜っている。
「ここからあとどのくらいかかるの?」
「電車とバス乗り継いで二時間くらい。でも今日は市街地に泊まるよ、バスないから」
「まだ日も暮れてすらないんだけど」
「一日四本しか走ってないから行ったら今日中に帰れなくなっちゃう」
「この日本にまだそんなところがあるんだね。もう餃子食べないの?」
「うん、吉田君が食べていいよ」
「じゃあもらうね」
テーブルの中央に置かれた皿から最後の羽付き餃子がなくなった。美味しくも不味くもなかった醤油ベースのスープをひと口飲んでレンゲを置く。吉田君も餃子を食べ終わり手に持っていた割りばしをスープの残った器に沈めた。
「来たって何も面白いものはないと思うよ」
テーブルの端に置かれた水差しからコップに冷水を注ぐ。今まで水の味なんか気にしたことなかったのに、やはり都心よりも地元の水の方が美味しく感じられた。山からの湧き水かそれとも雪解け水の影響からかは分からないがカルキ臭くもなく甘味がある。
「キミの生まれ育った場所が見れれば十分さ」
「コンビニもないただの田舎だよ。吉田君も飲む?」
「うん、ありがとう」
三分の一ほど残っていたところへ水を注ぎこむ。昼時を過ぎた店内には他の客も居らず、隅に設置されたテレビが地元のニュースを流していた。そこへ時折、外を走る車のエンジン音が混ざる。
「何のお構いもできないし、うちが残ってる保証すらない」
コップの中の水を飲めばやはり甘くて美味しい。そういえば住んでいた村にも手押しポンプの井戸があったな。蛇口をひねるよりもそこからくみ上げた水の方が冷たくて美味しかった。特に夏場ともなれば代わる代わるポンプを押してみんなで水遊びもしたっけ。それはまだオメガ性の判別すらされていなかった幼少期の貴重な思い出だ。
「場所自体に興味があるんだ。キミこそ何もないと分かっていながらどうして帰ろうだなんて思ったの?」
吉田君もつられるようにして水をひと口飲んだ。その量は私よりも多い。ラーメンの味が濃すぎたのだろうか。それに関しては私も同意する。
「まぁケジメと言うか何というか……一度、ちゃんと見ておこうと思って」
「何を?」
「両親が死んだ場所」
本州の北端に位置する山奥が私の産まれた場所だ。マキマさんに見つけてもらい、そして東京へ来てから一度だって里帰りをしたことはなかった。だって帰ったところで両親はすでにいないしオメガ性というだけで私を迫害した村人達しかいないから。
「今さら?」
もう二度とあそこには帰らないと思っていた。でも私は今、狼の悪魔との契約を切ろうとしている。それは私ではなく両親が自分達の命を引き換えに私を守る為に契約してくれたもの。だからそれを解消する前に見ておきたいと思ったのだ。
「ようやく気持ちの整理がついたの」
「そうなんだ」
口元だけでにこりと微笑んで見せる。でもその瞳は何かを見透かしたように笑っている。
私の変化は言わずもがな吉田君がその理由である。彼の番になる覚悟までは正直まだできていないのだけど、それも時間の問題のように思える。そんな私の心の内まで見透かしているのだから吉田君はやはり喰えない。
「何か言いたい事でも?」
「別に」
「じゃあそろそろ行こうか」
一泊二日分の荷物を持って席を立つ。
会計をして外へと出ればどこか懐かしい匂いがした。
◇
二軒目もダメで、これはどういうことかと頭を抱えた。
「この辺りの地質調査すに東京の方がらえらぇ学者さん達来でな。そえでこの辺りの宿はほぼ満席だど思う」
「そうなんですね……ありがとうございます」
市街地といえども観光地でもないこの場所に宿はそう多くない。駅前のビジネスホテルで満室と言われ少し離れた民宿まで来たのだがここでようやくその原因が分かった。
「どうだった?」
「ここも空きがないって」
入口の掲示板に貼られたポスターを見ていた吉田君に結果を報告する。すると彼もまた「困ったね」と顎に手を添えながら首を傾げた。
他の宿を探すにしても明日の事を考えると駅から遠い所では不便だ。それにこういった場所だと駅周辺以外のホテルは大抵ラブホテル。部屋は別で入るにしたって正直利用したくはない。
「あっお客さん待ってけ!」
