めんどくさくはない

小学一年生の時に親が離婚した。何が理由だったのかは子どもの私にはよく分からなかったけれど毎晩怒鳴り声がうるさかったことはよく覚えている。そんな時は泣きじゃくる二つ下の弟の手を握って押し入れの中で嵐が過ぎ去るのを待った。

それから数年後、母から男の人を紹介された。仕事関係で知り合ったらしいその人とは、一目見て互いに想い合っているのだと気付いた。離婚した後も母は私たち二人を頑張って育ててくれている。きっとこれから自分たちにはまだまだお金が掛かるだろうしずっと独り身なのも辛いはずだ。でも簡単に一緒になれないのは私たちに気を遣っているから。母の負担にはなりたくない、だから私はその人に懐こうと思った。

お土産を渡されたら好みでなくても大げさに喜んだ。四人で出かけたときはその人の手を引っ張って、あれなぁに?と興味もないのにたくさん聞いた。母には冗談めかしながら、結婚しちゃえばいいのに!と何度も言った。

多分その辺りから本音を隠す癖がついたのだと思う。





早くどっか行ってほしい……

「ようやく結果出せてさ、そんで一年でレギュラー取れたの俺だけなんだぜ!」
「ヘー……それはすごいね」

お昼休み、図書室へ本を返しに行った帰りに捕まった。今日は選択授業もないから彼の話に付き合わずに済むと思っていたのに。しかも休み時間はまだたっぷりと残っている。

「そうだ、週末にうちの学校で練習試合あんだけど名前ちゃん見に来れない?」

そしていつから下の名前呼びになったのか。私たちの関係性は何一つ変わっていないというのに勝手に距離を詰めてこないでほしい。そしてこの誘いに関しては丁重にお断りさせて頂きたい。

「どうだろう……予定が分からないからなぁ」
「じゃあ分かったら連絡してよ。つーか俺ら連絡先交換してなかったよな、LINE教えてもらっていい?」
「ごめん、今スマホ持ってなくて」
「ならこのまま一緒に教室まで行こ」

どうしよう、今日に関しては逃げ切れる自信がない。クラスに戻ったら友人に上手いことフォローしてもらえないだろうか。でも私の席は廊下側の一番前だからそんな余裕もないかもしれない。この人も教室での私の席の場所知ってるし。

「名前ちゃんが試合に来てくれたら頑張れると思うんだよね」
「またまたぁ」

自分でも顔が引きつっているのが分かる。もう行きたくないってはっきり言っちゃおうかな。でもやっぱり体裁とか今後の関係性とか、強い言い方して逆ギレされたらいやだなとか、そんなことを考えて何も言えなくなってしまう。あー……もうすぐ教室着いちゃう。

「苗字さんっ」

開け放たれた廊下の窓からは梅雨明けの爽やかな風が吹き抜ける。それは先日衣替えをした夏仕様のスカートを揺らし、髪の毛を遊ばせ、頬を撫でた。しかし私を引き留めたのは風のいたずらではなかった。

「凪くん……?」
「職員室で先生呼んでた」

凪くんの指先は半袖シャツの腕の裾を掴んでいた。そして彼にしてははっきりとした発音で、よく通る声でそう言った。
その様子に驚いて話の内容が入ってこなくて固まる。すると彼はシャツを僅かに引っ張って「行こう」とはっきりとした声で言った。

「あ、うん」
「なっ…ちょっと待てよ!」

私と凪くんの間に影が割り込む。でも凪くんは視線を私から彼へと移し、丸まっていた背をピンと伸ばした。

「なに?」
「……っ」

その瞬間、彼が怯んだ。凪くんの声は特別大きくもなくとても落ち着いていた。でもバレー部の彼よりも高い身長で見下ろされた分、迫力があったのだろう。その姿に、私も息をのむほどだった。

「苗字さん」
「は、はい……!」
「先生に怒られるから、行こ」
「うん」

シャツから手を離して凪くんは廊下を進んでいく。
後ろは一切振り返らず、私はその背を追いかけた。

私でも十分に追いつける速度で凪くんは前を歩く。そして職員室のある一階へと向かうため階段を下りた。しかし一階に到達した瞬間、「はぁ〜〜〜」と魂が抜けたような息を吐き出して一番下の段にしゃがみ込むようにして座り込んでしまった。

