常識、とは?

まだ太陽がてっぺんへと到達していないというのに今日も茹だるような暑さだった。そしてそんな中、溶けかけのわたあめくんが姿を現す。正直、寝坊で遅刻すると思っていたのだが彼は待ち合わせ時間ちょうどに姿を現した。

「おはよう凪くん」
「おはよー……暑すぎて死ぬかと思った」

校舎内の日影に逃げ込んで凪くんは汗を拭う。しかし残念ながら金持ち校とはいえ昇降口にまで空調を利かせてはいない。だから日は当たらなくても空気は生温かかった。

「だよね。でも図書室は涼しいから安心して」
「うー……じゃあ早く行こ」

そう言って靴を履き替え図書室を目指す。夏休み中であるため校舎内は静かで窓越しに蝉の鳴き声と運動部の掛け声が聞こえてくるほどだった。未だ溶けかけの凪くんとの間に目立った会話はないけれど誰かが一緒にいるというだけで少し嬉しい。
夏休み期間中に図書室に行くときはいつも一人だったけれど、先日の約束もあって『明日は学校に行くつもりだけど……』と凪くんにメッセージを送ったところ、彼は宣言通り『じゃあ行く』と言ってくれたのだ。

「あー生き返るー」

図書室の冷風に当てられれば徐々に汗も引いてくる。全く利用者がいないというわけではないが選べるほどに席は空いている。だから二人だったけれど四人掛けのテーブル席を使わせてもらうことにした。広い方が参考書も広げやすい。

「……ん?」

しかし、凪くんは私の隣の席に腰を下ろした。こういう時って普通は正面か斜め前の席に座るものではないだろうか。もちろんそういうルールがあるわけではないが、それが私の中での常識であった。

「どうかした?」
「……ううん、何でもない」

これなら壁際の長机に座っても変わらないんじゃ……ただ、ここで私が移動するのも感じが悪いので細かいことは気にしないでおくことにした。凪くんもそこまで深く考えていないだろうし。そう割り切ってバッグの中からテキストを取り出した。

「そんな英語の課題あったっけ?」
「これは英検の問題集だから違うよ。準二級を取りたくて勉強してるんだ」
「相変わらず真面目だね」
「でも凪くんも今日は真面目だよね」

彼もまた机の上にテキストを積み上げていた。それは夏休みに出された課題である。この様子だと夏休みもすでに半分は終わっているというのに凪くんはまだ何も手を付けていないようだ。

「やらないと後で余計にめんどくさいことになりそうだからね」

てっきり図書室でもお昼寝を決め込むと思っていたので意外だった。だって凪くんが学校に来た目的は学食で栄養バランスの取れた食事をすることだと思っていたから。

「偉い……!」
「俺だってやるときはやるよ」

あっもしかして怒らせた?
重い瞼が乗った大きな瞳こそいつも通りではあるが、その言い方は少しむくれていた。

「や、あのっごめん!決して馬鹿にしたわけではなく…!」
「そんなコトくらい分かるよ」
「でもさすがに失礼だったよね、ごめん」
「別に怒ってないよ。それと一々謝られる方がめんどくさいんだけど」

凪くんは確かに怒らなさそうなタイプである。クラスの人たちに「万年寝太郎」と揶揄われても授業中に早弁がバレて怒られてもマイペースに生きている。鈍いというか鈍感というか……でも、人間なんだから何も感じないわけじゃないと思ってる。

「あ……そうだよね」


曖昧な返ししかできなかった私はいよいよめんどくさい$l間だ。またやっちゃった私の悪い癖。凪くんもこちらを見ながら、どうしたもんかと頬をかいていた——と思えば目の前のテキストを手に取った。

「なら名誉挽回するために頑張りますか」

何がどうしてなのかは分からないが彼のやる気に火が点いたらしい。凪くんは数学の問題集を開いてシャープペンを走らせた。

そこからの彼の集中力はすごかった。私がテキストを一ページめくる間に凪くんは三ページ先を進んだ。その手も止まることなく二時間で数学のテキストを丸一冊終わらせるほどだった。応用も含めて二百問はあったと思うんだけど……