他にどこかアテがあったかと脳内から古い記憶を引っ張り出していたところでカウンターから主人が顔を覗かせる。その人は手に持っていた子機を定位置に戻すとこちらまで小走りにやってきて私と吉田君を交互に見た。
「一部屋キャンセル入ってな、わんつか狭ぇが二人で泊まるごどもでぎる。どうすます?」
同じ部屋はあまりよろしくない。でももう日も暮れているしここらで妥協するべきか……いや、やっぱりよくないって。抑制剤を打っているとはいえ匂いはすると言っていた。一晩も一緒に居たら何をされるか分からない。それこそこの旅の意味すらなくなる可能性も大いにあり得る。というかなくなる。
「あー…じゃあ吉田君だけでも」
「それで構わないのでお願いします」
しかし私の心配を余所に吉田君はあっさりと受け入れてしまった。その返事を聞いた主人はにこやかなに笑い「準備してくっからぁすばらぐこごで待ってけ」とパタパタと階段を上っていく。その背中を見守っていた吉田君に私は突っ掛かった。
「なんであんなこと言ったの?!」
「もう日も暮れてるし明日も早い。近場に他の宿もないししょうがないでしょ」
「一緒の部屋だなんて吉田君だって困るでしょう?」
「問題ないよ。まぁその時になったらなるようになると思うし」
不意に向けられた瞳に貞操の危機を感じた。それが吉田君にも伝わったのか少し笑って「いきなり取って食ったりはしないよ」と付け加えられる。でもそれ逆効果だから。吉田君が笑うほど警戒は強まるばかりだ。
「待つって約束したのに」
だから少しずるい言い方をした。W約束Wを引き合いに出せば少しは分かってもらえるかもしれない。でも彼の心にはあまり響かなかったようだ。
「努力はする」
「絶対に噛まないでね」
「この世に『絶対』という言葉ほど不確定要素を含んだ言葉はないよ」
「まだ番になりたくないの」
「じゃあいつかは絶対番になってくれるの?」
「……その予定」
「ほら不確定」
スリッパを鳴らし主人が階段を下ってくる。そうすれば吉田君は先に歩きだしてしまう。
一つその場にため息を残し、私もすぐに追いかけた。
古い建屋ではあるが掃除は行き届いており、小さいながら温泉も完備されていた。ご主人が布団も敷いてくれたし悪くない宿だ。しかし、やはり問題なのは部屋だった。
「キミは一体何をしてるの?」
部屋の大きさは六畳ほど。しかしそこにテレビとローテーブルもある為さらに狭い。そんなところに二組分の布団を敷こうものならくっ付けざるを得ないのは最早必然だった。
「押し入れで寝ようかと」
同じ部屋であってもせめて仕切りは欲しい。その一心で布団を押し入れに戻し籠城を決めようとしていた。
「埃っぽいよ」
「ドラちゃんも寝てるんだからいける」
「あれはロボットでしょ」
「でも呼吸はしてるし」
「してないだろ」
せめて湿気が少なそうな上の段に敷布団を押し込もうとする。でも押し入れの入口も狭く、また重くて形も変えづらいため中々入れ込むことができない。そんな状態で四苦八苦している様子を吉田君はもう一つの敷かれた布団の上で見ていた。
「分かった」
「え?……っ、ちょっと何してるの?!」
ようやく半分ほど押し込めたというのに布団から手を離してしまった。だって視線を後ろへと向けた時、彼は浴衣の帯を解いて素肌をさらけ出していたから。
貞操の危機と本能に駆られ目の前の押し入れの中へと飛び込んだ。襖を思いっきり閉めてから数センチ隙間を開けて様子を伺う。吉田君は鞄から着替えを出しジーンズに履き替え、シャツを頭の上から被っていた。
「俺が出てくからキミがここを使えばいい。朝になったら戻ってくるから」
「いや、そういうわけにはいかないって!」
「怖いんだろ、俺のこと」
「怖い…けど、それだけじゃない!」
自分の性を理解しながらも私はオメガとして生きたくはなかった。番も必要であると分かっていながらそれをW強者と弱者Wの関係としてだけで成り立たせたくはなかった。
「私にとって吉田君は必要な存在だよ。でもそれはアルファだからじゃない、吉田君だからだよ」
『愛』だなんて綺麗な言葉はいらない。でも『番』という第二性だけで語られたくない。それだけ吉田君には情もあるし、今さら彼から逃げようだなんて思わない。
