雨の日はいつだって


高校生の時、三者面談というものが苦手だった。まぁそもそも好きな人がいるとは思わないけど。といっても三者面談自体、担任と親が会話をするのがメインで生徒は添えられるだけ。でも帰る頃には母親に「あんたも少しは話なさいよ」なんてチクチク言われる。だからこちらも負けじと、お母さんたちが盛り上がってたから入る隙がなかったの!と言い返せば「沈黙が気まずくて必死に話してたに決まってるでしょ!」と八つ当たりをされた。別にお母さんが黙ってても先生が一方的に話すだけなんだからいいじゃん、なんて当時は思っていたけど今なら母親の気持ちが少しだけ分かるような気がする。

「凛とは高校が一緒だったんです。昨日の夜、偶然会ったんですけどそのとき私がお酒の飲み過ぎで気持ち悪くなってしまって……だから凛がここに連れてきてくれただけであってそれ以上のことは何もありません。本当に、何も。そうだよね?」
「…………」
「ね?」
「…………」
「……凛、聞いてる?」
「あ?」
「は?」
「わ、分かった!うん、キミは凛ちゃんの友人ってわけだ。オーケー理解したよ」

最悪な形での鉢合わせから数分後、私たちは室内のソファへと場所を移していた。茶髪で眼鏡をかけた男性が一人掛けのソファに座り、その斜めに置かれたソファに私と凛が並んで座っている。

「驚かせてしまってすみませんでした。それで、貴方は……」
「ああ!自己紹介が遅れたね。僕はリシャール・ダバディ、凛ちゃんのマネージャーだよ」

そう言って彼は一枚の名刺を私にくれた。英語で書かれたそこの情報を読み取るに、どうやら日本語、英語、フランス語の三ヵ国語ができるらしい。そして名刺の端には凛の所属するサッカーチームのロゴが描かれていた。

「そうなんですね」

と言ってもリシャールさんは凛の専属というわけではなく、P・X・Gと契約をしているマネージャーらしい。故に今回は凛の日本での仕事を補佐するために来日したのだとか。

「凛ちゃん、久しぶりの母国なんだしお友達と会うのは構わないけど、さすがにこれは報告してもらわないと困るよ」
「なんでプライベートなことまで一々報告しなきゃなんねーんだよ」
「僕だって凛ちゃんのプライベートにまで口を挟むつもりはないよ。ただ、日本での仕事を前にスキャンダルでも出てしまえばチームにもスポンサーにも迷惑がかかる。もちろん彼女にもだ。そのことは凛ちゃんだって分かるよね?」

彼は優しく諭すように、しかしはっきりとした口調で断言した。それは私たちよりも世間を知っている大人の対応だ。そして凛の方を盗み見れば、こちらは見るからに拗ねた子どものような顔をしており明後日の方向を向いていた。
しばしの沈黙。だが、やはり凛は口を開かない。結局、無言に耐えきれなくなった私がリシャールさんに向き直った。

「あのっ今回の事は本当にすみませんでした!私が凛に甘えたのがいけなかったんです……もう、こんなことがないように気を付けます」
「いやいや頭を上げて!キミを責めてるわけじゃないんだよ」
「お前が謝るコトじゃねーだろ」
「凛こそ何か言うことないの?」
「外で飲み過ぎんな男と飯行くな」

くっ…会話を振り出しに戻すんじゃない。
尚も明後日の方向を見続ける凛の横顔を睨みつけるも完全無視である。その瞳は明後日どころか十年後でも見据えているのかと思うほど遠い目をしていた。
しかしリシャールさんもこの態度には慣れているのか「次からは気を付けてね」と一言添え、それ以上は何も言わなかった。

「それじゃあ凛ちゃん、そろそろ向かいたいから準備してもらっていいかな?」
「あ?まだ時間あんだろ」
「それが結構雨が降っててね。道も混みそうだから早く出たいんだ」
「チッ、分かった」