「苗字さん、」

私も負けていられない、と視界の端に凪くんの姿を映しつつ目の前の問題に向き合う。そんな私のシャツの裾を凪くんは控えめに引っ張った。

「なに?」
「お昼いつ行く?」
「私はいつでもいいけど学食が開くのは十一時半からだよ。お腹空いた?」
「そうじゃないケド、昼前に何なら終わらせられるかなって」

凪くんの前には数学以外のテキストが並んでいる。どれも真っ新であることを考えると、さすがに一冊片付けるのは難しいと思うが時間の目安くらいあった方がいいよね。

「じゃあ十二時半くらいでいいかな?」

開いて直ぐの時間は当番の先生が利用することが多く、十二時だと部活動の生徒で混みあう。かといって遅くに行き過ぎても選べるメニューの数が少なくなると聞いたのでこのあたりがちょうどいいだろう。

「わかった。それなら地理と日本史はいけるかな」

いくら凪くんでもあと一時間と少しで二教科も終えるのは無理だろう……と思っていたのだが、彼は宣言通りに終わらせた。というのも凪くんの場合は教科書や資料集を一切開かないのだ(というかそもそも持って来ていない)そのため調べ物をする時間が省略されこの短時間で二冊を終わらせることができた。

「俺はもう行けるけど苗字さんはどう?」
「ごめん、あと少しだけ待ってもらってもいい?」

そして凪くんほど要領がよくない私の進みは悪く、時間になっても切りのいいところまで終わらせることができなかった。せめて今解いた問題の解説だけは読ませてほしい。そうお願いすれば凪くんは「いいよ」と言って机の上に上半身を寝そべらせた。その姿は実写版のぐでたまである。

「……凪くん」
「なに?」

ただ本家と違うのは、隣のぐでたまには大きな目がついていて見開かれているところ。そしてその視線は私の方へ真っすぐに向けられていた。

「どうして私を見るの?」
「ヒマだから」

全く集中できないのですが……それだったらスマホを弄ってくれててもいいのに。あ、でも図書室だとそれはよくないか。でも私を見たってなにも面白くはないだろうし、それだったら他の教科の問題を一、二問解いててもらった方が有意義な気がする。

「そう……」

でも私のせいで凪くんを待たせてしまっているため、早く終わらせるためにも目の前の問題に集中する。しかし、無言になった私に何かを感じたのか視界の端で真っ白な髪がぴょこんと跳ねた。

「怒ってる?」

確かに凪くんはぼんやりとしてはいるが、人の感情に疎いわけではない。ただ本人の中で「どうでもいい」「めんどくさい」の気持ちが毎回勝っているだけで、気付いていないわけではないのだ。

「怒ってはないよ。ただ困惑してる」
「困惑……」
「じっくり見られるのは恥ずかしいよ。それに勉強中は変な顔してそうだから、あんまり見ないで」

目だけはテキストの解説文章に向け凪くんに言った。それでも尚、隣からは痛いくらいの視線を感じる。おかげで解説文は無意味な象形文字として瞳に映っただけだった。

「変な顔なんてしてないよ」

そして凪くんもまた私の言葉の本当の意味を理解してはくれなかった。現に彼は私から視線を逸らすことなく、あろうことか僅かに距離を近づけた。
耐えきれなくなった私が隣を見れば彼は組んだ腕に頭を乗せてこちらを見上げている。その目は無邪気な子どものように澄んでいた。そして彼は実に純朴な顔をして次の言葉を続けた。

「苗字さんって意外とまつ毛が長いんだなって見てた。それに肌も色白で夏なのに涼しげでいいなって思った。あと、解説文見てるとき唇が少し動いてて小動物みたいでかわい……わっ」

凪くんの言葉を遮るように勢いよくテキストを閉じた。その風圧で凪くんはお口と目をばってんにさせる。そして「びっくりした」といつもの調子で言う。私の方がびっくりしたよ。

「お腹、空いたから…食堂、行こう…!」
「え?まだその問題終わ……いたっ」

純真無垢なその顏にデコピンを喰らわせておいた。それに関して「なにすんの」とブーイングを飛ばしてきた凪くんを無視して席を立つ。
不意打ちを喰らったのは私の方なので、これくらいは大目に見てもらいたいものである。



このどこへもぶつけられない感情は食に注いでやる!とばかりに食堂に乗り込む。そしたら凪くんに「今日はお弁当じゃないんだね」と言われた。毎日利用するのは金銭的に躊躇われるが全く利用しないというわけではない。凪くんが食堂を使うなら、と私も今日は学食で済ます予定でいた。

