気付けなかった代償


ベッド、テレビ、ローテーブルに本棚が二つで私の一人暮らしの部屋は構成されている。その他、備え付けのクローゼットと靴箱、玄関から部屋までの間にキッチンがある。脱衣所のスペースは狭いもののお風呂とトイレが別なのは有難い。多少手狭ではあるが都内の学生向けアパートとしてはごく一般的な間取りではないだろうか。

「急に連絡してごめんね」
「全然大丈夫、今日はバイトも休みで暇してたし。適当に座ってて」

とある土曜の昼下がり、久しぶりに遊びに来た友人にアイスティーを用意する。トレーの上にグラスを二つ並べて部屋へと戻ればローテーブルの上には彼女の持ち込んだ道具が並べられていた。そのカラフルな色合いにこちらもテンションが上がる。
邪魔にならないようグラスはトレーから下げて少し離れたテーブルのスペースに置いた。

「今日は可愛いかんじに仕上げたいんだよね」
「じゃあ私の女子力も上げてもらおっかな」
「よし、任せとけ!」

高校からの付き合いである彼女は私と同じように東京へと上京し、今は美容専門学校に通っている。そんな彼女の練習台とばかりに偶にネイルをやってもらっていた。
爪にやすりをかけてもらっている間も気の知れた彼女との話題は尽きない。高校の友人の話、バイトの愚痴、新しくできたお店の話、将来のこと、そして恋愛に関すること——この手の話題に関して、私の場合は彼女にしかできなかった。

「そういえば今は日本にいるんだっけ。会ったの?」
「うん。……あのさ、セフレってどう思う?」
「よし、まずはキミの意見を聞こうか」

いつもは冗談を飛ばし合う仲である彼女の顔がキリリと引き締まったものになる。ゆるふわ女子トークの雰囲気から一転、彼女の画風がゴルゴに変わるほどには真剣に話を聞いてくれるらしい。だからこそ、そのお喋りの口を閉じて視線を爪にだけ注いでいた。この方が私が話しやすくなることを彼女は知っているのだ。

「好きな相手に抱いてもらえるなら都合の良い女になってもいいかなって思い始めたけどそうなったら一生彼氏は出来なさそうだし、何なら今後まともな恋愛もできなさそうだし、その人との思い出を抱えながら死んでいくのかなって思うと現状維持が一番マシなのかなって思っている次第です」

彼女が握っていた自分の右手がテーブルに置かれ、爪の先がジェルランプの下に置かれる。そこから放たれる青色の紫外線に当ててジェルを乾かすのだ。その間に彼女はもう一方の爪を仕上げるため私の左手を取った。

「その考えだと今の関係のまま老いて死ぬんじゃないの?」
「うっ……」

手元では繊細な作業をしながらもやはり話は聞いてくれている。そして放たれる一言はこうかばつぐんだった。

「ってゆうかセフレ云々言う前に告白しなよ。もう二人の茶番は聞き飽きたんだけど」
「今や世界的に有名なサッカー選手に?最近では持ち前の顔の良さとスタイルでモデルっぽいこともやり始めた人に?」
「あんたはアイツが有名人だから好きなの?それとも見た目に惚れたの?」
「それは違う」
「なら告白をやめる理由にはならない」

ぴしゃりと言ってのけて、彼女は右手の硬化した爪の具合を見ていた。そして左手の爪も同様に乾かしていく。

「でもさぁ……」

悲観的な人間でもないけれど凛のことになるとネガティブ思考が発動する。それは昔言われた一言が心臓に刺さっているせいか。自分が凛の彼女であるかの真偽を問うたとき、凛は「くだらね」と言った。あの時は別に何とも思わなかったけど、今の状態で同じことを言われたらその場で自害して呪霊になるやもしれない。

「別にあんたが今のままでいいって言うなら私はいいけどさ。でもせっかくの二十代をそんな気持ちのままで終わらすのも虚しくない?」

私に正論を叩きつけ律したのは彼女だが、私を励ましたのも彼女だった。
でもごめん。やっぱりキッカケがないことには告白できそうにないんだ。そう、消え入りそうな声で言ったら「じゃあ気長に応援するわ」と笑った。