凛が立ち上がり寝室の方へと消えていく。その姿を無言で見送ってから私はリシャールさんへと視線を移した。

「本当に凛とは何もないので……」
「うん、分かってる。僕も立場上ああ言うしかなくてね。キミのことは信じてるよ」
「ありがとうございます。では、私はこれで失礼しますね」

凛と顔を合す前に荷物をまとめて席を立つ。結果、凛から逃げることになるが、波風立てずに帰るなら今しかない。

「雨が強いけど傘は持っているのかい?」
「ないですけど近くのコンビニで買うので大丈夫です」
「お前も乗ってけばいいだろ」

先程のラフな姿から一転、凛はジャケットを羽織り革靴を履いて戻ってきた。毛の短い絨毯を踏みしめて一歩一歩こちらへと歩いてくる。

「取材場所は六本木だろ?それならお前の家の近くも通る」
「でも……」
「いいだろ、マネージャー」

リシャールさんは私と凛を交互に見て、そして困ったように笑った。

「うん。それくらいならお安い御用さ」





天気予報通りに梅雨入りを迎えた東京の空には分厚い雲が張っていた。雨粒は一つ一つがしっかりとした質量を持っていて、音を立てて窓ガラスを叩く。車内はその雨音とAMラジオのバラエティトークで満たされていたため会話がなくとも気まずくはなかった。
後部座席にスモークが掛けられた『わ』ナンバーのレンタカー。右ハンドルの車であってもリシャールさんの運転は丁寧で随分と手慣れたものだった。そうして大きな渋滞に巻き込まれることなく私の家が近付いてきた。

「あっそこのコンビニで大丈夫です」
「いいの?家の前まで送るよ?」
「いえ、道も狭いですしこの近くなので大丈夫です」

左手に見えたコンビニを指してその駐車場に入ってもらう。家賃と間取りを考慮して選んだアパートはあまり立地条件がよろしくない。キャンパスまでは電車一本で行けるものの最寄り駅までは徒歩で二十分は掛かり、入り組んだ住宅街の真ん中に存在していた。

「それなら後ろのビニール傘を使って。女性が体を冷やすのは良くないからね」
「ありがとうございます。でも濡れる前に家に駆け込むので問題ないです!」
「そうかい?足元には気を付けるんだよ」

コンビニの駐車場に車が停止したところで改めてお礼を述べる。確かに外は土砂降りと言っていいくらいの雨だ。でも帰ったらどのみちすぐにシャワーを浴びるつもりだったので気にすることでもない。
しかし、いざ車から降りようとすれば隣からドアが開く音が聞こえた。ついで湿った空気が車内に流れ込んでくる。

「ちょっと凛ちゃん?!」

リシャールさんの呼び掛け虚しく音を立ててドアは閉められた。コンビニにでも行きたかったのだろうか。しかし私のその予想は全くの的外れであった。

「おい、行くぞ」

何故ならこちら側のドアが開けられたからだ。その先にはビニール袋を一つ引っ提げ、傘を差した凛が立っている。状況が分からず呆気に取られていれば「早くしろ」と急かされた。

「えっ今から取材なんでしょ?遅れちゃうよ」
「いいだろ」

凛は私を無視して運転手側へと声を掛けた。その言い方は許可を取るというよりは決定事項のような言い方で、これにはリシャールさんも頷くしかないようだった。

「いいよ、行っておいで。でも彼女を送ったらすぐ戻ってくるように」
「行くぞ」

手を取られたと思ったらそのまま傘の中へと引き寄せられる。ビニール傘の中は狭い。だから距離を取ることも難しく、肩が触れ合ったまま水溜まりだらけの道を歩いた。
住所こそ知っているが凛はうちに来たことがない。先日、タクシーで一緒に帰った時もコンビニのところで降ろしてもらった。だから、ここだよと指差した三階建てのアパートを凛は物珍しそうに見上げた。