マキマさんの時とは違う気持ちを私は彼に抱いている。
「傷つけられたくもないし、私が傷付けるのはもっと嫌」
それにオオカミの事だってある。現状、吉田君よりも私が彼を傷つける可能性の方が高い。それで万が一吉田君を失うことが、私は一番怖い。
「分かったよ、出て行くのはやめる」
フッと表情を緩めて吉田君は頷いた。だからこちらもようやく緊張が緩み笑うことが出来た。
「よかった」
「だからキミもそこから降りておいで」
「うん。じゃあそこから退いて」
「受け止めてあげる」
「重いからいい」
「キミを抱きかかえたまま走ったこともあるんだけど」
おいで、と右手が差し出された。一瞬、躊躇うが譲る気はないようなのでその手を取る。そのままもう片方の腕は吉田君の肩に回した。しがみ付くような体勢になれば彼の腕も背中に回されしっかりと抱き留められる。
「吉田君……?」
しかし十数センチ先の畳にいつまで経っても足先が触れない。声を掛けても反応がない。
肩に手をついて体を僅かに離す。ここで暴れて腕の中から抜け出すことは簡単だけれどそうはしなかった。したくなかった。
「だいじょ……」
次は私が向き合う番だと思ったから。
でも、そう気を許した隙を突いてくるのが吉田ヒロフミという人物で。
「——っ」
私の口は彼の厚い唇に塞がれていた。それが一度離れれば自然と見つめ合う形になる。そうすれば彼は薄い笑みを浮かべて目を三日月にさせた。
「この前のお返しね」
私が不意打ちしたのをどうやら根に持っていたらしい。あの時の件に関しては私が無理やりしたと言われても仕方がないので怒るに怒れない。
「……うん」
「うわぁすっごく不服そうな顔」
吉田君の瞳にはムスっとした自分の顔が映っていた。かなりブサイクだ。だからかその瞳を歪めてさらに愉快そうに笑った。
「もう分かったから早く下ろしてよ」
「まだダメ」
「ぁ……、んっ」
どうやら私には学習能力というものがないらしい。本日二度目のキスが今まさにされていた。さすがに今回は抵抗を試みるも、そんな私の行動もお見通しだったのか肩に置いた手首は掴まれていた。
「んぁ…、まっ……ンン」
しかもそれはどんどん深くなっていく。せめてもの抵抗で顔を遠ざけようとするが絡めとられた舌先を吸い上げられそれは叶わない。しかも口づけが長くなるにつれ次第に力が抜けていく。決して酸欠と言うわけではない。その証拠に吉田君の顔ははっきりと見えた。
「今日はここまでね」
リップ音を一つ残し唇が離れて行く。ようやく解放されたと思う反面、まだそれが欲しいと求める
「はぁ、はッ……うぅ」
「えっちょっと、大丈夫?」
落ちないよう再びしがみ付けば吉田君は一度抱え直した後、ゆっくりとその場に腰を下ろした。もう足もお尻も地についているというのに吉田君の首に回した腕を解く気にはなれない。
頭を噛まれるかもしれない恐怖よりも離れることに不安を覚える。そして鼻を抜ける深い海のような香りにずっと包まれていたいとも思う。
「吉田君は……平気、なの?」
「何が?」
「今、相当フェロモン出てる気がするから」
吉田君の大きな手は宥めるように私の背中をゆっくりと擦る。少しずつ落ち着いてはきたものの体は熱く、風邪の時のような体が重い感覚がある。発情期に近い感覚ではあるが何故か
「いつも通り甘いような香りはするけどそれ以外は特に」
「なんでぇ…?」
「抑制剤は?」
「さっき打った」
「なるほど」
そう呟くと吉田君は私を抱え直し立ち上がった。そして敷かれたままの布団の上に私を寝かせる。
「今日はもう休みな」
「吉田君は?」
「もう少ししたら寝るよ」
「ここで寝てね」
「分かったよ。おやすみ」
頭を撫でられ、次第に瞼が重くなり意識が遠のいていく。しかし彼がどこかに行ってしまうのではないかという不安から寝付くことが出来ないでいる。布団の外に伸ばしかけた手は抑え込むよう強く握った。今の私にはアルファを求める権利がないのだから。
「どこにも行かないよ」
瞳は閉じているはずなのにどうして私の考えが読み取れたのだろうか。
でもそのたった一言で、すぐに夢の世界へと落ちていく。まるでそれは魔法の言葉だった。