「ほら、できたよ」

そして見せられた自分の爪に感動する。ピンクよりは赤色に近いがそこまで派手ではなくグラデーションとラメが綺麗だ。その満足のいく仕上がりに私の口元もほころんだ。

「おー!可愛い!」
「少しは元気出た?」

やはり持つべきものは友である。もしその時が来て、例え私がフラれたとしても彼女がいれば呪霊にはならずにすみそうだ。

「元気出たし惚れた。結婚する?」
「しないけど。あっ髪も弄りたいから着替えてもらってもいい?」
「え、この格好のまま行くつもりだったんだけど」

スキニージーンズにパーカーという総額五千円にも満たないジーユーなファッション。近所のスーパーに行く装いではあるがこの後彼女と行くのは焼き肉店である。可愛くなった爪とミスマッチと言われてしまえばそれまでだが匂いが付くのも嫌なのでこの格好で行くつもりでいた。

「そのことなんだけどちょっとお店変更したくてさ」
「焼肉は?!」

私の脳内は完全に焼肉なのだ。何なら一億と二千年前から焼肉を食う準備はできていた。

「そこのお店ならもっと良いお肉食べられるよ。ちょっとクローゼットの中見てもいい?」
「服装も強いられるガチな感じなの?!」

何度か泊まりに来ている彼女にとっては勝手知ったる我が家である。でも常識がないわけではないので勝手に私物を漁ったりはしない。だから特に悪い気はせずに二つ返事で頷いた。

「おっこのスカート可愛いじゃん」
「あーそれロングスカートだと思って買ったらがっつりスリット入っててさ、太腿まで見えちゃうんだよね」
「じゃあこれとオフショルのブラウスにしよ!ほらこの前セールで買ってたやつ」
「なんか全体的に露出多くない?」
「若いんだから肌見せてけー」
「おっさんか」

まぁ彼女が羽織っているシースルーシャツも下のキャミソールが見えているのである意味露出はある。そう考えると私の全体像なんてセクシーの部類には入らないか。

「分かったよ」

着替えを持って脱衣所へ。ついでに化粧も服装に合わせて手を加え直した。そして戻ってくれば彼女もまた自分の化粧を直していた。……なんか嫌な予感がするな。

「夕飯はどこ行くつもり?」
「創作フレンチのラクレットチーズが美味しいお店」
「私たちだけ?」
「あっお金は出さなくていいからね。急だしそこはうちらで持つつもり」
「ねぇ、」
「ただそこにいるだけでいいから。あっでもいい人いたら狙ってくれても構わないし」

仕上げにリップを引き直した彼女はやる気に満ち溢れていた。あーこれはつもりそういうことですか。

「とりあえず華の二十代を枯らさないためにも出会いの場には行っとこうよ!」

急遽、今夜の合コンに参加することになりました。





彼女の友人二人と合流し店の前で顔を合わせた。この二人は彼女のバイト仲間であり、今回の合コンはその二人が組んだため彼女もどんな人が来るのかは知らないそう。

「お疲れー友達連れて来たよ」
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「どーも初めまして!いやぁ一人の子が急に来れなくなっちゃって助かったよ!」
「二人はどうゆう知り合い?」
「高校の時の友達なんだ。それにこの子も絶賛彼氏募集中だからノリノリで来てくれて」
「ちょっと…!」

渋ることなく着いてきた私に気をよくしたのか彼女はそんなことを言いながら肩を叩いた。それを見ていた二人も「いいじゃん!夏に向けて彼氏作ろ!」「今日の相手はK大だから期待できるよ!」なんて乗って来た。しかしここで空気を悪くするわけにはいかないので、頑張る!と拳片手に答えておいた。

「今日はよろしく!とりあえず自己紹介しよっか!」

週末とあって店内は満席でとても賑やかな空間が広がっていた。
男女別れてテーブルを挟んで向かい合い、私は一番左端の席に座った。ウッド調のテーブルには色鮮やかなお通しが並べられ各自注文したドリンクも手元に届く。そうすれば男性側の幹事が音頭をとった。

向かって右の幹事から順に、金髪陽キャ、インテリ眼鏡、ミステリアスピアス、ゆるふわワンコである。なんとまぁ乙女ゲーの初期攻略対象相手を思わせるラインナップだ。そして相応に顔も良いのだと思う。何故なら席に付いた瞬間、女性陣がテーブルの下でガッツポーズをしていたから。だが生憎私はどこかの誰かさんのせいですっかり目が肥えてしまったのでそのあたりの評価はできなかった。