「ハンバーグにしようかな。凪くんはどうする?」

うちの学校の食堂はメインのおかずを注文しそれが出来上がるまでの間に小鉢の副菜を選ぶ形式になっている。ご飯と味噌汁はおかずを受け取る際に量を伝えて一緒にもらう。因みに麺類の取り扱いもあるがその場合は別のレーンで注文をして受け取る。

「じゃあ同じのにする」

凪くんは私の後に続き見よう見まねで注文していた。そして並べられた小鉢を見つめ、とりあえず野菜はとった方がいいと思ったのかほうれん草のお浸しとトマトとパプリカのマリネを手に取っていた。

「席ここでいい?」
「うん」

食堂の隅のテーブル席に座る。が、ここでも凪くんはなぜか隣に座った。それをやはり不思議に思いつつ、でも先ほどのこともあり向き合って座るのが躊躇われたので何も言わないでおいた。

「いただきます」
「いただきまーす」

手を合わせてまずはお味噌汁から口を付ける。隣の凪くんはさっそくデミグラスソースのかかったハンバーグに箸を入れていた。なお、フォークとナイフも食堂にあるのだが「両手使うのがめんどくさい」との理由で彼の手元にはお箸しかない。

「うーん……」
「どうしたの?」
「なんか味濃いかも」

一口食べた凪くんはそう言ってお口をばってんにさせた。確かに深い色味をしたソースは濃厚なお味がしそうである。でもちゃんと栄養士も交えて食堂のメニューは開発されているので健康に害をきたすほどのものではないだろう。

「ゼリー飲料や菓子パンばっかり食べてるからそう感じるんだよ」
「えーでも苗字さんのハンバーグはこんなにしょっぱくなかったよ」

凪くんは箸の先端でソースだけを僅かにすくって舌に乗せ、またお口をばってんにさせた。
そして私の頭の中にはクエスチョンマークが飛び交っていた。凪くんにゼリー以外の食べ物あげたことあったっけ。

「何かと間違えてない?」
「前にお弁当のおかず分けてくれたでしょ。あれってハンバーグじゃなかったの?」

外のベンチで一緒に食事をした時のことかな。確かにその中にハンバーグもあったかもしれない。でもまさかそれを覚えているなんて。大した感想も言われなかったから食べたもののことも忘れてると思ってた。。

「そうだったと思う……でもうちのハンバーグは豆腐でかさ増ししてるからハンバーグっぽくはないかも」

大家族故、質より量が求められるのだ。そして豆腐を使っているということは目の前のハンバーグよりも肉の割合は少ないわけで。おまけにケチャップとウスターソースで味付けしたソースよりも濃いデミグラスソースが掛かっていれば味は濃く感じるであろう。なんだか私のせいで凪くんが貧乏舌になってしまったようで申し訳ない。

「ふーんそうなんだ。でも俺は苗字さんの方が好きだよ」

……ハンバーグが、だよね。
隣で硬直している私には目もくれず、凪くんはお皿の縁でできるだけソースをそぎ落としてハンバーグを口に運んでいた。それから付け合わせのじゃがいもを箸で取って。あろうことかそれをこちらに差し出してきた。

「は……」
「これって皮食べれるの?」

あぶない、変な流れに乗せられて口を開いてしまうところだった。
蒸かしてあるから食べれるよ、と教えてやればその箸を方向転換させて自分の口に迎え入れる。
なんか凪くんって常識に欠けてるというか無自覚というか……というかここまでくるとあれな気がする。

「凪くんってもしかしてたらし=H」

それは女たらしの意味だった。母性本能を擽る仕草に加え、元のスペックは高いのにぐうたらなところを前面に押し出してくるこの感じ。よく漫画で見かける主人公が引っ掛かってしまうダメな男、でも憎めない!≠まさに体現しているといっても過言ではない……だがしかし、詰まるところ私はそう考えることで、自分が翻弄されていることに納得をさせたかったのだ。

「からし?苗字さんはハンバーグにからし付けるの?」

そういうところも含めてたらし≠セね。
これ以上の会話は無駄と判断し自分の皿に乗ったじゃがいもにフォークを突き刺して一口で頬張った。二つ目のじゃがいもも口の中へ。そしたら横からじゃがいもが支給された。

「そんなに好きならあげる」
「自分の分は自分で食べてください!」
「へ……、む」

フォークに突き刺した三つ目のじゃがいもは凪くんの口に突っ込んだ。
そしてその数秒後に我に返った私は、翻弄されている事実にまた大きく頭を悩ませたのだった。

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