「送ってくれてありがとう」

アパートのエントランスに入ればもう傘の必要はない。だから傘の下から屋根のある場所まで飛び移るように駆け込んだ。しかし振り返ってハッとする。凛の左肩はジャケットの色が変わるほどにはぐっしょりと濡れていた。片や私は雨粒の跳ね返りで足元が濡れた程度。

「すごい濡れてるじゃん!タオルは持ってる?」
「それは別にいい」
「よくないよ!」
「お前の足の方がよくねぇだろ」
「え……」

凛も傘を畳んでエントランスへと足を踏み入れる。そして私の左足へと視線を落した。さすがは脚を使うスポーツ選手と言ったところか。足首の腫れと歩き方がおかしいのに気付いていたらしい。

「ちょっと捻っただけだよ」
「そういうのが後に引きずんだよ。手当てしてやる」
「帰ってちゃんと冷やすからいい」
「もう時間経ってんだから冷やしたって意味ねぇんだよ。それにどうせお前ン家、湿布もテープもなんもねぇだろ」

足元のタイルを鳴らして凛は私の横を通り過ぎてその先の階段を上がっていく。築十二年のアパートにオートロックなどというものはなく、出入り自体は自由だ。だから凛は何に妨害されるわけもなく三〇一号室まで足を進めた。もちろんそこは私の部屋だ。

「ちょっと凛、時間は?」
「何とかなるだろ」
「でもリシャールさんはすぐに戻ってくるようにって言ってたじゃん」
「ならここでお前がごねたらアイツにも迷惑かかんな」

だから早く開けろ、と目が言っている。こうなってしまえば凛が引かないのはいつものこと。だから凛の言う通りに早く家に上げるのが得策なのだ。
昨日、友人が来たから部屋は片付いている。洗濯物が室内に干しっぱなしというわけでもない。そのことを改めて脳内で確認してバッグの中から鍵を取り出した。

「それ、」
「なに?」
「まだ持ってたのかよ」

シルバーの鍵をなくさないようにそこにはストラップを括りつけていた。文鳥のぬいぐるみキーホルダー。真っ白だったそれは長年生活を共にしただけあって大分汚れてしまったけれど今も私の傍にいる。

「……当たり前だよ」

ガチャリと扉を開け先に入り、どうぞと中へ招き入れる。私はすぐ靴を脱ぎ脱衣所から二枚のタオルを取りに行った。そのうちの一枚で手早く自分の足元を拭き、もう一枚を玄関で待っていた凛に渡す。

「使って」
「悪りぃ」
「狭いけど、どうぞ」
「……お邪魔します」

短い廊下を歩きワンルームへと続く扉を開ける。なんかここに凛がいるって変な感じだ。そしてその高身長故に大分窮屈そうに見える。

「意外と物少ねぇな」
「卒業するときには引っ越すからね。増やさないように気を付けてるんだ」
「いつもどこで飯食ってんだ?」
「このテーブル」
「ここで……」

そう言って視線を下へ。なにその「あぁ、机あったんだ」みたいな顔。そりゃあ凛からしたらこの部屋にあるものが全部ミニチュアに見えるんだろうね。

「凛にとってはさぞ小さくて狭くて寛げない部屋だろうけど私は気に入ってるから」
「んなこと言ってねーだろ」
「目がそう語ってた」
「言いがかりはやめろ。つーか時間ねぇんだからベッドの上でいいからとりあえず座れ」

正論を言われてしまえば私も素直に従うしかなくなって、言われた通りにベッドの上に腰を下ろす。
凛は持って来たビニール袋の中の物をローテーブルの上に並べた。湿布にテープに軟膏に絆創膏。私の足の手当てのために必要な物だった。