「コイツさ、こんな見た目してっけど激辛好きで毎回ヤベェモン食ってんの」
「えっ甘いもの好きそうなのに意外〜!」
「それよく言われるんだけど甘いものは寧ろ苦手で……」
「もしかして北極ラーメンとかいける人ですか?」

合コンも中盤になると席ごとに四−四で会話グループが出来上がっていた。そして察する、隣にいる友はミステリアスピアス狙いであることを。しかしピアスの方はそのキャラ設定通りあまり自分のことを喋らない。せっかくなら友人のアシストくらいはしてあげたいがどうしたものか……

「あっごめん、ちょっと席外すね」

ワンコのスマホに着信があり彼が席を外す。おっもしかしてこれはチャンスなのでは?というか寧ろ私がいない方が話しやすいかもしれない。いっそのことトイレに立った方がいいかな。

「うぃーす!飲んでる?!」

しかし私が腰を上げる前に目の前の席が引かれた。「うっせぇな」とピアスが睨んだ相手は幹事でもある金髪陽キャだった。キミも期待を裏切らないキャラしてるね。いやはやノリが若いわ。と言ってもこの人たち全員私たちの一個上だけど。

「自分の席帰れ」
「冷たいこと言うなって!つーか俺、この子と話しに来たんだよね」

ハイボールのグラスを持ったまま私のことを指差した。

「え、私?」
「そそ!自己紹介ンときサッカー好きっつってたじゃん?俺も好きで話してみてーって思ってさ」

どうも既視感あると思ったらこんな感じの人サポーターでよく見るわ。というかもしかしてその髪型も本田選手のリスペクトだったりする?そこは寧ろ好感度上がるけど如何せんこのテンションに乗れるほど陽の氣は持ち合わせていない。

「ほんとですか?周りにサッカー詳しい人いないから嬉しいです〜!好きなチームとか選手います?」
「断然イングランド!クリスが好きでずっとマンシャイン・C追っててさ。ただ最近だと千切目当て!」
「レッドパンサーだ!この前の日本での試合観戦しに行ったんですけど左サイドからの駆け上がり速過ぎてびっくりしました。かっこいいですよね彼」
「えっ生で試合見に行ったの?!」
「はい。親がチケット当ててくれて」
「いいなー!つーかマジでサッカー好きじゃん!女の子と話すと大体選手の見た目しか褒めないからさぁキミめっちゃいいね!カンパーイ!」
「カンパーイ!」

だがしかし、スキル:適応力の発動により自分のテンションを爆上げした。というのも私がこの陽キャと会話をしていれば必然的にピアスと友人が話せるからである。現に今も二人だけで話せているようだ。彼女が心の中でお礼を言う声だって聞こえる。これは合コン特有の女子だけが感じ取れる念波での会話だ。



「すみません、そろそろお時間になります」

飲み放題付きのコースは二時間制。結局、ラストまで陽キャとずっと話してしまった。だからか店を出る頃にはすっかり足元が覚束なくなっていた。だってこの人、飲むペース速いんだもの。そもそもアルコールはそこまで強い方じゃない。女友達と飲んでもいつもサワー二杯くらいでもういいやってなる。
でもこれで合コンも終わり。この後、二次会に行く人もいるようだが私はこのまま帰らせてもらおう。

「大丈夫?」
「あっはい、大丈夫です…!」

しかし友人に声を掛ける前に陽キャに捕まってしまった。初の合コン参加ではあったが女としての防衛本能が備わっていないわけではないので、ここで酔っぱらっている姿を見せたらマズいと思った。だからふらつく脚を踏ん張って、はっきりそう言って笑ってみせる。

「じゃあさこの後スポーツバー行かね?今日はサッカーの試合やってないけどそこのオーナーと顔見知りでさ。キミのこと紹介したいんだよね」
「えー?でも友達もいるし……」
「アイツらはアイツらでテキトーにどっか行くっしょ」

チラリと友人たちがいる方を盗み見るがこちらに気付いてくれる様子はない。どうしよう……この流れはやばい気がする。

「でも今から行ったら終電なくなっちゃうんですよね」
「じゃあタク代出すよ。つーかオールでもよくね?その人もイングランド好きだから絶対盛り上がるし!」
「……っ」

髪を払いのけるようにして肩に腕が回されドキリとする。オフショルだから地肌に生温かい手が乗せられてきもちわるい。梅雨入り前の湿度を纏った空気ごとぺたりと皮膚と皮膚がくっついた。