「えっ大丈夫?!」

残り三段を慌てて駆け下りその背を摩る。シャツ越しに触れた背中は思いのほか厚く、骨ばっていてびっくりした。

「つーかーれーたー……イテッ」
「えぇ?」

そして凪くんの重心が傾き手すりを支える柱に頭をぶつけたからもう一度びっくりした。そのまましばらく唸っていて、大丈夫?と声を掛けたら頭を擦りながら顔を上げた。その目は焦点が合わずゆらゆら揺れているように見える。

「保健室行く?職員室の隣にあるし送ってくよ」
「あーそれ嘘だから行かなくていいよ」
「噓?」
「先生呼んでるってやつ」

凪くんの背から手をどけて並ぶように階段に腰を下ろす。ここは職員室から一番近い廊下で、昇降口からも離れているため昼休みはほとんど生徒が通らない。だからこの場にいるのは私と凪くんだけだった。

「助けてくれたの?」
「助ける?たすけ……うーん」

立てた膝の上で腕を組み、凪くんは天井を見上げてしまう。でも私はどうしても理由が聞きたくて質問の仕方を変えた。

「どうして嘘ついたの?」
「またあの顔してたから」
「あの顔……」

横顔をじっと見つめていれば天井からこちらに顔を向けられる。そして瞬き一つと同時に足元へと視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。

「下駄箱のときの無理してる感じ。俺、あの時言い過ぎたみたいで……その、ごめんなさい」

丸まっていた背をさらに丸めて凪くんは頭を下げた。初めは何のことを言っているのか分からなくて。でもすぐに凪くんに言われた一言を思い出して慌てて彼の肩に手を添えた。

「謝らなくていいよ!顔上げてってば!」
「怒ってない?」
「怒ってないよ、私の方こそ感じ悪かったし……」

人の顔色窺ってるのは本当の事だしそれに合わせた行動をとっているのは自分が一番分かってる。でも今まで誰にも指摘されたことがなかったから動揺しただけ。だから凪くんは何も悪くない。

「寧ろ気を使わせてごめ……ふぇッ」
「また同じ顔した」
 
むにゅっと頬が摘ままれる。別に痛くはないのだが凪くんの突然の異常行動に離してくれともやめてくれとも言えない。しかし、さすがにされるがままでいるわけにもいかず、手首を掴んで止めさせてもらった。

「ど、どうしたの?」
「苗字さんがそうゆう顔してるとなんかすごくモヤモヤする」
「え……」
「息苦しくなる感じ」
「はぁ」

決して揶揄ったりふざけて言っているわけではないのだろう。だからこそなんて返したらいいのか分からなくて掠れた声しか出なかった。でも凪くんはまだ私のことをじっと見つめてくる。だから考えた末に答えを捻り出した。

「努力、します」
「うん……あ〜つかれたぁ」
「お、重っ!」

顔が近づいてきたと思ったら白いわたあめが肩に乗っかっていた。凪くんってヒョロそうに見えて意外と体つきしっかりしてるよね。故に見た目以上に重い。

「考えて動くの疲れる。もう眠い、寝る」
「ダメだって!もう昼休み終わっちゃうよ?」
「ぐぅ」
「凪くん起きて!」

本格的に寝そうになった凪くんの体を押し返し、両手を掴んで引っ張り起こす。そうすれば「おんぶ」と無茶なお願いをされた。それを、はいはいと受け流して凪くんの背中を押し階段を上る手伝いをした。

「苗字さんって意外と力持ちだね」

手すりも使ってゆっくりと階段を上っていく。その度に束になった髪がぴょこぴょこと跳ねていた。

「凪くんは意外と周りを見てるよね」

人の感情に敏感なのかな。その割には自分の事に対してあまりにも疎すぎるけど。でもそんな凪くんだから私も素直になれた気がする。

「つまりどうゆうコト?」
「やさしい人ってこと」
「初めて言われた」

私が笑ったら風くんは不思議そうな目で見ていた。
凪くんは今日、一度も「めんどくさい」とは言わなかった。
そうゆうところだよ。

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