「それ、リシャールさんが持って来てくれたもの?」
「あぁ」
「凛が頼んでくれたの?」
「……あぁ」
「ありがとう」
「おう」

凛が目の前にしゃがめば普段は絶対に拝めないつむじが見えた。指通りの良さそうなサラサラとした髪。手を伸ばせば触れられる距離にあるのに、今はとても遠く感じた。

「痛くないか?」

私の顔を窺うように向けられたターコイズブルーに意識が現実へと戻る。私の左足首には湿布が貼られており、それを固定するようにテープが半分ほど巻かれていた。どうやら締め付けが強くないか確認をしてくれているらしい。大丈夫、と頷けば凛はそのまま足首を一周するようにテープを巻き付けその端を指で千切った。

「ちょっ……そこはいい!」

そしてもう終わりかと思ったら徐にスカートの裾を払いのけられてビビる。スリットから覗いた膝には確かに擦りむいた痕がある。でもだからってデリカシーはないのか。

「この際ついでだ」
「いいって!ってゆうか時間!」
「なら動くな」

動くなというか、ふくらはぎを掴まれてて動かせないんだが?凛は私のことなどお構いなしに片手で器用に軟膏のパッケージを開ける。うそ、絆創膏貼りつけるだけじゃなくてそれを塗るつもり?
自分が初心だと言いたいわけでもないけれど、ベッドの上で押し倒された後となっては色々と抵抗がある。いや、さすがにそうゆう≠アとにはならないだろうけど、凛にとっては治療以外の何ものでもないだろうけど、ついでに言うなら芋を洗うのと同じ感覚なのだろうけど。でも、

「凛は何も思わないかもしれないけど私は恥ずかしいの!」

言ってやった。そして一瞬、凛が怯んだ隙に脚を引っ込めベッドの上に逃げる。でもこれは同時に最悪の引き金を引いた瞬間でもあった。

「あ?何も思わねぇワケねーだろ」

ワントーン低くなった声色。決してそれは大きくはなかったけれどこの場で重く響いた。また、雨による湿度と閉め切った部屋の空気がその不機嫌さに拍車をかけていた。

「こっちが昨日からどれだけ振り回されてると思ってんだよ。お前のせいでまともに寝れもしなかったわ」

怒鳴るでもなく、けれど一つ一つの単語には確かに凛の感情が乗せられていた。

「それは本当に悪かったと思ってる。だから……」
「『借りは返す』『礼はする』とでも言うつもりか?俺がそれを望んでると本気で思ってんのか?だとしたらお前は救いようのねぇ馬鹿だな」
「待って、私の話を——」

不意に無機質な電子音が会話に割り込む。それは凛のスマホから発せられたもの。
眉根を寄せた凛は一瞬迷い、でも五コール目に渋々いった顔で電話に出た。

「あぁ……もう戻る」

おそらくリシャールさんからだったのだろう。凛は手当てした道具もそのままに立ち上がる。貸したタオルは立ち上がったと同時にラグの上に落ちた。

「凛……!」

部屋を出て行った凛を慌てて追いかける。手当てをしてもらったおかげで足首の痛みは感じない。でもそれ以上の痛みを残したままのお別れなんて絶対に嫌だ。

「私、まだちゃんと凛の質問に答えられてなかったよね?さっきは誤魔化しちゃったけど本当は——」
「もういい」
「お願い、聞いて」

玄関扉が押し開けられれば遠くに聞こえていた雨音が一気に近いものになる。
凛はドアノブに手を掛けたまま動かない。凛、ともう一度名前を呼べば僅かに肩が跳ねた。そしてゆっくりとこちらを振り返る。でもその瞳はすでに私を拒絶していた。それを見て私は怯んでしまった。それはもちろん凛にも伝わる——最後のチャンスを失った瞬間だった。

「お前のぬりぃ考えを聞かされる度に心の底から殺したくなる」

蝶番が鳴いて辺りが薄暗くなった。扉は閉められたというのに余計に雨の音がうるさく聞こえるのは何故だろうか。だからその場にしゃがみ込んで腕の中に顔を埋めた。

雨の日はいつだって凛との思い出が増えてしまう。
それが例え楽しいものではないとしても。

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