「店にデカいモニターもあるから言えば昔の試合も流してくれるよ。去年のスペイン戦での千切の試合見たくない?」
「やっ…」
「イッテ?!」

己を守れるのは己しかいない!そう思い腕を叩き落とそうとすれば突如スッと肩が軽くなった。おや?私はいつの間に無下限呪術を使いこなせるようになったのだろうか。しかし五条家の人間でもないのでそれはアルコールに浸った脳の誤認である。

「おい!なんだよお前!」
「あ゛?テメーこそなんなんだよ」

実際には彼の腕は捻り上げられていた。全身黒ずくめで、頭には帽子とおまけにフードまで被った人物が彼の腕を掴んでいる。一瞬、犯沢さんとご対面してしまったのかと震えたがそれももちろん誤認である。しかし実際にそこにいたのは犯沢さんよりもタチが悪い殺気立った凛だった。

「クソッ離せよ!」
「死ぬ前に言い訳くらい聞いてやるっつってんだよ。ねぇならこのまま殺すぞ」
「イ゛ッ…!」
「ちょっと待って!」
「あ?なんでお前がコイツの味方すんだよ」
「そうじゃなくて問題起こすとマズいでしょ!今すぐ離して!」

凛の腕を掴む。サッカー選手なのに腕もちゃんと鍛えているのかびくともしない。それでも目を見てもう一度同じことを言えば大きな舌打ち一つ残して手を離してくれた。

「え、もしかして糸師凛?今フランスで活躍していて世界最高峰と言われるチャンピオンズリーグへの出場も近いと噂されるあの糸師凛…?!」

しかしほっとしたのも束の間、離れたところにいた彼らが最悪のタイミングでこちらに気付いてしまった。しかも完全ノーマークだったインテリ眼鏡がご丁寧に説明までしてくれたお陰でサッカーファン以外の人の興味まで引いてしまった。その見た目通りの博識キャラは今すぐやめろ。

「おっ山田、、じゃん!久しぶり〜!」

しかしカオスとなりかけた空気を壊したのは友人だった。彼女はこの場にはいない「山田」という名前を連呼しながらこちらまで一直線に走って来た。

「は?」
「ほら山田と高一のとき同クラだったじゃん!覚えてない?あっでも山田は途中で転校しちゃったから覚えてないかー!」

凛に睨まれても物怖じしないのは、彼女もまた高校時代の糸師凛を知っているからか。あの時も今と同じような基本塩対応だもんね。

「俺は山田じゃねぇ」
「そういや山田ってこの子の家の近くに住んでたよね?うちらの代わりに送ってもらえる?」
「わっ…!」

そしてそのまま彼女に背中を押されて凛の腕の中に収まった。その拍子に小声で「早く行きな」と囁かれた。

「あとは頼んだぞ山田!」

持つべきものは友である。後日、千疋屋のパフェを奢ることをここに誓おう。
ともあれ彼女の機転により大きな騒ぎにならずにこの場を去ることができた。



しかし問題はここからだった。

「ちょっと凛、歩くの速い!」

このブチ切れモードの凛を私にどうしろと?
あの場から手を掴まれ、今も引きずられるようにして連れ回されている。
二十二時を過ぎた繁華街は若者と酔っぱらいで賑わっていてまだまだ夜の長さを感じさせる。しかし人が多くてもぶつかることなく凛はその長い脚を有効活用して前に前に進んでいく。生憎こちらは平均的な脚の長さに加えてヒールという足枷付きなので転ばずに着いて行くのがやっとだった。

「ねぇどこ行くの?」
「…………」

はい、三度目の無視頂きました。雑踏のせいで聞こえていないと言ってしまえばそれまでだが絶対わざとだよね。それか他のことを考えていて私の声が届いていないか。どちらにせよ止まってくれない。
しかし、目の前の信号が赤になったことでようやく減速される。そして横断歩道の前で立ち止まることでようやく隣に並ぶことが出来た。

「さっきの奴は誰だ?」

そしてこちらを無視して先に質問してきた。今すぐ答えないと余計に面倒なことになりそうである。しかしここで馬鹿正直に合コンなど答えれば凛が怒ることは目に見えている。そりゃあ日本でキープしている女、または現地妻的な私に彼氏が出来たら都合悪くなるもんね。だからここはひとつ、コンパで知り合った人とだけ言っておいた。

「凛こそなんであんなところにいたの?」

そして次の質問が飛んでくる前にこちらが聞く。
目の前の信号が青になれば凛はまた歩きだす。先ほどよりペースは落とされたが私の半歩先を行くには十分すぎるほどの速さだった。

「泊ってるホテルがこの近くなんだよ。ジョギングがてらテキトーにぶらついてた」

確かにこの繫華街を抜けていけば駅に辿り着ける。そしてその駅の周辺には宿泊用のホテルがいくつか存在する。そこなら空港へのアクセスもいいし凛みたいな人が部屋を抑えていても不思議ではない。

「あんなクソみてぇな奴らと集まってなに話すんだよ」

そして会話の主導権は再び凛に握られる。こちらがお礼を言う隙もなかった。

「それは色々。ご飯食べてお酒飲んで盛り上がることが目的みたいなものだから大した話はしてないよ」
「クソみてぇな時間の使い方してんな」
「大学生なんてそんなもんだよ」

朝起きての一歩目から、一分一秒三百六十五日サッカーで世界一になることを考えている凛からしたら確かに無駄な時間であろう。今だって私が凛のトレーニングを邪魔したようなものだし。だからかジョギングの再開とばかりに早く歩くのやめてよ。

「そうゆうのは仲のいい知り合いとだけやれ、飲み食いだけならそれで十分だろ。お前は初対面の奴とも距離詰めンの早ぇし、そうゆうとこに付け込んでくるクソみてぇな奴もいんだよ。少しは自衛しろタコ」

ただキレられるだけならまだしも言っていることが的を得ているため何も言い返せない。だが、確かに反省すべき点はあれどこれでも嫌なことは『ノー』と言える人間である。

「いつもはちゃんとしてるし。今日は飲み過ぎて上手くかわせなかっただけ」
「じゃあ飲むのやめろ」
「もう凛には迷惑かけないよ」
「そういう意味じゃねぇ」

そこで手を握る力が強くなった。この位置からでは凛の顔は見えない。でもその背中は少し寂しそうに見えた。私の手は痛くて熱いけど、凛の手は冷たく感じた。

「心配だからやめろって言ってんだよ」

この人はなんて不器用なんだろうか。
ごめんね、私がもっと早く気付くべきだった。
私が不安な時、いつも凛から電話がかかってくるから与えられることがいつしか当たり前になってた。ごめん。凛は凛なりにちゃんと向き合っていてくれてたのに。
だからこそ今、伝えたいことがある。

「まって」
「……ッ」

大きく一歩踏み出し、繋がれている方の手を手繰り寄せて腕にしがみついた。そうすればさすがの凛も足を止める。私は巻き付けた腕に力を込めて凛の体に身を寄せた。

「……り……、く」
「なっ…どうした?」

そして今一番伝えたいことを口にした。

「もうむりはく」
「は?」

マジで気持ち悪いんだが。
元よりギリギリだったのに気を使えない自己中男に振り回されたせいで完全に酔いが回った。足元がふらつく程度だったのにそのぐらつきが脳を揺さぶり、今は胃からのせり上がりを感じる。まだ食道の括約筋が仕事をしてくれているがこれが緩んだら確実に吐く。

「はくはくはくはく」
「おい、待て。落ち着け、吐くな。落ち着け」

こんな繁華街のど真ん中でやらかしたら確実に私は人としての尊厳を失う。その時はお前も道連れだからな。責任取って共に吐しゃ物まみれになれ。
背中にもう片方の手がそっと添えられた。しばらくそのままにしていたら「少し歩けるか?」と先ほどとは打って変わって穏やかな声色で聞かれる。何を聞かれても横揺れに弱いこの状態では縦に首を振ることしかできず、小さく頷いた。

「そこにベンチがある。ゆっくりでいいから座れ」
「うー……」
「ゆっくりでいい」

目をつぶって吐かないことにだけ意識を集中させていたのでここがどこかも分からない。でも薄目を開けたら自販機が見えたので休めるところまで連れてきてくれたらしい。
凛の腕から手を離して膝をゆっくりと曲げる。案の定ふらつけば、横から伸びて来た腕に支えられた。そこに体重をかけるようにしてなんとかベンチに腰を下ろす。

「まだ気持ち悪いか?」

凛はベンチに座ることなくその場に片膝をついてこちらを覗き込んでくる。口元は未だに手で押さえつつも先程よりは落ち着いたので、だいじょうぶだと答えて見せる。しかしここで動いたらまたすぐに気持ち悪くなってしまうだろう。

それは凛にも伝わったようで彼は一度立ち上がり私の隣に座った。どうやら介抱してくれるらしい。その証拠に凛の大きな手が私の背中を擦った。いつも無遠慮に私の腕を掴んでくるこの手は存外やさしい温度をしている。

凛はいつも言葉が足りないし、短気ですぐキレる。不愛想で友達はいないし、サッカーIQは高いけど語学以外の勉強はできない。でもこうゆう一面に私は惚れてしまったんだと思う……なんかここだけ切り取るとDV男みたいな表現だなぁなんてごちゃごちゃ考える。でもそうして意識を逸らさないと気持ち悪いことに脳が気付いてしまい危うい状態になる。あっやばい、また波きたかも。

「おい、しばらくここで……」
「っ、や…めて」

背中を擦るという揺れすら酔いを加速させる要因に直結する——そう思い、凛の手を払いのけてしまった。
その瞬間、凛が息を呑んだ。麻痺した脳みそでも今の行為が最悪なものであったと気付く。

なにやってんの?これじゃあ拒絶されたと思うに決まってるじゃん。凛のメンタルは強い方だとは思ってるけど心が傷付かないってわけじゃない。それはお兄さんとのこと然りで、私が誰よりも理解してると思ってたのに。

「分かった」

そう一言だけ発して凛が立ち上がる。
最悪だ、本当にやらかした。私のこと心配してくれたのに、優しくしてくれたのに。もしかしたら本当に言葉が少ないのは私の方かもしれない。私が凛に対して理不尽に思った回数よりも、私が凛を傷つけた回数の方がきっと多い。

「凛!まっ……ぃッ!」

すぐに追いかけようとするもヒールの軸に体重を乗せることが出来ず、ベンチから落ちるようにして転ぶ。足が痛い……ちょっと泣きそうかも。

でもこれは現状維持だなんて甘えてた私への罰かなぁ。そもそも凛の環境がこれだけ変わってもなお現状維持だとか言ってた自分が腹立たしい。凛流に言ったら『ぬりぃ』だ。
ようやく理解した痛いくらいの現実。でも泣いたらダメだ。だって凛の方がもっと痛い思いをしているから。

「っとになにやってんだ!大丈夫か?」
「りん……?」

でも目の前の現実は想像よりもやさしい世界だった。また脳が誤認でもしたかとも思ったけど私の体を支える手の温かさが、それが夢ではないと教えてくれる。
帽子とフードで影になっていてもなお、凛が焦って戻って来てくれたことが分かった。

「お前どんだけ飲んだんだよ。まだ酔ってんのか」
「ごめん、行かないで」
「置いてかねーよ。そこのコンビニで水と薬買ってこようとしただけだ」
「ちが…う、っ……いかないでぇ…」
「は……いや、泣くこたねぇだろ」
「うー……」
「おい泣くなって」

安心したらぼろぼろと涙が溢れてきた。凛のやや焦った声が聞こえる。でも涙はとまらなくって止めどなく流れ続ける。その一粒がすくわれて目の下が撫でられた。

瞼を持ちあげぼやける視界で焦点を合わせる。そうすればやっぱりそこには凛がいて、指先だけでは物足りなくなった。もう全部お酒のせいだってことにしてしまえ。そう小さな言い訳をして凛に抱きつきにいった。

「おねがいだから、いかないで」

ごめん、本当に言いたいことはまだ言えそうにない。私がしっかりしてないから今は繋ぎとめることしかできない。私が自立してて凛の隣にいても恥ずかしくない人間だったなら、自分の足で立って追いかけて、本当に伝えたいことを言えていたのかもしれない。でもそれはまだ難しい。

「あぁ、行かねぇよ」
「はかないからいかないで」
「だから行かねぇって」
「ぅ…きもちわるいぃ……」
「どっちだよ」

呆れたように笑われた。その声がどんなに心地いいものだったか。でもきっと明日になったらすっかり忘れているのだろう。
嗚咽を漏らす私を凛はガラス細工に触れるようにやさしく抱きしめる。そして言われた「どこにも行かねぇよ」の言葉に、また涙が零れた。

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